風邪をひいた。原因は完全に暖房の効いていないランドリー内に長時間居座っていたせいだった。室内だし、と薄着だったことも要因の一つなのではないか。解熱剤を飲んでいるから動けるものの、身体は気怠いままだった。
 五条先輩の「今風邪引いたら正月寝込むことになるぞ」という言葉が予言となってしまいそうだ。私へ謝罪を口にした彼は、何か言いたげな視線だけ残して昨日実家へ帰って行った。硝子さんや夏油さんも一緒に寮を発ったため、私は三人へ同じように笑みを向け、平等に手を振った。
 何も不自然ではなかったはず。私は何も気にしていないのだと態度で示したかった。彼には今まで通りでいて欲しい。これまで通り、私という存在を嫌悪したままで。
 冬の研ぎ澄まされた空気を吸った。腫れ上がり熱を持った気管に容赦なく刺さって、私はむせ返るように咳を繰り返した。「大丈夫? 風邪?」と覗き込んでくる灰原へ、風邪だということを誤魔化したくて、大掃除でたくさん埃を吸ったからとその場で思いついた簡単な嘘をついた。

「灰原は定期的に物を捨てた方がいいと思う」

 大掃除では物が一番多い灰原の部屋を七海と共に手分けをして片付けたのだ。良く言えば物持ちが良く、悪く言えば断捨離ができないタイプの灰原は、痛いところを突かれたと言いたげに、ゲッと表情に歪める。

「いつのまにあんなに物を溜めてたんですか」
「え〜? だってどれも思い出深いし捨てられなくない?」
「そうだとしても普段から整理整頓しておけば、あんなに大掃除が大変になることはないんですよ」
「一理あるね!」
「実践する気ないでしょう」

 七海に全てを見透かされた灰原は、もう笑うしかないといった様子でアハハとお手本のような笑い声を上げた。
 一方私は、咳についてそれ以上深掘りされることはないと、灰原と七海の会話に耳を傾けながら密かに愁眉を開いていた。

「良いお年をー!」

 実家が遠い灰原を寮の玄関先で送り出した。ガラガラと音を立てて遠ざかっていくスーツケースには、家族と親戚に配るために買い漁られた東京ばな奈が詰まっている。紙袋を両手いっぱいに持ち歩くのは大変だからと、半端無理やり押し込んだのは私だ。
 灰原の軽やかな足取りに、彼の部屋の掃除から荷物の用意まで手伝った甲斐があったと達成感が身体の中を満たした。それが徐々に疲労に代わり、視界がぼうっと歪んでいく。
 開け放したドアに寄りかかって、重怠い身体を支える。見えなくなる寸前の灰原が振り返って大きく手を振るのに、手を振り返して寮の中へ入った。かじかんだ指先をさすりながら部屋へ戻ろうと踵を返したけれど、それは七海に肩を掴まれたことによって阻止された。

「……七海? どうしたの?」
「どうしたの、じゃないですよ。それはこちらが聞きたい」

 眉間に皺を刻んだ七海は、もう見慣れてしまった。
 また不機嫌にさせてしまったと、熱によって意味もなく膨張していく脳内でぼんやりと考えた。

「体調、悪いでしょう」
「……なんで知ってるの」
「今朝食堂で解熱剤を飲んでいたのを見ました」
「あ〜……じゃあ言い逃れはできないねぇ」

 先ほどより体温が上がってきたのか、表情筋を動かすことすら辛く思える。へらりとしか笑うことができなかった私は何となく気不味くなり、比重が増した視線をもたもたと足元へ落とした。

「……そろそろ薬が切れる頃か」

 掴まれていた肩にいつのまにか腕が回っていた。そのまま支えられて自室にたどり着くと、机の目立つところに置いていた薬と水を手渡された。
 私にはそれを拒む理由はない。身体の中心から込み上げてくる悪寒が指先まで伝うのを感じながら、錠剤を摘み出し、口に含んで水によって流し込んだ。食道でつっかえているような気がして、二口、三口と追いやるように再び水を飲んだ。
 飲み込むのに必死で、緩んだ口の端から水滴が零れ落ちる。顔の輪郭に沿い、重力に従って顎先から滴るその瞬間、七海の指先が雫を攫って行った。そればかりか、雫がたどった道筋をなぞるように口の端を、唇を、拭い去る。
 下に垂れてしまえば服を濡らしてしまうかもしれない。そんな焦りに支配された咄嗟の行動だった。そう分かっているのに、未だに七海の意図せぬ指の感触が、唇の薄い皮膚の上で震えている。痺れにも似ていたかもしれない。何故こんなにも動揺しているのか、自分自身の感情だというのに全く分からなかった。呆気に取られ目を見開くと、七海は私が何に驚いたのかに気づいた様子で、まだ半分以上水が残っているペットボトルを奪い取り、傍にあったティッシュを数枚抜き取って私に押し付けた。

「薬が効くまで安静にしていてください」

 苦し紛れに放たれた七海の言葉に、素直に頷きたかったけれど、私も灰原と同じように実家に帰らなければならない。ぼやくようにそう言えば、七海は俯きがちに口を開いた。

「……本当に」
「え?」
「本当に帰らなければいけないんですか?」

 全てを、見透かしている。七海の瞳は諫めるようでもあり、懇願するようでもあった。表情は、形容しがたいほど複雑なもので、思わず喉を鳴らす。ひしひしと訴えかけられる眼差しに追いやられ、私は視線も口調もまごついてしまった。

「そ、それは……そういう約束だし」

 入学してから九ヶ月。どれほど五条悟と関わりが持てたか。今年の正月はその成果を根掘り葉掘り聞くため、帰省するように言われていると言っても過言ではない。億劫であるものの、そこに帰りたくないという私の意思は存在しないのだ。
 それなのに、七海は口にしても無駄だという私の諦めなど蹴飛ばして、凛とした声音で問いかけた。

「皐月さんは、帰りたいんですか?」

 私はゆっくりと首をもたげた。かち合った真っ直ぐな視線が純粋な問いだと主張している。
 深く、静かに息を吐く。

「……帰りたく、ない」

 言葉にしただけで家の呪縛から僅かに解放された気がした。決してそんなはずはないのに、自分の意思を露わにするという行為だけで、気が緩んだ。同時に涙腺が緩んだのを見られたくなくて、私は俯き自分自身の髪で影を作る。

「それなら尚更帰る必要なんてない」
「そんな簡単に割り切れないよ」
「何故?」
「今更、今年は帰りませんなんて言えるわけない……」

 私が言ったところで納得なんかしてもらえない。やるせない思いで首を横に振れば、七海は食い気味で尋ねてくる。

「納得してもらえればいいんですね?」
「まぁ……」

 曖昧に頷くと、七海は部屋の隅で充電器に刺していた携帯電話を掴み、押しつける勢いで私に手渡してきた。

「実家にかけてください」
「え、七海、ちょっと待って」
「早く、かけて」
「分かった……分かったから、近いよ」

 離れて、と発音した唇が、先程の痺れを呼び起こした。熱が駆け巡る。頭のてっぺんから足の先まで暴れ回るものによって、叫び出したい衝動に駆られた。何を、と問われたら、分からない。分からないけれど、この得体の知れない感情を大声でかき消したい。
 携帯のボタンを押し、画面を目でなぞる。連絡帳に登録された無機質な文字を見ているうちに冷静になっていく。
 そうだ。体調不良の今ならどんな症状がこの身体を襲ってもおかしくない。全ては風邪のせいだ。
 何故だか私は胸中で己を言い含めていた。考えたところで分からないことだらけだ。それならもういいや、と半ばヤケクソに実家の電話番号を見つめながら発信ボタンを押した。
 機械的なコールが響く。それを聞いてサッと青ざめた。第一声が思いつかない。そう緊張に乾いた唇を擦り合わせた時、七海が携帯を奪い取った。

「ああ、お世話になっております。呪術専門学校、東京校の夜蛾です」

 ギョッと目を剥いた。ついに七海の気が触れたのかと、声を上げる寸前で口元を手のひらで塞がれた。

「先日から体調を崩しておりまして、年末年始は帰省させずにこちらで預かりたく」

 有無を言わせぬ圧を込めて言い切った七海は「ええ、ええ」と数度相槌を繰り返した末に、電話を切った。
 確かにうちの親は夜蛾先生の声を知らない。だからと言って他人、それも教師を偽るなんて、そんなリスキーな真似を普通するだろうか。しかも、あの七海が。

「七海……」
「なんですその目は」
「いや、だって……」
「貴女にとっては緊急事態でしょう」

 七海が私の知る七海ではないような気がした。しかし、彼は至って真剣な顔をしている。私のためを思っての行動ということは間違いないのだろう。……となれば、今私は彼の新しい一面を見たことになる。
 彼は私を安心させるように「先生には後できちんと報告しておきます」と軽く息を吐く。
 携帯を返されてもなお困惑を隠せない私は、食い入るように彼を見つめていた。

「熱で頭がおかしくなりましたか?」
「いや……それはこっちのセリフだよ。真面目な顔して大胆というか、思い切りがいいというか……」

 ピクリと彼の眉が動いた。どうやら私の発言が納得いかないらしい。彼は決して人相がいいとは言えない顔に、あからさまな不機嫌を乗せて私を見据えた。

「貴女、私をなんだと思ってるんだ」
「非の打ち所がない完璧人間」

 そう即答すれば、彼の薄い唇がへの字に力んだ。
 それを見た私は、何か文句を言われる前に慌ててあと、と言い継いだ。

「やっぱり、優しい」

 私のために何かをしてくれるなんて、優しい以外に何と言えばいいのか。以前同じような問いに、同じような答えを言ったことがあった。その時は酷く怒らせてしまったものの、私の七海への評価は変わらなかった。

「……なんだそれ」

 転がり落ちた独り言のような彼の返答に、私はやはり口に出すべきではなかったと後悔した。

「ごめん……でも本当にそう思ったの。怒らないで」
「怒りませんよ。病人に向かって怒るわけないでしょう」

 詰めた語気からは、とてもそうは見えない。一度放った言葉は取り消せはしないのだから、とにかく真意を伝えるために言葉を連ねる。しかしどの言い方をしても、下手に取り繕っているようにしか聞こえない。それでも、私はこれ以上七海との関係を、どうにもきまりの悪い噛み合わないものにはしたくはなかった。
 その必死さが良くも悪くも七海を諦めさせたようで、彼は私を布団の中に押し込んだ。

「……分かりましたから。一度寝てください。その頃には薬も効いているはずだ」

 私は仕方なしに頷き、掛け布団との間に外気が入らぬよう肩まで被った。そして「ありがとう」と彼を見上げて言った。

「大人しく寝てれば治ると思うから、七海ももう出た方がいいよ。道中気をつけてね」
「はいそうですか、とすんなり頷くと思いますか? 放って置けるわけないでしょう、どうやら優しいらしいので」
「やっぱり怒ってる……」
「怒ってない」

 七海が皮肉めいた口調になればなるほど、自分の態度を否定すればするほど、いつもの彼とは違う一面に触れているような気がする。
 彼は「ごめん」と言った私へ、視線を彷徨わせた後に心底傷ついたような苦しげな表情で呟いた。

「ただ、貴女に優しいと思われたくない」
「……私なんかのために、嘘までついてくれて、看病しようとしてくれてるのに?」
「ええ、その通りです」

 なんだか矛盾している気がする。そう思ったけれど口には出せなかった。しばらくの沈黙を経て、私は帰省の話題に話を戻した。

「七海がここに残るって言っても、家で家族が待ってるんでしょ? それなら余計に悪いよ」
「両親は祖父のいるデンマークへ帰っているので帰ったとしてもどうせ一人ですよ。皆が帰省するから合わせただけで、別に帰らなくてもいいんです。だから気にしないでください」
「……七海」

 私は「ありがとう」と続けようとした。けれど、七海がそれを目で制した。

「優しいから気にかけるわけじゃない」
「そうなの?」

 どれだけ考えても他に理由は思い当たらなかった。それは徐々に意識を侵略していく睡魔のせいなのか。
 答えを待ったけれど七海は教えてはくれなかった。それどころかもっと難解な問いを投げかけてくる。

「どうすれば、優しい人間だというレッテルを剥がせますか」
「優しい人だと思われるのは、悪いことじゃないと思うけど……」
「悪ではないです。でも、それでは駄目だ。駄目なんです」

 ギ、と木が軋む音と共に身体が揺れる。狭まった視界の中で七海の片膝がベッドの上に乗り上げているのを捉えた。

「乱暴すれば嫌いだって伝わりますか」

 震えていた。眼差しが、声が、感情が。行き場のないもどかしさを孕んだ全てが降り注ぐ。それらを全身で受け止めるしかなす術がなく、静かに目を閉じた。
 私は雨に打たれる土壌だった。しきりに浴びせられる彼の切実な願いが、自然の摂理に従い、みるみる浸透し、そのまま通り抜けていく。濡れた事実はあれど、何も得ることはない。ただ水捌けが良いだけの大地。
 そう錯覚するくらいには、身体と布団が一体化していた。寝返りなど打つ気力もなく、瞼を開けることすら億劫だ。目の奥に抗うことができない強力な眠気が重く深く沈み込む。それでも、私は最後の力を振り絞って、口元だけ動かした。

「……七海は、そんなことしないよ」
「じゃあ……何をしたら、貴女にとって最低な人間になれる」
「んー……」

 なんでそんなことを聞くのだろう。なんでそんなに必死なんだろう。
 手繰り寄せていた意識の糸が切れていく。重力に身を任せることの心地よさが、身体の中にこもった熱と混ざり合う。

「──私は、私を嫌いな五条先輩が好きです、なんて貴女が言うから……他にどうしろって言うんですか」

 酷い声色だった。言葉の意味を理解する前に、そう思った。
 七海、とただ彼の苦しみに寄り添うように、呼びかけたつもりだったけれど声にはならなかった。





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永遠に白線