
一瞬の衝撃。直後襲いかかってきた浮遊感。枯れた芝の上に身体を叩きつけた皐月は、絶対的な重力と、それに似た決して超えることの出来ない才能の差を感じるより他なかった。
年始までずるずると引きずっていた風邪はようやく回復し、体術の訓練に励んでいた。午後の授業といえど、だだっ広い校庭は風を遮るものがないせいかとても寒く思えた。
そんな彼女が受け身を取りきれず体勢を崩したところへ、七海はその隙を逃がさないと腕を捻りあげ動きを制限する。うう、と小さくうめいた彼女の声に「私の勝ちですね」と涼しい顔で言い放ちながら、拘束している力を緩めた。
皐月は自分の上に跨った七海を見上げた。
──もしかして、あの日の七海もこんな感じだったのだろうか。ベッドに乗り上げた彼を視界の端に捉えたものの、睡魔によって意識を手放したあの時。今の彼と同じように、私のことを見下ろしていたのだろうか。
「いつまでぼうっとしてるんですか」
「あ、ごめんごめん」
七海が差し出した手を、彼女は迷いなく握った。七海はその信頼を踏みじることがどうしても出来ない。ただ真っ直ぐに信じてもらえることが、どれだけ難しく、尊く、心地の良いものかを知っているから。それらをかなぐり捨ててまで、彼女に好きになってもらうことは果たして意味があることなのか。そうひたすらに逡巡した。
そもそも彼女の自分のことを嫌いな人間が好き≠ニいう感情は、彼女だけの中で完結する気持ちで、互いの関係を進展させるようなものではない。冷静になった今だからこそ分かる。あの時の行動は完全に悪手だった。
「やっぱり苦手だなぁ……」
「体術ですか?」
寒そうに身をすくませる皐月は、声を発さず首肯した。
「七海は得物の扱いも上手だし、同じくらい体術もできるからすごいね」
七海の戦闘スタイルはどちらにも依存しないバランス型だ。不得手な体術をカバーするために、そこそこの術式に頼りきりの自分とは大違いだと彼女は肩を落とした。
夜蛾が作り出した訓練用の呪骸と拳を交えている灰原へ目を向ける。その身一つで戦えるというのも、彼女にとっては素直に羨ましいと思う才能だった。
七海は彼女の独り言のような称賛へ、なんと答えるべきか迷った末に、黙殺することを選んだ。チラリと盗み見た彼女は、末端まで冷え切っているのか鼻の先や耳の端が赤く染まっている。見慣れているはずの横顔が、やけに目に染みついて離れない。
ふいに浮かんだ可愛い≠フ文字に、七海は己の正気を疑いながら我に返った。これまで彼女へ向ける感情と言えば、苦くくるしいものでしかなかったというのに、今さら純粋な恋愛感情の皮を被って歩み寄ってくるようで、もはや可愛いと思ってしまった自分自身が恐ろしかった。
七海はその動揺を隠せず、未だ灰原の手合わせを眺めている彼女に背を向けた。
「……寒いならもう上がっては? また体調崩しますよ」
「七海は?」
「灰原が終わるまで待ちます」
「そっか……」
煮え切らない彼女の返答のせいで、余計居心地が悪い。七海は校庭の端の方まで移動するため、ゆっくりと歩き出した。サク、サク、と芝を踏む音がついてくる。
七海の隣に並んだ彼女は、恐る恐る口火を切った。
「ねぇ、七海。何か欲しいものってある?」
「なんです藪から棒に」
「お礼、したくて」
看病してくれた時の、と呟いた皐月。七海は一瞬目を丸くしたものの、すぐに頭を振った。
「……いえ、いいんですよ。私が勝手にやったことですし、早く忘れてください」
「忘れて欲しいの……?」
今思い返しても、あの時は気が動転していた。自分らしからぬ行動と言動。忘れてくれるのなら、今すぐ記憶を抹消して欲しい。
七海はすぐさま「はい、そうしてください」と言って、歩幅を大きくした。
それが強制的に話題を断ち切るための意思表示だということは、皐月も理解していた。しかし、このままでは永遠に彼との溝が埋まることはない。
「待って」
皐月は咄嗟に七海の腕を掴んだ。そして必死に彼を見上げた。
「忘れて欲しい、なんて言わないで」
「……何故」
「忘れたら……感謝、できなくなっちゃうから」
真っ直ぐな眼差しでそう言われてしまえば、言われたこちら側がこそばゆくなってくる。七海は羞恥心半分、感心半分で彼女を見つめ返した。
「……なんだか、以前より図太くなりましたね」
「ごめん……」
おずおずと手を離した彼女に、別に謝ることではないと諭した。
「貴女は図太いくらいがちょうどいい」
「そう……?」
「繊細すぎるんですよ。悪いことではないとは思いますが、貴女自身が損をする」
彼女のいまいちピンとこない様子に、やっぱりと諦めながらも、七海は「貴女はもっと怒っていいと思います」と零した。
この世に生まれた理由をひたすら独りで抱え嘆くなら、親に、五条に、この世にだって怒りをぶつけたっていいとさえ七海は思った。
嫌悪しながらも親に怯え従うのも、五条のせいではないと言い聞かせるように正論を吐くのも、初めから諦めたように呪術界に縛られているのも、全て彼女のためにならない。何か一つ、怒りというエネルギーをぶつけてみたら、周りに忖度する暇もなく自分の意思を主張することができるかもしれない。それが全て良い方向に転がるとは限らないけれど、確実に彼女自身のためにはなる。
七海が思い出したように「欲しいもの、なんでもいいんですか?」と問えば、皐月は目に見えて表情を明るくした。
「うん。あんまり高価なものはちょっと厳しいかもしれないけど」
「高価なものとは?」
「え? えーと……車とか、別荘とか……?」
「いりませんよ。仮に必要だったとしても人にねだるマネはしません」
「だ、だよね〜……」
半笑いでその場の空気を誤魔化す彼女の腕を、今度は七海が引いた。
「そんなものより、私は……気持ちが欲しい」
「気持ち?」
「ええ。皐月さん、貴女の」
欲しいもの、と彼女に聞かれたらそれしかない。彼女からの純粋な恋愛感情としての好意。それさえあれば、胸の内で燻る醜くざらついた感情から解放される。
「気持ちだけでいいの?」
「…………」
まぁ、彼女が分かるわけがない。七海の予想通り、彼の想いは正しい意味で伝わってはいなかった。
呆れとやるせなさで黙り込んだ七海に、「答えはいつでもいいから、もう少し考えてみて」と彼女は微笑んだ。
「……なんでそこまで」
「七海には、本当に感謝してるから」
そんなに恩義を感じてもらうようなことだっただろうか。七海が物思いに耽ろうとした時、頭上から「おい」と声が降ってくる。
見上げれば階段の上に五条が立っていた。彼は皐月の腕を七海が掴んでいる様子を一瞥すると、何も言わずに階段を降り、少々乱暴に空いている方の彼女の腕を引いた。
「五条先輩……? どうかしましたか?」
皐月は戸惑いながら問いかける。しかし、五条が答えることはない。彼女は七海の手を離れ、もつれる足元に気をつけながら五条についていくしかなかった。
「あの、五条先輩」
「いいから」
流石にどこへ連れていかれているのか気になった彼女が声をかけるけれど、五条の一言で口を噤んだ。
彼の大きな歩幅では、小走りしなければ追いつけない。校舎の方へ向かっているのか、と彼女が予測をつけた時、石畳の段差に躓いた。
転ぶ、と思った刹那、五条に引っ張り上げられる。なんとか転倒は阻止したものの、彼は驚いた表情で彼女を凝視していた。
「つめた」
「ああ……しばらく外にいたからですかね」
手を握った五条は、彼女の「ありがとうございます」という礼を聞き流して、その冷たく頼りない感触を確かめていた。
「やっぱこっち」
「え……」
進行方向に背を向け、再び歩き出した五条に連れられて自動販売機の前までやってきた。同じボタンを二つ押した彼は、出てきた片方を皐月へ押し付けた。