「やる」
「ありがとう、ございます……」

 身体が冷えていたことを気遣ってくれたのだろうか、と疑問に思った彼女は、少し熱く感じるココアの缶を手の中で転がした。

「風邪」

 一つ単語を言い放った五条に、彼女は「え?」と顔を上げた。

「風邪、ひいてたんだろ」
「あ、はい……今はもう治りましたけど」
「ふぅん」

 興味のないようにも取れる相槌。それは何と返答して良いか咄嗟に思いつかなかった末に、つい零れ落ちてしまったその場を繋ぐためのものでしかなかった。
 五条はココアを口にした。少しざらついた舌触りを転がして、飲み込む。

「じゃあ……なおさら身体冷やしたら駄目だろ。ぶり返しても知らないからな」

 精神的に傷つけてしまったばかりか、体調を崩してしまった彼女のことはずっと気がかりだった。しかし彼女は気にするなと態度で示すので、それに従わないわけにはいかない。だからこそ、彼女自身には気にかけていること自体悟られたくなかった。

「風邪をひいたのは先輩のせいじゃないですよ。現にちゃんと助言してもらっていたのに、あそこに居続けたのは私ですから」
「いや、それは……まぁ」
「五条先輩が気に病む必要なんてないですよ」

 予想通りの返答に、五条は何も言えなかった。その代わり空になった缶をゴミ箱へ捨てる。
 ガランと中で缶同士のぶつかる音が響く。どこか静まり返った会話の間を埋めてくれたような気がした。

「──お前、俺の事好きなんじゃなかったの」

 わざわざ七海の元から引き離してまで、尋ねたかった本題を口にする。
 皐月は不意を突かれたように、えと声を上げたものの、すぐに「あぁ、そうですね」と何事もなく頷いた。

「俺がお前のこと嫌いだから?」
「はい、そうですけど……」
「じゃあ、七海は」

 戸惑いながらも答える彼女へ、五条は畳み掛ける。しかし続きの言葉は、その場に近づく足音によって遮られた。

「皐月……?」

 見ない顔だ。中年の男女が二人、彼女の名前を呼んだ。
 彼らは皐月から隣の五条へ視線を向け、すぐさま驚愕と歓喜に顔色を変えた。

「五条、悟様でいらっしゃいますか!」
「あ? 何だコイツら」

 訝しげに眉を寄せた五条は、皐月を見た。彼女は今までにないほど真っ青な顔をして硬直している。

「申し遅れました、久世と申します。皐月がいつもお世話になっております」

 そう言いながら歩み寄ってくる彼らを前に、彼女はとにかく気が狂いそうだった。つらつらとの彼らの口から発せられる言葉の全てが、意味のない音に聞こえる。
 気持ち悪い、と思う彼女の心境など、察してくれるわけもなく、両親はひたすら五条へ声をかけていた。

「正月に娘の顔を見れなかったものですから、様子を見に参ったのですが……まさか悟様にお会いできるとは……!」
「これも何かの縁でしょう、もしよろしければ」
「──帰って」

 爆発しそうな感情と共に、彼女は震える喉元を無理やりこじ開けた。揺れた声音は怯えたものではなく、ただただ純粋な怒りによるものだった。
 彼女の顔を見に来たなどと口では言っているが、実際は体調を崩していた我が子への労りの言葉などなく、夢にまで見た五条との繋がりを手放さないよう必死に擦り寄ることしか頭にない。
 つまり彼らにとって、彼女の体調不良など取るに足らないことで、帰省しなかったことでさえも高専へ赴く口実としか思っていない。むしろ、思惑通りに五条と距離を縮めている娘へ、内心よくやったと褒めたたえていた。
 そんな見え透いた考えに吐き気を覚えた彼女は、全身を蝕む悪寒を掻き抱いて叫ぶしかなかった。

「お願いだから、それ以上喋らないで……!」
「親に向かってなんてことを言うんだ!」
「こんなところでまでやって来て、恥を晒さないでよ……」

 よりにもよって何故五条の前なんだ。彼女は今すぐにでも彼の視界を塞ぎたかった。
 本来なら五条は見なくても良い光景。彼女は口では両親の醜悪さを語っていたけれど、実際に彼の目に触れて良いものではないと思っていた。それは彼女が思う一番の恥≠ノあたる行為だった。

「申し訳ございません。不束な娘ですが、今後ともどうぞよしなに」

 ついに限界を迎えた娘を叱りつけた父親の横で、母親が五条へ機嫌を取るべく声をかけた。

「言いたいことってそれだけ?」

 感情のない五条の言葉に、彼らは冷や水を浴びせられたかのように凍りついた。
 五条は行き場のない怒りに震えている皐月を一瞥してから、彼女をこの世に産み落とした張本人たちを見下ろした。

「どいつもこいつも、自分のことばっかだな」

 五条は軽蔑を乗せたため息を吐いた。自分自身も含めた言葉は、ぐさりと胸の奥底に刺さった。
 孕ませてやる、だなんて軽々しく冗談にして良いものではなかった。今まで一度も見たことのない表情で憤った彼女を見て、ようやくその重みが理解できた。
 言葉だけでは想像が及ばなかった、彼女を追い詰めているもの。それが何であるのかを目の当たりにしなければ、本当の意味で理解できなかったことを思うと、己の愚かさが浮き彫りになっていく。
 今すぐ彼女へ手を差し伸べてやりたかった。しかし、両親の前ではそんな簡単なことでさえも出来ない。また彼女を傷つけるくらいなら、一貫した冷徹さを持って接するべきだと腹を括るしかなかった。

「お取り込み中のところ申し訳ありません」

 この場にいる者ではない声が響く。振り返ると七海が顔色一つ変えずに立っていた。

「来客があった場合は、初めに学長の元へ通すよう言われているのでご案内します」

 そう言って颯爽と両者の間に割り込んだ七海は、彼女の両親に己の後に続くよう視線を向ける。その有無を言わせない雰囲気に、彼らはバツが悪そうに歩き出した。
 七海の機転に助けられた。感謝はしている。しかし、五条はどうしても筆舌に尽くし難い思いが拭えなかった。
 七海たちが向かった方へ目を向ける。姿が見えなくなったのを確認して、皐月へ声をかけた。

「落ち着け。もう行ったから」

 荒い呼吸と共に、未だ小さく震えている彼女の背をさすろうと手で触れるけれど、怯えたように距離を取られる。
 五条は張り詰めた末に零れ落ちる彼女の涙を目で追う。いくつも重なり合うコンクリート上の染みに、自分が何を言うべきか悟った。悟る他なかった。
 彼女が今一番必要にしている言葉は、彼にしか口にできないものだった。

「安心しろ、お前のことちゃんと嫌いだから。お前の親が望んだようなことにはならない、絶対に」

 彼女の乱れた呼吸が落ち着いていく。その事実に、安堵と絶望が同時に押し寄せた。
 拒絶。そして、嫌悪でしか彼女を癒すことができないなんて。彼女をこうまで歪めてしまった五条悟≠ニは、一体何なのだろうか。そうやって自身の存在を疑うほど、やるせなかった。
 五条は緩やかに己を支配する虚無を前に、ただ佇むしかなかった。





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永遠に白線