
怒りで頭の中が真っ白になる。そんな表現は今までただの比喩かと思っていた。
自室に戻ってくるまでの記憶がない。ただ私の背を押す大きな手のひらの感触だけがここまで導いていた。
「……もう、何も考えるな」
五条先輩はベッドに私を座らせ、少々乱雑に頭から布団を被せた。目の前が暗くなる。私だけの小さな世界。息が楽になるどころか、ただただ息苦しかった。
思考を止める。それはどうやっても無理な話だった。冷静になっていくにつれて、一度空っぽになった私の中に再び怒りがなだれ込んでくる。身を削ぐような絶望感とは違う激しい憤り。爆発的に感情が次から次へと生まれてくるなんて、生まれてこの方一度もなかったせいか、どうして良いかわからない。完全に感情を受け止める器が決壊している。キャパオーバー。その言葉にできない混乱した想いが涙となって身体の外へ流れていく。
まさか両親がやってくるなんて思ってもみなかった。あの人たちの五条先輩を見る目が、脳内にこびり付いて離れない。歓喜に震える眼差し。昂りに収縮する瞳孔。私だけでは飽き足りず、畏れ多くも五条悟でさえ利用しようとする卑しい品性。そのどれもが受け付けない。
嫌悪感が胸を引き裂く。そのままこの身も引き裂いて欲しかった。拒絶したい全てのものから私自身が成り立っていることが何より苦しい。
込み上げる悔しさと共に再び涙が溢れた。頭上から「泣くなよ」と少しだけ張りのない五条先輩の声が降ってくる。
それが何故だか許せなかった。彼が私に対して弱気であっていいわけがない。
「……ちゃんと、言ってください」
「は……? 何を」
嗚咽を噛み殺す。喉の奥が小さく震える。それは行き場のない怒りを逃すための八つ当たりだった。
私は被せられた布団から顔を出した。息苦しさから解き放たれて胸いっぱいに息を吸い、五条先輩を見上げた。
「さっきみたいに、嫌いだって……もっとちゃんと、私を否定してください……」
全てを吐き出すように喉の奥を絞る。安堵を求めて袖を引く。そして、その手が振り払われることを期待して、縋り付くように彼を見つめた。とにかく彼から責められたかった。見苦しいものを見せてしまったことを、罰して欲しかった。
カーテンの隙間から差し込んだ西日が五条先輩の頬を照らし、サングラスの縁に反射している。彼は息を呑んで動きを止めた。曝け出した喉仏が上下する。
彼の表情から血の気が引いた。その様子を食い入るように見つめていると、瞬く間に血が逆流したかのように彼の顔が真っ赤に染まっていく。
一転した彼の異変に、私は目を見開く。視界の中の彼は何か言いたげに唇を戦慄かせている。そして、期待通りに私の手を振り払い、叫んだ。
「お、お前の泣き顔、ぶさいくなんだよ……っ! こっち向けんなっ!」
「え……あ、すみません」
想像と全く違う罵倒のされ方に、涙は一瞬で止まってしまった。自身の内面や存在自体に向けた、的確な否定の刃に貫かれる気満々だったせいか、拍子抜けしてしまう。しかし言われてみれば、ぐちゃぐちゃに泣き腫らした顔なんて確かに見れたものじゃないよな、とすぐに思い直し謝った。
戸惑いながら傍にあったティッシュを抜き取って涙を拭う。チラリと五条先輩を見上げると、彼は私を視界に入れないようにするためか顔を背けていた。
「お前の泣き顔見ると……思い出すんだよ」
何を、と問う前に、彼は私に背を向け歩き出す。そのまま部屋を出て「飯食って早く寝ろ」と言い残し、後ろ手にドアを閉めた。
取り残された私は、わけが分からず閉じられた扉を見つめるしかない。
……彼は思い出すと言った。彼の前で泣いたことは過去にもある。星漿体護衛任務のあの時。私が彼の怒りを買ってしまったことを思い出すのだろう。
申し訳ないことをした。謝った方が良いだろうかとも思ったけれど、また私の顔を見せて不快にさせるのも忍びない。
やっぱり私は五条先輩とは関わらない方がいい。家の思い通りにさせないためにも、彼自身のためにも。
そう決意してからどれくらいたっただろうか。ベッドの上でぼんやりと横になっていると、部屋の扉をノックされる。一瞬狸寝入りでもしてやり過ごそうかと思ったけれど、外から「七海です」と声が聞こえる。私は布団の中から這い出て、すぐに扉を開けた。
「……大丈夫ですか」
七海の気遣うような、探るような声音。無表情に等しいけれど、不安に揺れた瞳。
私は力なく笑う。
「うん、思ったよりも大丈夫かも……五条先輩のおかげ」
それを聞いた七海は「五条さんの?」と訝しげに眉を顰めた。しかし私はそれよりも、事の顛末の方が知りたかった。両親は無事に帰ったのか、誰かに失礼なことを言わなかったか、また五条先輩に迷惑をかけなかったか、と捲し立てて質問する。七海はそれら全てを押し留めて、手に持っていた膳の存在を見せる。
「とにかく、何も食べてないでしょう? 夕飯持ってきました」
「……ありがとう」
彩り良く皿の上に盛り付けられた食事は出来たてなのか、温め直してくれたのか、湯気が立っている。微かな空腹を誘う匂いが鼻腔をくすぐった。
部屋の中に招き入れると、七海はどこか手慣れた様子で膳を机の上に乗せ、電気のスイッチを押し、部屋の隅からクッションを二つ持ってくる。ベッドサイドを背もたれにするように並べた後、その左側に腰を下ろした。「どうしたんですか?」といつまで経っても部屋の入り口で立ち尽くしている私に問いかけた。
「ううん、なんでもない」
看病してくれた時に私の部屋に慣れたのだろうと腑に落ちて、首を横に振る。私は不思議とこの空間に馴染む彼に促されるまま膳の前に座った。
手を合わせて箸を持つ。ゆっくりと口に運んでいく私の横で、七海は両親のことを語った。学長や先生が上手く対応してくれたらしく、大人しく帰ったことを知り胸を撫で下ろす。ただ、娘の同級生の七海と灰原が一般家庭の出だと知るとあからさまに態度が一変したと言う話を聞き、どこまで性根が腐っているんだと力なく項垂れるしなかった。
「ほんとにごめん……灰原にも謝らなきゃ」
「いえ、灰原には謝罪より感謝したほうがいいですよ」
七海がそう口にする意味が分からず首を傾げる。
話によれば灰原は両親の態度などもろともせず、あの天真爛漫な性格で勇猛果敢に歩み寄ったらしい。
「貴女の両親、たじたじでしたよ。この間の任務での話とか、学校生活での話とか、一気に話して最後は皐月さん頑張ってますよ!∞応援してあげてください!≠ナまとめましたからね。流石に居心地が悪くなったのか、すぐに帰って行きました」
「一切悪意のない顔でそんなこと言われたら何も言えなくなるのが想像つくよ……」
「嫌味を言われても嫌味として受け取りませんからね。灰原と皐月さんを足して二で割ったらちょうど良くなりそうですね」
灰原の真っ直ぐな明るさには何度も救われた。その度にわたしもこうであったら、と憧れを抱く。その時のことを思い浮かべながら「それは否定できないかも」と頷いた。
食事を終え、一息つくと無意識に、疲れたと口から漏れ出た。七海にも苦労をかけてしまったのに、自分だけ弱音を吐くのは居た堪れなくて慌てて口を開いた。
「いろんな人に迷惑かけて申し訳ないな……なんだか、いろいろとタイミングが悪いよね」
五条先輩と一緒にいる時に両親がやって来てしまったこと。帰省しなかったことで両親が訪れる理由を作ってしまったこと。その全ての原因、私が風邪を引いてしまったこと。点と線で繋がっていき、最悪の事態を導いていたことに気づく。
独り言のようにそう呟けば、七海は膝の上で手首を強く握った。
「……謝りませんよ」
「七海が? なんで?」
彼に非はない。むしろ感謝の気持ちしかないというのに、彼は苦い顔でその訳を絞り出した。
「あの日、無理やり引き止めていなければ、今日貴女の両親が来ることはなかった。こうやって貴女が傷つくこともなかったはずだ。それでも、私はあの日の行いが間違っていたとは思えない」
「これでよかったんだよ。……あの人たちから逃げても何も変わらない」
そう、今さら何を後悔しても結果論に過ぎないのだ。七海は何も気に病む必要はない。
「でも七海が庇ってくれたのも、看病してくれたのも、すごく嬉しかった。ありがとう」
「──変わらないなんて、そんなことは絶対にありえない」
七海は笑みを作った私の手首を、それまで自分でしていたようにしっかりと掴んだ。
薄い瞼が瞬く。日本人離れした薄い色彩の瞳が、私を捉えて離さない。
「変えられますよ」
「……なんで、そう思うの?」
「だって皐月さん、ちゃんと怒れたじゃないですか」
思いがけない言葉に私は目を見開いた。息が詰まる。
負の感情を曝け出す行為は、決して悪いことばかりではないのだと彼の表情が語っていた。
「それだって変化には違いない」
真っ直ぐにそう言った七海は「そうでしょう?」と同意を求め、こちらへ身を乗り出す。必然的に距離がつまる。
小さく跳ねた心音を誤魔化すために「うん」と頷くしかなかった。その様子を見た彼は、それまで張り詰めていたものを緩め、ふぅと息を吐いた。
「やっぱり性に合わないことをするのは良くない」
「……どういうこと?」
「いえ、こちらの話です」