雪が降るはずだった。天気予報で映し出された雪だるまのマークを思い浮かべながら、廊下の窓から遠くの空を眺める。昨日から厚い雲に覆われているけれど、雪が降る気配はない。むしろ頭上の雲間からは日差しが差し込んでいる。日光を吸収しやすい全身真っ黒な制服は、微かな温もりを拾い上げていた。
 教室に向かう道すがら、前方からやってきた先輩たちに鉢合わせる。すれ違いざまに「なぁ」と声をかけられた。

「バレンタインって知ってる?」

 五条先輩は唐突に問いかけた。
 私は彼の真意を汲み取れず困惑しながらも「はい、知ってますけど」と答える。顔を見せるなと言われたあれ以来、彼と話す機会がなかったせいか、言葉を交わすのは随分と久しぶりに思えた。何となく目を合わせにくい。真っ黒なサングラス越しに垣間見える青色が、私を写し出すことに抵抗があった。
 そう思いを巡らせる私を前に、彼らの背後にいた硝子さんはガッツポーズを取りながら煙草の箱を天に掲げた。

「私の勝ちだな。クズ共、同じ銘柄のやつ1カートンずつ寄越しな」
「敢えて裏をかく必要なかったね」

 眉を下げて息を吐く夏油さんへ「賭けは賭けだからね」と勝ち誇ったように笑う硝子さん。
 一体何事なんだ、と首を傾げながら、廊下に落ちていた陽だまりの中で彼らに向き直った。

「何に賭けてたんですか?」
「そのまんまだよ。皐月がバレンタインを知ってるか、知らないか」
「えぇ……? 何でそんなことを」

 確かに古くからある家の出ではあるけれど、バレンタインを知らないほど浮世離れしているわけではない。家柄に関しては歴史があることだけが唯一の長所で、全ての短所の原因でもある。その他は普通の人たちと何ら変わりはない。昨日のバレンタインだって七海と灰原へ日頃の感謝と一緒にチョコを渡したばかりだ。
 戸惑いを隠せない私へ、硝子さんが悪い笑顔を浮かべて肩に腕を回した。

「それは今から五条が教えてくれるってさ」
「はぁ……」

 硝子さんは五条先輩の方を顎で指す。促されるままに彼へ視線を移すと、本人は焦ったように声を上げた。

「ハァ!? 硝子、お前な!」
「理由も知らせないで皐月だけ仲間外れにするなんて可哀想だろ」

 なぁ? と彼女に同意を求められるけれど、素直に頷くわけにもいかない。曖昧に視線を泳がせると、行き着いた先は夏油さんだった。助けてくれないかな、と期待を込めて彼を見る。すると彼はやれやれと言いたげに、隣に立つ五条さんの肩を小突いた。

「悟、さっさと吐きなよ。皐月が困ってる」
「ったく、なんで俺が」
「言い出したのは悟だろう」

 不本意を全面的に押し出した五条先輩は、私を見下ろしてしぶしぶ口を開いた。

「俺たち、お前からチョコ貰ってないんだけど」
「俺たち≠セってさ」
「巻き込むなよ、五条」
「はぁ? お前らだって同じこと言ってたじゃん」

 口々に言い合った言葉が頭の上を飛び交う。五条先輩は「義理でも渡してきそうな顔してんじゃん」と私を指さした。それを夏油さんに咎められ、小姑かと舌を突き出し小馬鹿にする。彼らの纏う空気がピリッと張り詰めた。
 一触即発の雰囲気の中で硝子さんだけは、まるで二人のことが見えていないかのように動じることなく、私の顔を覗き込んだ。

「このクソ少ない生徒の中でチョコくれそうなの、どう考えても皐月だけじゃん? それが貰えなかったからそもそもバレンタイン自体知らないんじゃないかって話になってさ」
「それで賭けになったと」
「そういうこと」

 先輩達らしい話の流れだ。私達一年だけだとそんな話は出たこともない。確実に七海が乗らないということが分かりきっている。
 私はすぐそこにある硝子さんの顔を伺った。

「硝子さん、甘いもの得意じゃないですよね?」
「うん」
「硝子さん一人だけあげないで、夏油さん達に渡すのもなんか変だし……それなら灰原と七海だけで……と思いまして」

 灰原は言わずもがな、七海も意外と食に対して前のめりだったりする。何でも美味しく食べられる人達だから渡しやすかった、というのもある。それに先輩達へ渡すのに比べて同級生ならハードルも低い。
 彼らにチョコを渡さなかった理由を挙げればキリがない。しかし、その中でも大きな理由が一つ。

「それに……五条先輩に、不細工な顔を見せるなって……」

 顔を合わせるのが申し訳なくて、と白状する。恐る恐る本人を見れば、あんぐりと大きな口を開けていた。

「それは! 泣き顔のことだろ!」
「悟、それはない」
「ガキめ」
「ハァ〜!? 俺だってなっ!」

 慌てたように声を上げた五条先輩は、続く言葉を探している。
 確かに泣き顔のことだったかもしれない。振り払われた手の感触を思い返しながら、ひとり納得する。
 しかし、バレンタインのこと言及されるとは思わなかった。彼なら他の女性から山のように貰っているだろうし、私のような立場の人間が渡して良いとも思えなかった。恋愛色が強い行事で彼と絡むのは、今の状況としても良くない。万が一にも両親の耳に入りでもすれば、彼らを調子に乗らせるだけだ。
 そう思いながらも、ただ単に甘党である彼が手近な糖分を求めているだけなのだろうと解を導き出す。私は冷蔵庫の中を思い浮かべた。まだ七海と灰原にあげたガトーショコラの材料が少し残っている。

「チョコ、いりますか?」
「べっつに? 貰ってないとは言ったけど、貰いたいとは言ってないし」

 不意に問いかけた質問の答えは、言われてみれば彼の主張の通りだった。
 確かに、と何度か曖昧に頷いた。そんな私へ夏油さんは「困らせてごめんね」と肩をすくめ、五条先輩の肩を押しその場を後にした。






 
 見慣れた扉の前で、私はただ立ち尽くす。目の前にあるのは行く手を阻む巨大な壁ではないし、巧妙な絡繰が仕掛けられている開かずの間でもない。立ち塞がっているドアを一枚挟んだ先は自室ではなかった。変に馴染みがあるのは、ただ寮の部屋の外観がみんな同じなだけ。そんな他人の部屋の前で、先ほどから微動だにもできていない。
 室内からは微かな物音がする。この部屋の主はまだ就寝には至っていないらしい。そのことに安堵と焦燥が入り混じる。
 いつまでもこうしているわけにはいかない。こんなところを誰かに見られたら、男子寮の廊下で挙動不審な行動を取る変な女だと思われかねない。私は意を決してドアを三度ノックする。思ったよりも控えめな音になってしまったのにもかかわらず、中にいる人物はしっかりと音を拾い上げて扉を開けた。

「ノックするとか珍しー」

 いつも部屋を訪れているであろう夏油さんや硝子さんだと思ったのだろうか。いつもの調子でそう言いかけた五条先輩は、私の存在を目視すると「なんで」と零す。掠れた声。その狼狽えた声音に、私は間髪を入れず口を開いた。

「あ、あの。昼間のことで」

 弾かれたように見開いた瞳は、決まりが悪いのかすぐに瞬きに変わった。
 私はおずおずと手に持っていた未開封の板チョコを差し出した。

「余りのチョコで申し訳ないんですけど……」

 半端に残った材料では何も作れず、そのままにしておいたのが逆に良かったのかもしれない。彼からしてみれば目の届かないところで手が加えられるなんてもっての外だろう。既製品への絶大なる信頼を胸に手渡したチョコレート。そのパッケージを彼はしげしげと見つめている。

「も」
「も……?」
「……貰ってやらなくもない」

 いらねー、と一蹴されると思っていたのに。完全に予想とは違った反応だった。「いらなければ灰原にでも渡せば食べてくれると思います」と後からフォローを入れれば、「いるって言ってんの」とぶっきらぼうな答えが返ってきた。私は「そうですか」と口の中で曖昧に呟くしかなかった。
 沈黙が気まずい。私は静寂を取り繕うようにして、彼にチョコを手渡そうと思ったわけを口にした。

「五条先輩にはたくさん迷惑をかけたのに、あの時は自分のことしか考えてなくて……本当にすみません。ちゃんと顔を合わせて謝る機会を自分から作る勇気もなくて、チョコに力を借りてしまったんですけど、今度もっときちんとした形でお詫びをできればと……」
「別に、詫びる必要なんてないだろ」

 自然と下がっていった視線の先に彼の言葉が落ちた。
 私は顔を上げる。どこまでも澄んだ瞳が見下ろしていた。

「俺、両親に対するお前の態度を見るまで、分かったようでいて何も分かってなかった」

 彼は余計な感情を全て取り払い、事実のみを口にしたようだった。いつもなら、私のことなど五条先輩が理解する必要はない、と言うだろう。しかしあまりに真剣な眼差しに、私は何も反応できずに息を呑んだ。

「それでも、強くなってあいつらのこと黙らせればいいのに、とは思う。生きたいように生きるって、突き放せるくらいはできるかもしれない」
「そんな……誰もが五条先輩みたいになれるわけじゃ」
「まぁ、俺強いしな。みんながみんなそうなれるわけじゃないのは分かってる。それでも高専にいる間、どうせ術師として鍛錬しないといけないなら、死ぬ気で努力してみるのも悪くないと思うけどね」

 返す言葉が見つからなかった。
 私は初めから何もかも諦めていた。呪術師になんてなりたくはないのに、頑張ることに何の意味があるのか。頑張ってもどうせ行き着く先はあの家なのだと、高専に来る前から投げやりになっていた。やるなら徹底的に、と思う気概など欠片もなかった。
 そして私がそれなりにしてきた努力と思っていたものは、努力のうちにも入らなかったのだ。努力の先に報われる未来を見出そうとしていたことを突きつけられたような気がして、恥ずかしく思えた。

「言っておくけど今まで努力してきてないって意味じゃない。努力にも色々種類があるわけ。ただがむしゃらに前に進む努力が必要な時もあれば、冷静に努力する方向性を分析しなきゃいけない時もある」

 私の浅慮などお見通しなのかそう言った五条先輩は、まるで教えを説くように客観的に進むべき道を示した。

「今皐月に必要なのは間違いなく後者だ。今までその努力の仕方を知らなかったのなら、学べばいいだけだし。そもそも呪術高専ってそういう場所だろ」

 彼の言い分はもっともだった。だからこそ、いかに己が自己中心的な考えをしていたか思い知らされた。凝り固まった思考が洗われるような感覚に、私は視野を広げることすら忘れていたことを自覚する。
 未だ言葉を探している私へ、ぽつり彼が漏らした。

「俺のこと、利用しろよ」
「え……?」

 どういう意味か理解ができず呆けていた私に、彼は「あ〜! だからっ!」ともどかしそうに頭を掻く。

「稽古つけてやるって言ってんの。どうせ卒業までのあと数年しか関わらないんだから、その間に利用できるもの全部利用して自分の肥やしにするくらい強かでなきゃやっていけねーだろ」

 私はぽかんと開けていた口を閉ざし、戸惑いがちに再び口を開いた。

「そんな割り切った考え、思いつきもしなかったです……なんというか、五条先輩は前向きですね」
「どう考えてもお前が後ろ向きすぎるだけだろ」

 ハァ〜と大袈裟なため息を吐いた彼は、小突くように私の脳天へ手刀を落とす。そして「稽古では手加減しないからな」とだけ言い残して部屋の中へ戻って行った。





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永遠に白線