白いチョークが滑らかに黒板の上を走っていく。コツコツと小気味良い音が、放課後の教室に響いた。私はその音に耳を傾けながら、静かに教卓に立つ五条先輩の背中を見つめていた。
 この場にいるのは私と彼の二人だけ。常日頃から生徒が少ないせいで物寂しく感じる空間が、余計に広く感じた。
 五条先輩との稽古は体術や任務などの実践だけではなく、こうした普段の授業と同じような座学も含まれていた。

「どんな術式でも考え方一つで用途を変えられる。要は祓い方は無限にあるってこと。じゃあその上で今のお前に必要なもの、わかるだろ?」

 チョークを手に持ったまま、くるりと振り返った五条先輩の問いかけに、私は戸惑いながら「え、ええと……」と唸った。
 決して集中を欠いていたわけではない。簡単に考え方一つで≠ニ言うけれど、その考えが広がらないのだ。
 それを正直に言うと五条先輩はハァ〜と大きなため息を吐き、呆れた視線をこちらに向けた。大袈裟とも投げやりとも言える動作で教卓の上に頬杖をつくと、目の前の席に座る私の顔を覗き込み「お前、頭悪いな」とぼやいた。

「座学の成績はそんなに悪くないはずですけど……」

 肩を竦めおずおずと切り出すと、五条先輩は指をさすように持っていたチョークをピッと私の鼻先に向けた。

「教えられたことを詰め込むだけの座学は関係ないだろ」
「う……」
「まぁ、頭が悪いっていうか固いんだよなぁ。もっと肩の力を抜いて気楽に考えろよ」

 自分では特に肩肘張っているつもりはないので、気楽さを意識するのは逆に難しい。そう思うのと同時に、そういうところが彼の言う頭が固い部分なのだろうと察しがついた。
 私は「はい」と素直に頷き、五条先輩を見上げる。その様子を見た彼は、ひとまず良しとしたのか鼻先に向けていたチョークを引き下げた。

「瞬発的な発想力と応用力。この二つが今のお前に足りないの、わかる?」
「な、なるほど……」
「自分が置かれた状況にどう対応するかは、ある程度型にはまっている場合が多いけど、その時々によって変わる。だからあらゆる状況に対応できるように手数を増やす。そして、その増えた選択肢の中から最良の選択を下す。それを瞬時に実践でできるようになるのがお前の課題だ」

 手の中でくるりとチョークを回した彼は、黒板に簡単な絵を描き始めた。恐らく呪霊なのだろう。ぐちゃぐちゃに塗りつぶした歪な形のそれを満足気に見つめて「よし」と呟いた彼に胸の内で苦笑する。どうやらあの五条悟でも絵は得意ではないらしい。

「手数を増やすって言っても、いきなり難易度が高いところに挑戦する必要はない。お前の術式を発動するための最低条件は?」
「自分の呪力で対象を捉えることです。一定の呪力が相手に触れさえすれば術式を発動できます」
「前、お前と七海と任務に行った時、お前はどうした? 単身で突っ込んで自分の手で呪霊に触れたよな。どうせそれ以外選択肢がなかったと思ってるだろうけど、そもそも弱っちぃのに丸腰で近接戦に持ち込もうとするのがまず間違いだ」

 あの任務から一年近く経っているものの、今でも体術は苦手な上に、弱いのも変わらない。
 五条先輩は正論に何も言い返せず黙り込む私の傍に寄った。

「手、伸ばせ」
「こうですか?」

 言われるがまま、五条先輩に向かって真っ直ぐ手を伸ばす。すると彼は私の指先にそっと触れた。そのまま手首、肘、二の腕とつぅとなぞっていく。
 何をされているのか分からず、ピクリと肩が跳ねる。けれどすぐ動いてはならないと困惑を飲み込み体を硬くした。奇妙な緊張感に脈を打つ音が大きくなる。

「七十センチだ」

 とん、と肩の上で止まった指。高鳴る鼓動を抱える私とは裏腹に、彼はここまで触れた長さを淡々と告げた。
 そしてまた黒板の前まで戻ると、先ほど描いた歪な呪霊の横に棒人間を描き始めた。顔と思しき円の中に仏頂面を描き、周りを塗りつぶし始めた。そうして適当に髪の毛を生やし、スカートらしきものを履かせたところで、もしやと思った。頭の上にオマエ≠ニ書かれたところでやはり私を描いていたのかと思いながら、あまりの拙さに「先輩、絵……」と呟いてしまった。

「上手いだろ。お前そっくり」
「五条先輩にはそう見えてるんですね……」
「ほらよく見てみろ、この口角の下り具合とか」

 その言い分に私は思わず自分の口角に触れた。

「私、こんな口してますか?」
「だってお前、俺の前じゃ全然笑わないじゃん」
「それは……」

 そもそも彼の前で笑う機会がない。最小限の関わりの中でふと表情を和らげることはあっても、普段行動を共にしている七海や灰原と同じように肩を寄せ合って笑うなんて想像もつかない。だからこそ意識すらしてこなかったのだ。
 口ごもっていた私は恐る恐る問いかける。

「あの、笑ってもいいんですか?」
「ハァ? いいも悪いも別に最初からダメとか言ってねーし」
「じゃあ……」

 そっぽを向いた彼を前に、私はずっと堪えたものを白状しながら破顔した。

「五条先輩の絵、可愛いですね。ふふ、小さい子みたい」
「ハァ? ハアァァ? 何だよそれ、馬鹿にしてんの? ……じゃなくてさぁ。クソ、でも…………ア〜もういい、何でもない」

 大声で叫んだ彼の言葉尻がどんどん小さくなっていく。何かを葛藤している彼の様子に、私は着席したままそろりと様子を伺うように顔を覗き込む。
 笑っていいと言った手前、怒れなかったのだろうか。私は「すみません、やっぱり失礼でしたか」と頭を下げると共に、馬鹿にしたわけではないと弁解する。
 まるで小さな手で握りしめたクレヨンによって、思うがままに画用紙に線を引いたものを彷彿とさせる絵。幼さによってもたらされる可愛らしさと同じものを、彼の絵から感じとってしまった。
 五条先輩は眉根を寄せて入るものの、怒っている様子はなく、私に向かって手を伸ばした。軽く頬をつまみ、グイッと上に吊り上げる。

「仏頂面で描かれたくなかったら、こうやって俺の前でも口角上げとけ」

 パ、と手を離すと私に背を向け、黒板と向かい合う。私は彼が触れていた頬をさすった。
 五条悟を利用する≠サのことへ私に罪悪感を持たせないようにするための気遣いだろうか。張本人からの提案とはいえ、本来なら笑い合うなんてあり得ない関係なのだ。優しさを見せられると余計に申し訳なくなってしまう。
 彼は「話を戻すぞ」と言い、黒板上の私と呪霊の間に横線を引き、その長さを七十センチと書き記した。

「だいたい人間の腕の長さがこのくらいだとすると、そこまで近寄らなきゃいけない。この間合いを詰めなければいけない状況をどうやって解消するか。皐月、お前ならどう考える?」
「そうですね……今の自分にできるかは置いておいて、呪力単体の放出で触れることなく相手に当てられれば間合いを詰めなくて済みます。でも呪力を飛ばすにしては使用する呪力量が多いですし、呪霊の動きが素早い場合は外すリスクもあります。強化するなら呪力操作と体力、動体視力、とかかなと」
「いいじゃん。欠点と自分で補わなきゃならない部分が分かってるなら話は早い。さすが頭でっかちなだけはあるね」

 どうやら回答は間違えてはいなかったらしいけれど、褒められてはいなかった。私は何も言わずに膝の上でギュッとスカートの裾を握った。

「でもそこまでの呪力操作は、一朝一夕には習得できないだろ。今、呪霊と戦わなければいけないとして、近接を補うには呪具を使うのが一番早い。呪具にお前の呪力を乗せて術式を発動させる」
「確かに、呪具使いの術師は多いですけど……それに呪具と一括りに言ってもたくさん種類がありますけど、どれを想定していますか?」
「そうだな……例えば弓矢なら? 遠距離で仕留められれば術師本人へのダメージはゼロだ。懸念点は障害物が多いところで不利になる点と、さっきお前が挙げたように対象の動きが素早い場合は狙いを外す可能性がある。じゃあ長物なら? よっぽどスピードに特化していない限り、狙いを外すことはまずないだろう。リーチが長い分広い間合いで戦える。けど、室内での機動力が落ちるし、小柄なお前には使い辛いかもしれない。それならもう少し短い得物に変えてみて試してみる。そうやって自分の弱点に向き合っていけば、合うスタイルが見つかるだろ。それか状況によって使い分けられるよう、全ての欠点を補完しておけば簡単に手数は増える」

 つらつらと言い終えた彼は、チョークを置き私に向き直る。

「とにかく、お前は自分の術式を過小評価しすぎ。やりようはいくらでもあるんだから、もっと自分の力を見つめ直して可能性を見出せ。考える前から伸び悩んでるなんて話にならないからな」
「……はい」

 可能性なんてないと思って生きて来たからか、五条先輩の言葉はどこか絵空事の話のように聞こえた。それでも彼の言う可能性を信じてみたいと思った。
 五条先輩は「今日はこれで終わり」と言い、こちらに黒板消しを投げた。私は咄嗟に立ち上がり、弧を描くように飛んできたそれを粉が舞わぬよう両手でしっかりと受け止めた。そして黒板の高い位置を消し始めた彼の隣に並び、私が可愛らしいと言って笑った絵をゆっくりと消していく。

「先輩って、頭良いですよね」
「は? 何それまたバカにしてんの?」
「いえ……! そうじゃなくて、天才肌だから考えなくてもできちゃうのかと……」

 語弊があると私は勢いよく首を横に振った。

「俺は天才な上に考えることもできんだよ」

 トントン、と得意げに自分の頭を指で叩いた五条先輩に「最強ですね」と返す。

「お前ももう先輩だろ。そんなんじゃ後輩にバカにされるでしょ」

 ふん、と鼻を鳴らした彼を横目に「後輩」と小さく呟く。すぐに一つ下に入ってきた男子生徒を思い浮かべ、手を止めた。
 伊地知くんはまだ高専の生活には慣れないのか、常に緊張しっぱなしのように見える。気弱な性格なのもあるのか、学生の中で一番弱い私にまで気を張っている彼の様子を見ると、少しでも早く楽に過ごせるように頑張らなければならないと気が引き締まる。
 七海や灰原は先日、進級と同時に二級に上がった。焦りがないわけではない。そう思えるのも、五条先輩が自身を利用しろと言ってくれたからで、こうやって稽古をつけてくれるからで──
 瞬間、思いを巡らせていた私の目の前を何かが横切る。それを鼻先すれすれで避け、目で追う。白い物体の正体は、恐らく五条先輩が持っていたチョークか。
 そちらに気を取られていると、首元を狙う彼の手刀がすぐそこまで迫っていた。私は咄嗟に彼の手首を掴み受け流す。

「きゅ、急にどうしたんですか」
「ぼ〜っとしてただろ。そんなに隙が多いと簡単に殺られるぞ」

 唐突な出来事にバクバクと大きく躍動する心臓。私はそれを上から抑えながら問いかけると、五条先輩は自身の首筋を切る真似をしておどけてみせる。
 その様子はまるであの時のことを示唆しているように見え、ゾッと全身に嫌な感覚が走る。彼が一度死の淵を見た、星漿体護衛任務。私もまた彼の凄惨な姿を目の当たりにした、あの事件。
 もしかして、私がその二の舞にならないよう、こうして指導してくれているのだろうか。そうであるならば嫌いな人間相手にそこまでできるなんてあまりにも優しすぎる。

「やればできるじゃん」

 そう言って不敵に笑う彼に、私は眉を下げ「五条先輩のおかげです」と返した。





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永遠に白線