──数日後、灰原が死んだ。
 灰原だったものの前で、私は項垂れ、七海は天井を仰いでいた。
 そして互いに何も話さなかった。

 焼香の乾いた匂いに満たされた空間は、まるで夢でも見ているかのようだった。やけに遠くに聞こえる読経に促され、香を摘み上げて炉へ運ぶ。その動作をマナー通りにこなし、握りしめていた数珠をかけ両手を合わせた。指先からは鼻腔を侵食していた香りよりずっと乾いた匂いがした。
 灰原の遺体は家族の元に返された。欠損した下半身以外、綺麗な状態だったことが唯一の救いになり、検死が済むと速やかに遺族への説明が行われた。
 捏造された死亡診断書と共に語られたのは、不慮の事故に巻き込まれたことと、腹部轢断、臓器挫滅、出血多量と並べられるだけの死因。多くは語らずとも理解を得られる呪術師の家系とは違い、一般家庭出身であるからこそ、その家族には全てを語ることができない。嘘さえつかなければならない立場に傷んだ胸。それを啜り泣く声が容赦なく抉っていく。
 そっとひつぎの傍に寄れば、灰原の顔が見えた。戦闘によって付いた汚れやかすり傷は綺麗に隠されている。あまりの現実感のなさに呆然とする一方で、もう二度とあの眩しすぎるほどの笑顔を作ることがないのかと思うと、キュッと喉の奥が締まり、込み上げてくる悲しみが目頭を熱くした。

「灰原……」

 言葉をかけられる最後のチャンスだというのに、続く言葉が見当たらない。

「……なんでこんなに穏やかな表情なんだ」

 隣に並んだ気配が、悔しさとやるせなさを滲ませながら呟いた。

「辛かったはずなのに」
「七海……」

 私は彼の顔を見上げた。痛いほど唇を噛み締め、目の縁に涙を溜めている様を見て、彼が必死に堪えているものが、涙だけでないことは容易に理解できてしまった。
 ──そうだ。そうだよね。七海も同じだよね。
 咄嗟に視線を外す。揺らぐ視界でもう一度灰原を見た。
 私たちにこの場で泣く資格はない。誰より彼の身を案じていたはずの遺族の前で、偽った死しか伝えられない立場の私たちが声を上げて泣いていいわけがない。
 小さく吐き出した息が震えた。全てを押し殺すように拳を握ると、七海の手の甲に触れる。微かに震えた手が重なった。握りしめた力の強さに息を呑み、私もそれに応えるように握り返した。

「……また、会いに来るから」

 散々探した末に見つけたのは、ただ別れを受け入れられないだけの、弱音に近い言葉だった。



 灰原の葬儀から三日後。ろくに眠れていない身体を引きずり、重たい足取りで男子寮に向かった。
 昨晩、申し訳なさそうに私の部屋を訪ねてきた補助監督から、灰原の私物を家族の元に届けるため彼の部屋を片付けたいということを聞き、私や七海が物の貸し借りをしているため荷物の選別は任せてほしいと伝えた。
 灰原から借りていた漫画やCDが入っている紙袋をぶら下げたまま、彼の部屋に目を向けるとすでに七海が立っていた。
 距離が縮まるほどに分かるやつれ具合に、七海も満足に寝れていないのだろうと察しがつく。私に気の利いた言葉なんて思いつくはずもなく、なんとなく視線が合うとそのまま灰原の部屋を開けた。

「……普段から片付けろと言ってたのに」
「大掃除の時よりまだマシなほうだから、灰原なりに頑張ってたのかも」

 しばらく見ないうちにまた汚れている。しかし、その変化のなさにどこか安堵している自分がいる。生活の痕跡が灰原の日常がここにあったことを証明していた。
 手分けをして出しっぱなしになっている物から段ボールに詰めていく。時折ガラクタに見える物をどうするべきか互いに尋ねるものの、無言のままひたすら手を動かす。
 見える範囲の物をあらかた片付け終えた頃、七海が長いため息を吐いた。

「今日中に終わりそうにない」
「誰か呼んでくる……?」
「……いえ、やめておきましょう」
「そう、だよね」

 なんとなく、自分たちの知らないところで灰原の生活の痕跡が、片付けられるのは嫌だった。
 新しく段ボールの箱を作り始めた七海に、私も止めていた作業を再開する。簡易収納の戸を開くと、取り出すことを想定せずとりあえず突っ込みましたと言わんばかりに詰め込まれていた。その様子に思わず辟易する。うわぁ、と出かかった言葉を飲み込み、目についた物を取り出して七海に声をかけた。

「……これ、どうする?」

 入学したてに先輩からもらった、たこ焼き器。
 懐かしさを覚えるそれを目にした七海もすぐに記憶を呼び起こしてああ、と呟いた。

「最後に使ったのいつでしたっけ……最近は全然でしたよね」

 ちょうど去年の年末までに、三人で数回はしっかり使っている。誰かのものというより、灰原に預けた三人のものという認識のほうが強く、私と七海は顔を見合わせた。

「七海、持っていく?」
「……使うと思いますか」
「どうだろう……」

 一人で使うことがあるだろうか。それとも私と七海の二人で? そうだとすると余計に使わない気がしてくる。繰り返し灰原がもうここにはいないと嫌でも知らしめるような行為をするとは思えない。

「二人きり、か」

 ──あんなに優しい人の命が消えてしまった。
 死は平等だとしても、やってくる死の順番は全く平等ではない。善良な灰原が死ぬなら、この世に蔓延る悪人が死ぬべきで、私より強い灰原が死ぬのなら、私のほうが先に死ぬべきだ。
 そんな道理などないと突きつけられたことに絶望した。

「誰かが欠けるなんて、考えてなかった」

 すぐ傍に死がある世界だと分かっていたはずなのに。
 葬儀の時にはあんなに堪えていた涙がするりと流れ出た。上手く息が吸えずにしゃくり上げる。一度決壊したものは簡単には止まってはくれない。力なくへたり込み、嗚咽を上げる。熱い雫が自らの膝を濡らした。
 コツン、と後頭部に何かがあたる。

「七海、」
「振り向いたら……怒ります」

 震えた息が頸を撫でた。泣いているのを見られたくないのだろう。それでも小さく漏れる嗚咽を隠しきれていない。

「……七海は、いなくならないでね」

 そっと後ろに手を伸ばせば、彼の濡れた頬に触れた。

「……貴女こそ」

 切実な想いと共に、肩に回った彼の腕に縋りつく。
 私たちは同じだ。その安心感が張り詰めていたものを溶かしていき、溜まっていた涙を全て吐き出すように泣きじゃくった。
 泣き疲れた頃には、互いに身体を預け、久しぶりの睡眠を享受していた。





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永遠に白線