
唐突に遠方の任務が舞い込んだ。それまで大人たちから薄っすらと感じていた同期を亡くした私たちへの配慮は、夏油傑
夏油さんの離反は衝撃的な事件であり、もう全てがあの夏には戻らないのだと決定付ける出来事でもあった。
何故だか、常に取り返しがつかないことをしでかしてしまった時のような焦燥が、絶え間なくこの身に降り注いでいた。知らず知らずのうちに大切なものを取りこぼしていく。今の私はその恐怖と絶望に脅迫されて心臓を動かしていると言っても過言ではなかった。
帳の外に出ると、あまりの疲労に崩れ落ちた。暦の上では秋だというのに、本土最南端の土地柄のせいかまだまだ真夏のように暑い。
「……はぁ、クソ、疲れた……」
「数が、多かったね……」
人手不足により周辺の地域の案件をまとめて請け負わなければ追いつかない。例年に比べて呪霊の発生数が多いこともあり、二人がかりでもなかなか骨が折れる。
私は肩で息をしながら、同じく荒い息を零している七海を横目に、一人じゃなくてよかったと密かに思う。
「今日はこれで終わりなのが救いですね」
「うん……一旦ホテルに帰って明日のことはそれから……」
立ち上がろうと膝に力を入れると、目眩が襲う。ふらり、と足元がおぼつかない私は七海に支えられ、砂嵐に襲われた視界を取り戻した。
「大丈夫ですか」
「うん、大丈夫。ちょっとくらっときただけだけだから」
ようやく明瞭になった周りを見渡す。田舎の住宅街とも呼べないような地域では、家々を隔てるのは塀ではなく畑と田んぼだ。
一見のどかに見える場所でもある程度人が集まる場所には呪霊が湧くのだから、本当に平和な場所などないのだなと思いながら畦道を歩く。駅まで距離があるが着いたら少し休もう。次の電車がやってくるまで小一時間はかかるはずだ。
気づけば目の前にペットボトルが掲げられていた。容器の中でたぷんと水が波打った。
「どうぞ」
「……ありがとう」
七海からペットボトルを受け取り、蓋を捻る。一口、二口、三口、と水を飲み干していく私を、七海は横目ではあるもののしっかりと見届けていく。
「ただでさえ顔色が悪いんですから、体調は気にかけてください」
「そんなに顔色悪い……?」
「鏡見たことないんですか」
呆れた視線と物言いに、私はむ、と眉根を寄せた。
「あるよ。あるけど、七海に言われるほどなのかと思って……」
少々落ち込みながら頬の輪郭に触れる。汗ばんだ肌の下に感じる骨の感触に、自分では以前との違いが分からず首を傾げた。
きっと他人から見たほうが分かりやすいのだろう。面と向かって言われたのは七海が初めてだったけれど、これまでも気遣われていたのかもしれないと記憶を辿った。
「……そういえば五条先輩にも言われた。ちゃんと食事をとってるかとか寝れてるかとか聞かれたけど、あれって気を遣ってくれたのかな……」
もしそれが本当なら、私は最低なことをしたのかもしれない。
一瞬の後悔の後、やはりああ言うしか私にはできなかったと思い直す。五条先輩の優しさを受け取る資格もなければ、そもそも優しさが私へ向けられることが理解しがたく、恐ろしかった。
彼が言うことは正論だった。死がすぐ隣にあることは幼い頃から知っていたし、むしろそれが当たり前の世界ですらあった。未だに受け止めきれていない私が悪いのだ。
それでも、全てを持ち得る彼自身が己と私を同列に語るのが許せなかった。それ以外が正論であるからこそ、遥か高みにいる彼が見ている世界と、私が置かれた世界を同じものとするのは罪だ。同じ呪術界だとしても天と地ほどの違いがあることは知っているはずなのに、あえてそこに差はないと区別しない残酷さ。同等に扱われることで辛いと感じる人間がいると知らない非道さ。
その上で死を飲み込めない私へ容易に同じものを求めるのだから、惨めに拳を握り締めるしかなかった。
「どうかしました?」
黙り込んだ私に、七海は訝しげな眼差しを向けた。
「……いや、ちょっと。五条先輩に悪意がなかったのかもしれないけど、それが許せなくて……感情的に言い返しちゃったのを思い出して」
「貴女が? 五条さんに?」
「……そんなに驚く?」
「だって、入学当時の貴女じゃ考えられない」
目を丸くした七海は「変わりましたね」と呟いた。
「変わった……か」
「不服ですか」
「そういうわけじゃないけど……」
それは果たして良い変化なのだろうか。そのせいで誰かを不快にさせているのなら、以前のまま変わらないほうがマシだったのかもしれない。
しかし七海にその本音を吐露する気にはなれなかった。彼は私の変化を望んでくれている。初めて怒りを露わにできた時も励ましてくれたし、少しでも前向きになろうとする努力にも協力してくれた。そんな彼に今までの行動を否定するようなことを言えば、顔を曇らせるに決まっている。
私は七海にだけは幻滅されたくなかった。簡単に人を見捨てる人間だとは思ってはいないけれど、もしも見限られてしまったらと考えると怖くて仕方がない。七海までいなくなってしまったら、私は本当に一人になってしまう。
「でもまぁ……同じような顔した七海に馬鹿にされたのは不服かも。私のこと言えないよ」
言い淀んだ私はそのまま曖昧に言葉を濁し、少し冗談を織り交ぜてやつれた七海の顔を見た。
「別に馬鹿には……」
まさか自分のことを言われるとは思っていなかったのか、七海は困ったように一瞬口を噤んだ。
「毎日なるべく睡眠は取るようにしているし、自分の体調は把握してますよ」
「私もそのつもりだったんだけどな……」
力なく肩を落とし、線路沿いに伸びた小道をまっすぐ進んでいく。つま先に当たった小石が転がっていく様を眺めながら、ぼんやりと最近の生活を思い返した。
「心置きなくちゃんと眠れたの、あの時以来かも」
「あの時?」
隣で首を傾げた七海へチラリと視線を送る。
「……灰原の部屋、一緒に片付けた時寝ちゃったでしょ、一緒に」
私の返答に七海は居心地が悪そうに「ああ……なるほど」と頷いた。
遠慮なく体を預け、温もりを得る安心感を知ってしまえば、孤独と悲しみを抱えたまま一人眠りにつくことはなかなかできなかった。
だから、もしかしたら。私はそう希望を抱きながら七海の袖を引いた。
「ねぇ」
「なんです?」
「今日の夜、七海の部屋で寝ていい?」
七海と一緒だったらちゃんと寝れるかもしれない。そう言う私に、七海は信じられないものを見る目で私を見た。
「──は?」
「やっぱり駄目?」
「当たり前でしょう。そんなの駄目──」
そこで言葉を止めた七海は、数秒思索に耽り、深いため息を吐いた。
「……ではないです……私のせいで倒れられても困る」
「明日も頑張らなきゃいけないしね。ありがとう」
この疲労を抱えたまま明日を迎えるのは得策ではない。七海もそう理解してくれたのだろう。
私は安堵して歩き出す。数歩遅れてやってくる七海の足音を聞きながら駅を目指した。