任務二日目。一日目は特に交通の便が少ない片田舎での任務だったのもあって、数をこなすことはできなかったが、今日は比較的移動時間が短かいおかげで一日目より案件数が多かった。
 太陽が若干西に傾き始めた昼下がり、ようやく昼食をとった私たちは店を出る。店員による普段聞き慣れないイントネーションの「ありがとうございました」の声が自動ドアの向こうに消えて行った。

「なんとか全部終わらせられてよかったね」
「全部詰め込んでこの時間ですから。まぁよくやったほうでしょう」

 七海は疲労を滲ませながら補助監督に定時連絡のメールを打ち、携帯を閉じた。

「ひとまず中心街まで戻ろうか」
「はい。……今日はいくらか元気ですね」
「ぐっすり眠れたおかげかな」

 先に歩き出した私は、足を止めて振り返る。眉を下げ礼を言うと、七海は「いえ」と視線を逸らした。
 海沿いに伸びる国道をゆっくりと歩いていく。街路樹は南国らしくヤシの木が連なり、細長い葉がサラサラと潮風に揺れている。海を挟んだ対岸には雄大な活火山が鎮座しており、山頂付近には紫雲がたなびいていた。
 見慣れない光景に、思わず目を細めた。遠方の任務は大変だけれど、少しばかり日常から離れられることだけが救いだった。今日の夜には東京に帰り着く。明日からまた高専の閉鎖的な空間で、以前とは違う何かを見つけては落ち込む日々に戻ってしまうのだ。
 どんどん気が重くなっていき、私は深いため息を吐く。それに釣られた七海は、ぽつりと愚痴をこぼした。

「しばらくはこんな過密スケジュールは遠慮したい」
「人手が足りないから、仕方がないのは分かるんだけどね……」

 先延ばしにもできない事情も理解できる。大人たちだって好き好んでこんなスケジュールを組んでいるわけではない。
 しかし、どうしてもこの一瞬一瞬を繋ぎ止めて、やっと成り立っている状況が、これから先も続くとは思えなかった。何か一つ掛け違えてしまえば、全部崩れてしまう。そんな刹那的なものに私たちの命は委ねられている。それがどれだけ恐ろしいことなのか、大切な人たちを失ってようやく理解できてしまった。
 こんなの延命治療でしかない。これから人が生き続ける限り続いていくのだから、私たちが真に肩の荷を下ろすことはできないのだろう。
 私は息が詰まる思いで、ねぇ、と七海に声をかけた。

「……七海さ、灰原の遺体の前で夏油さんに言ったこと覚えてる?」

 彼は驚いたように視線を彷徨わせた。

「……忘れられたら、どんなによかったか」

 ──もうあの人一人で良くないですか?
 それは誰しもが思っている紛れもない本音だった。ギリギリの状態の七海が、それを吐露したのは何もおかしいことではない。
 私は小さく頷き、その上で口火を切った。

「七海の言ったこと、私は少し違うと思ってる」

 雲行きの怪しい空を見上げながら、私は彼の反応を待たず、つらつらと理由を口にする。

「そもそも五条悟が世界の中心で、世界が五条悟に適応してるんだよ。だから私の世界は五条先輩中心に回ってるし、私の親も、その他の家もそう。あの人は神様でありこの世のことわりになってる」
「……どういう意味ですか」
「五条悟が世界の基準で、それは結局彼一人の力で済むように世界ができている。私が違うと思ったのは、並の術師では命を落とすような呪霊を祓えるなら、彼一人に任せればいいってことじゃなくて、そもそも最強に勝るために呪霊が強くなっているんだから、彼一人で事足りてしまうのは必然だってこと」

 事実としては同じでも、前提としているものが違う。伝わるかな、と私が探るような視線を向けると、七海は曖昧に頷いた。

「例えば、呪霊の数が増えてどんどん力も強くなってる要因に、五条悟の存在があることは間違いない。仮にもし五条先輩が生まれていなければ、灰原を殺した呪霊は苦戦するほど強くなかったかもしれない。そうすれば今も灰原は元気に生きていて、私は七海にも灰原にも会うことがなかった。生まれてないなら当然だよね」
「……」

 沈黙した七海は、遠くを見つめていた。
 暗くなる頭上。足元の影が消えていく。

「五条先輩は何も悪くない。そういう風に世界ができているだけなんだから。ただ理に従って、私たちも呪霊と同じく強くならなきゃいけない。それだけの話」

 そのそれだけ≠ェ簡単にできたら、どれだけ良かっただろうか。言うは易し。そんなに単純な話ではない。
 言葉尻に込めた思いを正しく読み取った七海は、やるせなく頭を振った。

「そうだとしても、灰原が死んでいい理由なんてない」
「そうだね。灰原みたいな良い人が死ぬなら、何のために戦ってるのか、分かんなくなっちゃうな……」

 ふと、夏油さんも似たようなこと考えてたのだろうかと、彼の疲れた笑顔を思い出した。
 今はもう尋ねる術がないけれど、私には彼を大罪人として完全なる悪だと後ろ指を指すことはできない。

「これまでずっと分かっているつもりになっていたけど、こんな世界でまともになんて生きてられないよ。……なんだかもう、理とかどうでも良くなってくる」

 全て向き合っていたら、先に心が折れてしまう。呪術界で生きていくには、あらゆる事象を割り切って考えるしかない。……そう、五条先輩のように。

「それじゃあ、どうしますか?」

 唐突な七海の問いかけ。物思いに耽っていた私は、弾かれたように顔を上げた。

「ひたすら嘆いていたって何も始まらない」

 ポツリ、と鼻先に大粒の雫が落ちた。パラパラと降り注ぐ雨の中、七海はきっぱりと言い放った。

「呪術師、辞めましょう」
「え……」
「別に戦うのは私たちじゃなくても良い」

 理解が追いつかない。「そうでしょう?」と首を傾ける彼に、私は何も言えず必死に言葉を探していた。
 雨足が強くなる。徐々にアスファルトが変わっていくのを眺めていると、腕を引かれた。雨宿りのために駆け出した私たちは、歩道橋を渡り、近くの建物に足を踏み入れた。そこはどうやらフェリーのターミナルだったようで、数多くの案内板が置かれている。
 私が濡れた制服の肩を払っている間、七海はじっと時刻表の表示を見つめていた。

「乗ってみますか」
「……え、どこに着くの?」
「さあ?」
「さあって……帰りが間に合わなくなるかもしれないのに」
「その時はその時ということにしましょう。案外良い場所に着くかもしれない」
「……あっ、ちょっと、七海……!」

 そうだった。七海は意外と思い切りのいいところがあることを忘れていた。
 ずんずんゲート内を進んで行く七海に連れられて、私も乗船してしまう。汽笛が鳴り出航の合図が出されてしまえば、私に逃げ場などなくそのまま船の中で動き出すのを待つしかない。
 室内の待合ロビーには入らず、階段を登って展望デッキに向かった。頭上には屋根はあるものの、やはり雨のせいか人がいない。
 私たちはぼんやりと港を離れていく様子を眺めながら、波を切り分けて船が進む音に耳を傾けていた。水面を叩く雨粒は、白波の中に飲み込まれていく。まるでどこに辿り着くか分からない私の胸の内を体現しているかのようだった。

「このまま逃げられたら、どうなるんだろう」
「……家のことですか?」

 漠然とした不安。私は七海の問いに首肯した。

「どちらにせよ、家の言いなりにはなりたくないでしょう。貴女の実家のことは詳しくありませんが、五条さんと一緒になれなかったら貴女の扱いがどうなるかくらいは目に見えている」
「そうだね……用済みになればどこかそこそこの家へ嫁に出されて跡継ぎを、とか言われるんだろうな」

 そちらのほうがまだマシだと思う反面、一生両親に言われるがまま、家の奴隷になるのはもっと嫌だった。

「きっとそれをバックれたとしても、あそこにいる限り追ってくるに決まってる。……あの人たちの執念の恐ろしさは私が一番知ってる」

 両親の執念で生み出されたのが私だ。それを身をもって証明できるのが、気持ち悪くて仕方がない。
 この嫌悪から解放されなくとも、いずれは忘れられる時間が増えるだろうか。それにはきっと物理的な距離と、それなりの時間が必要なのだろう。
 湿った髪が潮風に靡く。私は髪を手で押さえて、前を見据えた。

「世界は貴女が思っているより広い」
「じゃあ、海外にでも逃げる?」
「それもいいですね。物価の安い国でのんびり羽を伸ばすのも手だ」
「ふふ、楽しそう」

 なんだかとてつもなく自由になりたくて仕方がない。漠然とした不安だったものが、確かに希望へ変わっていく。

「このままどこか遠い場所に着いてもいいかもね」

 船に揺られたまま、雨で霞んだ進行方向を見つめる。行き先すら分からない私たちは「南の島とかかも」「それなら願ったり叶ったりだ」と話しながら、到着を待った。



 結局、たどり着いたのは海を挟んだ対岸にある山の麓の港だった。たった十五分の船旅。あまりの近さに拍子抜けすると同時に、それまで自分たちが語っていたスケールの大きさとの差に思わず気恥ずかしくなる。それでもただの夢物語ではなく、実現し得る一つの道標にはなるはずだ。
 船を降り、料金を払うと再び船に乗り込む。とんぼ返りになってしまうが仕方がない。

「七海と一緒ならこの先も安心だね」
「今のどこに安心する要素がありました?」
「ん〜、一緒に恥かいてくれるとことか」
「……少し落ち込んでるので傷を抉らないでください」

 虚な目でそう訴える彼に苦笑する。
 通り雨はいつの間にか過ぎ去り、雲間から日差しが見え隠れしている。私たちを乗せた船は元いた場所へ戻るべく、細かく光を反射した海へ進み出した。





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永遠に白線