
自動ドアを出ると、容赦なく冷たい風が吹き抜けた。冬が近い。日に日に下がっていく気温を気にしながら洋服選びにも気を使う時期だ。
すっかり辺りは真っ暗になっている。冷え込んだ空気のせいか、新宿のネオンがやけに冴えて見えた。
今日は冬物のコートを引っ張り出してきて正解だった。胸を撫で下ろした私は、行き交う人を避けて歩道の端に寄る。重たい紙袋を足元に置き、ポケットから携帯を取り出した。
時刻は午後八時をまわろうとしている。随分と長居をしてしまったことに驚きながらも、自ら選び抜いた分厚い参考書たちに目を向けた。
呪術高専で学ぶ普通教科は、一般的な高校生と比べて学ぶ時間が圧倒的に少ない。おまけに進むペースも違えば、内容自体も大幅に省いている教科もある。授業時間を全て勉強にあてている普通の学生と、訓練や任務に明け暮れている私たちとでは、知識の量に雲泥の差がある。
もしも、呪術師以外の道を選ぶのなら、大学への進学・編入を選ぶ確率のほうが高い。それならば、教えられる範囲以外のことは、自分で学ぶしかないのだ。
そろそろ帰らなければと、紙袋を持ち上げた。そのまま駅へ向かおうと歩き出すけれど、すぐに足を止めることになった。
「皐月?」
肩に手を掛けられた私は振り返る。そこには制服姿の五条先輩がいた。
「なんでここに……」
「そっちこそ」
こんな人の多い街中で、偶然出会ったことに驚いた私は、五条先輩を食い入るように見つめる。同じく彼も黒いレンズの向こう側で、目を見開いていた。
人の流れを堰き止めた私たちを避けていく人々。邪魔だと言いたげな視線をひしひしと感じる中、私は手に持った紙袋を握りしめた。
「私は……ちょっと用事があって」
「そ」
ただ本屋に行っていただけなのだが、何を買ったのか触れられるのを恐れて曖昧な答えを返すと、彼は私が引いた一線を察したのか淡白に返事をした。
彼と話すのは、私が酷い態度を取って以来だった。あれから何度か姿を見かけることはあったけれど、夏油さんの離反や激務が続き、なんと切り出せば良いか分からずそのままになってしまっていた。
私は気まずい空気に耐えられず、恐る恐る口を開く。
「その、五条先輩は何を……?」
「ただの任務帰り」
「そうですよね……お疲れ様です」
制服の時点で察しがついていた分、間を埋めるための質問は愚問に成り果ててしまった。
「何それ」
五条先輩はおろおろとしている私の手元を指差した。
「あ……ただの本です」
「へぇ? 持ってやろーか。重そうだし」
「え! いや、大丈夫──」
今一番触れてほしくないものなのに。
慌てて手を引っ込めるけれど、すでに彼が掠め取った直後だったため、紙袋の中身はバサバサと音を立てて路上に転がった。
「参考書? 座学の成績いいって言ってなかったけ。頭いーのにまだ勉強すんの?」
「えっと、もうちょっとちゃんと勉強頑張ろうかなと思って」
「真面目〜」
かなり答えを濁したけれど、五条先輩は気にも留めなかったようで、落ちた参考書の前にしゃがみ込み、一冊拾い上げた。「悪いな」と汚れを払っている彼に続き、私も残りの本を拾い上げるべく、膝をつく。
もしかしたら、気にしているのは私だけなのかもしれない。そう思い始めたけれど、そうであればあるだけ罪悪感が増していく。
きっともう一度あの時に戻っても、彼の言葉を不快に思うだろう。それでも感情的に本音をぶつけるべきではなかった。
私は自責の念に耐えかねて、そのまま頭を下げた。
「五条先輩、ごめんなさい……!」
「は、え? 何事? 謝んのどう考えても俺でしょ」
「いえ……このことじゃなくて。一緒にしないでって私が一方的に言ってしまった、あの時のことです」
唐突な謝罪に狼狽えている彼に、私は再び頭を下げた。
「酷い態度を取ったのに、ずっと謝りもせず……すみませんでした。ちゃんと話しをする機会もなくて、それに甘えてました」
五条先輩はようやく状況を飲み込めたようで「あ〜……なるほど」と全てを悟ったような声を上げた。
「いいよ別に。酷い態度とかは思わなかったし、気にしてない」
まさか優しく許されるとは思っておらず、どうして良いか分からなくなる。
責められたほうがずっと良かった。「頭上げろって」と言われるが、宥めるような声音に余計に顔を上げられなかった。
「ほら、大丈夫だからもう行くぞ。こんなところでいつまでも女に土下座させてんのってどう見てもまずいだろ。完全にヤバいホストと客にしか見えないから。なっ?」
予想とは違う方向への心配だったけれど、そう言われてしまったら五条先輩の訴えを聞き入れるしかない。半ベソの私は頭を上げると、そのまま引っ張り起こされた。直後、彼の肩にポンと手が置かれる。
「お兄さんたち、何してるの。トラブル?」
パトロール中の警官二人組に声をかけられてしまった私たちは、これは面倒なことになったと焦った表情で顔を見合わせた。
「これは完全にお前のせいだからな……」
「ごめんなさいごめんなさい」
平謝りするしかない私をよそに、警官は「学生? 未成年だよね? この辺に何の用事?」と問い詰めてくる。
ゲェ、と嫌な顔をした五条先輩は、適当に返事をしながら、私の耳元に顔を寄せた。
「合図したら走れ、撒くぞ」
「えっ」
最悪先生を呼ばれるところまで想像していた私は、彼の耳打ちに声を上げた。
「学生証見せてくれる?」
「はいはい、ちょっと待ってよ」
五条先輩は乱雑にポケットを漁る。ようやく見つけたものを「どーぞ」と手渡した瞬間、私の腕を引いた。警官の意識が逸れた隙を狙って走り出した私たちは、大通りからすぐ傍の横道に入った。背後から警官の声が聞こえたけれど、構うことなくさらに細い路地へ入り込んだ瞬間、地面が遠くなる。彼の術式によって宙に浮いていると気づいた時には、すでに警官は私たちに気づかず通り過ぎていた。
「渡したの、学生証じゃないですよね? なんだったんですか」
「客引きしてきた嬢の名刺。処分できてラッキー」
どんな反応をして良いか迷う。足元の頼りなさに不安になりながらも、とりあえず「……なるほど」と頷いておいた。
「また見つかったら面倒だし、上から移動するか」
「バレないですか? 帳も張ってないですし」
「夜だしバレないって。目視できる高さも限られてる」
そう言うが早いか、瞬きの間にさらに上へ上がる。浮遊感が意外にも心地良い。街一つ見下ろせるその場所では、私の腕を握っている彼の力強さだけが頼りだった。
「絶景、絶景。さて、どこに降りるか」
キョロキョロと足下を覗き込み、目星をつけている彼の横顔を見つめる。
「五条先輩は、その……元気ですか?」
脈絡のない問いかけに、五条先輩は目を丸くし、カラカラと笑った。
「ハハ、なんだそれ。元気ないようにでも見える?」
「……分からないから、聞きました。もし元気に見えても、本当に元気だとは限らないですし」
地上よりも冷たい風が、身体に纏わりついた。指先がかじかんでいくのを感じながら、私は言い訳を並べていく。
「さっき、話す機会がなかったって言いましたけど、違いました。機会なんて作ろうと思えば無理矢理にでも作れたはずなのに、私はそうしなかった。本当はただ話しかけられなかっただけなんです。……なんて声をかけていいのか分からなかった。私じゃ、五条先輩の気持ちに寄り添えるか、分からなかったんです」
五条先輩には私の気持ちは分からないし、私には五条先輩の気持ちは分からない。だから同じ目線にいる人間だと勝手に思い込んで語らないで、と彼に主張したのは私だ。それなのに同じことを彼にしようとは到底思えなかった。
静かに私の話に耳を傾けている彼は、沈黙を保ったまま、瞬きで続く言葉を促した。
「私に声をかけてくれた時、きっと五条先輩も心配してくれたんですよね。……今なら分かります」
「も、ってことは、皐月は俺のこと心配してくれてんの?」
ぐい、と腕を引かれると、ただでさえ近かった距離がぐっと縮まる。レンズの隙間から、彼の青い瞳が覗いていた。同じ高さで注がれる眼差しは、私の反応を今か今かと切望している。
私はしっかりと頷いた。それを見た彼はと高まった期待を安堵に変え「そっか」と呟く。
遠くを見つめた彼の視線を辿る。天と地の狭間で、私は彼が口火を切るのを待った。
「ずっと考えてる。でもいくら考えても納得できる答えが見つからない。お前には飲み込めって言ったのにな。あいつの口から聞かなきゃ到底飲み込めそうにない」
殉職と離反じゃ全然違うけどさ、と彼は肩を竦めた。
「俺は皐月がしてくれたように、気持ちに寄り添うなんてしなかった。ただ持論をぶつけただけだった」
ごめん、と呟いた彼に、慌てて首を横に振りかけて止める。ここには誠実な言葉しか存在しないのに、今否定すれば嘘になってしまう。
嬉しいと思ってしまった。あんなに理解されたくない、されるべきではないと思っているはずの相手なのに。
その矛盾を処理しきれず泣き叫びたくなるのと同時に、真に理解を得られた歓喜が身体の中心で打ち震えていた。
目の前では、月明かりに映える彼の白い髪が揺れている。止まった思考の外では、それはよく目に焼きついた。