
未だ見慣れない教室には、うららかな春の日差しが差し込んでいる。生徒の数に教室の広さが見合っていないため、ガランと寂れた印象を与えていた。これまで一部屋に四十人ほどを収容していたような場所にいたのだから、この違和感に慣れるのはもう少し先になりそうだ、と私は目に飛び込んできたより広く感じるその光景に一つ瞬きをし、黒板の前に立って白いチョークを手に取った。コツコツと小気味の良い音を響かせて、今日の日付と日直である自分の名前を少しざらついたその板の上に滑らせる。パラパラと落ちていく白い粉を目で追って、自分の指についたチョークを手で払った。
私は普通の学校なら絶対に当たりたくない席<xスト5に必ずランクインするだろう、教卓の目の前に置かれた三つの席のうち、一番窓際の席へ歩み出す。そして机と椅子の脚が絡まり合った複雑な影を作り出している陽光を追うように窓の外へ目を向けた。山々をところどころ彩る山桜の淡い白色が収まる窓に目を細め、額縁をなぞるように窓の格子に触れた。絵画にするほど特別美しい風景ではなかったけれど、どこにでもある平凡がすぐ傍にあることが何より嬉しかった。
遠くで足音が聞こえる。こちらに近づいてくるそれらは、目の前で輝く春の陽気と同じ質のものを連れている。そうして教室に足を踏み入れた七海と灰原に挨拶を交わし、席替えの概念すら無意味なその席にそれぞれ椅子を引いて腰掛けた。
「初任務、夏油さんと一緒なんだ!」
すっかり彼に懐いている灰原嬉しそうに声を弾ませる。そして後から思い出したかのように「あと家入さんも!」と言い添えた。
「いつです?」
「明日。朝早いんだよね〜」
朝はあまり得意じゃないらしい灰原はため息を吐く。けれど、すぐに顔を引き締めて「夏油さんに認めてもらえるように頑張らなきゃ」と意気込んだ。
「よかったね、灰原、夏油さんと仲良いもんね」
「うん、尊敬する先輩だよ」
そう眩しい笑顔で頷いて、一番廊下側の席に座る彼は七海と私を見比べて「七海と皐月は五条さんとだよね?」と気が重くなる話題を持ち出す。
先生曰く「二年生は問題児だが実力はある。
思いっきり出鼻を挫かれてしまったけれど、気が乗らないのはそれだけが理由ではなかった。ここ呪術高専に入学しておいて今更だが、私は別に呪術師になりたいわけではない。呪術師の血筋で呪術師になり得るだけの呪力、術式を持って生まれただけ。素質があった、そして何より五条悟がいるから、それが今私がいる理由の全てなので任務として呪霊と対峙するのが不安でしかなかった。おまけに私の術式は呪術師をやるには
「頑張ってね!」
「う、うん。出来ることはやるよ」
灰原の励ましに、歯切れの悪い言葉しか出て来ず苦笑いを浮かべる。何にせよ憂鬱なことには変わりない。七海の足手纏いにならないように頑張らなければ。
チラリ、七海の横顔を盗み見る。いつもの仏頂面で授業の準備をしている彼の無駄なものを全て削ぎ落としたようなシャープな輪郭を目でなぞり、視線を戻した。
◇◇◇
JRの改札から出た私と七海は人の流れに邪魔にならないよう壁際に避けながら、先に到着しているという五条先輩の姿を探す。
「七海、久世、こっち」
声のする方向には人の海から頭二つ分ほど突き抜けた五条先輩が手を軽く上げていた。
さすが新宿。人が多い。うんざりしながら人の波間を掻き分けてコインロッカーに寄りかかっている五条先輩と合流した。
「お疲れ様です」
七海がそう声をかければ、背中を預けていた彼は気怠げなため息を吐き、のそりと自分の脚に重心を乗せる。
「本当に疲れた、ハシゴで任務って。しかも一年のお守りだからな。補助監督もついてねーし」
「すみません……」
鋭い眼光に思わず謝罪を口にしてしまう。
「別に謝らなくていいでしょう。いくら愚痴を言ったところでこの任務がなくなるわけじゃない」
「まあ……それはそうだけど」
毅然とした態度を貫く七海に曖昧に頷く。確かに私たちには非はないけれど、
それを七海が分からないのは当然の話だ。わざわざ自分から話すことでもない。私は出来ることならその事実から逃げ出したいけれど無理なのだ。事実が事実であるだけで、退路は絶たれている。
諦めを背負いながら、そして抗う気持ちも捨てきれないまま、今日まで生きてきた私は自分の身の振り方に頭を悩ませていた。心穏やかに生きていたいのに、身を置いた状況が、私自身がそれを許してくれない。一瞬交わった五条先輩の視線を避けて足元に目線を落とした。
「それならお前らでちゃっちゃと終わらせて、お守りなしでも立派にやれます≠チて証明してよ」
長い脚で一歩踏み出した彼は「行くぞ」と一言だけ口にした後、駅の外へ向かって行った。その後ろを逸れないように着いていくけれど、特別迷うような道のりではなくただただ真っ直ぐ進んでいく。横断歩道を渡り、歌舞伎町一番街≠ニ書かれた赤いアーチを潜ってもなお進行方向は変わらない。客引き禁止のアナウンスが流れているのにもかかわらず、キャッチに声をかけられるのを流しながら、私たちはさらに奥へ進んで行った。
先ほどと打って変わって喧騒が遠ざかる。ホストやキャバ嬢の看板が至る所にある空間に居心地が悪くなるも、それを口に出してはよりこの空気を悪化させてしまう、と思い留まりひたすら脚を動かした。時たま足を止めた五条先輩が「こちらは暴力団の事務所で〜す」と大きな声でツアーガイドに成りきるものだから、真相はさておきひとまず黙ってもらう。私も七海も、余計な面倒事に巻き込まれたくはない。
そうして人通りもまばらになった頃、たどり着いたのは寂れた雰囲気のラブホテルが連なる通りだった。何も言わなくても結局私たちを取り巻く空気は悪化してしまった。行き先の教えられていない私たちはついに足を止めてしまった。
「あの、どこまで行くんですか」
「教えて欲しい?」
「寧ろ先に情報共有しておくのが普通なのでは?」
七海の眉の間に刻んだ皺がさらに深くなる。その様子に五条先輩は楽しそうに口角を吊り上げた。
「なに、七海。ラブホ街に気まずくなってんの?」
「違います」
からかう口調で投げかけた五条先輩に、七海は一刀両断、即答で返す。「怒んなよ〜」とケラケラ笑った彼は今回の任務の概要を話し出した。
「ここまで来れば分かるだろうけど、この先にあるラブホテルに今回お前らが祓う呪霊がいるわけ。なんか、心霊スポットとしてもともと有名っぽい」
「具体的には?」
「もともと髪の長い女の霊が出るって噂があるらしいけど、実際に起きた被害としてはセックスの最中に
オブラートに包む、という言葉すら知らないような直球すぎる彼の語り口に私は口を閉ざした。異性間での性の話題にどんな顔をして返答して良いかも分からない年頃であるのは仕方がないと理解して欲しい。
五条先輩への返答は七海に任せる。本人は不本意だろうけれど、その真面目さ故にその役を私に任せはしないだろう。
如何にも何を#ばされたか質問待ちの五条先輩に、心底嫌そうな顔をした七海が重たい口を開いた。
「……何をです」
「男の首とちんこ」
「…………」
それが言いたかっただけだろう、と心の中で突っ込んだ言葉は七海の心の声と見事にハモったと確信した。
「しかもタチが悪いことにイク寸前を狙ってくるんだとさ。最悪の腹上死だよ」
小学生並みの思考回路とデリカシーの無さに引いている私たちに「殺るんだったら最後にイイ思いさせてあげてもよくねぇ?」とさらに恥を上塗る五条先輩。
「そういう問題じゃありません」
ゴミを見るような七海の据わった目を見なかったことにして、目の前のラブホテルへ絡み合う勢いで消えていったカップルの背中を見送った。真昼間なので妖しいネオンが輝いているわけではないけれど、カラフルな看板やコンセプトの違う建物が立ち並ぶ様はそれだけで異質に思えた。
「まぁ、こういう場所には特に駅周辺の人の集まる場所から流れ込んできた負の感情が吹き溜まりやすい。気ぃ引き締めねーとあっさりやられるぞ、一年」
そう言った五条先輩は左側の細い路地に入った。そうして脚を止めた彼は「ここ」と古びた建物に貼り付いた、チープなデザインの錆びた看板を指を差す。
「ほら見てみ? 休憩千円ってヤバいでしょ? 宿泊でも三千円て、あまりにも安過ぎだし。こんなのいかにも訳アリじゃん、ねぇ?」
「…………」
料金表を覗き込んだ彼は同意を求めるために私たちの方を振り返った。彼の問いかけにどこから突っ込めばいいのか分からず、気不味い沈黙が転がった。
「……相場を知らないので」
目線を泳がせながら絞り出した当たり障りのない私の返答に、彼は「あ〜、そ?」といまいち理解していない様子で適当に相槌を打った。きっと興味が逸れたのだろう。そうして彼は思い出したように刀印を結び、帳を下ろすために詠唱を始める。
目の前に佇む建物は寂れてはいるものの、一目で廃墟と分かるほど周囲から浮いているわけではないし、裏道にあるけれど人通りもないわけではない。帳を張らなければ確実に歌舞伎町のラブホテルが突如崩壊! 暴力団の抗争か!?≠ネんて見出しがつけられた記事が明日の紙面を飾るだろう。それだけは何としても避けなければ。絶対にめんどくさい事になるに違いない。
幕が降りるように黒い闇が空を塗り替えていく。この場所を人々の日常から切り離すそれは、私たちが常に人々の非日常にいることを戒めるようだった。
先陣を切って建物内へ足を踏み入れる五条先輩の後をついていき、見慣れない内装に物珍しげに周囲を見渡した。エントランス、それに続く廊下は現在も営業していると言われても疑わないほど綺麗だった。見たままの感想を抱いた私を見透かしたように、五条先輩は「中を撤去する暇もないくらい唐突に閉店したらしい」と事前に得ていた情報を呟いた。
そして一番近くの部屋に入ったと思ったら、興味を引くものがないか手当たり次第に部屋の中を漁り始めた。手持ち無沙汰の私たちはその様子を眺めながら入り口で佇む。
「七海はラブホ来たことねーの?」
「そんなことより早く行きましょう」
ベッドサイドに置いてあったテーブルの上に放置されていた開封前の避妊具をおもむろに手に取りながら尋ねた五条先輩に、七海は硬い口調の上に苛立ちを乗せて答えた。
五条先輩も道草を食っている場合ではないと思い直したのか、手に取っていたそれを放り投げ、私たちを押しのけて部屋の外へ出た。
「ちなみに久世は?」
「……セクハラですよ」
腐っても女なので七海は私に気を遣ってか五条先輩にそう静かに訴えた。
女という性≠意識させるデリケートな話題が私に向けられること自体は、子供の頃から胎≠ニしか見られていないので慣れている。今更そんなことくらいで傷つきはしないから良いのに、と思いながらも私は簡素なその部屋の中へ視線を落とした。
「……久世さん?」
その場から動こうとしない私の背中に、七海がそう呼びかける。
「苗字……」
「え?」
己の口から滑り落ちた言葉を慌てて拾い上げて口を塞いでも、彼らに届いてしまっているものは取り消せない。私は観念して取り繕うように続く言葉を形にする。
「その、苗字で呼ぶの、できればやめてほしくて」
ずっと苗字で呼ばれることに居心地の悪さを感じていた。言い出せなかったのは入学したばかりというのもあったのかもしれない。灰原や硝子さんはすぐに下の名前で呼んできたし、夏油さんは歓迎会の私の様子を見てなんとなく察してくれていたようで、苗字で呼ばないでと伝えたら訳は聞かずに頷いてくれた。それくらい私にとって他人に世界で一番嫌いな家の名で呼ばれることがストレスだった。苗字以外なら何でも良い。「お前」でも「おい」でも、名前さえ呼ばなくて良い。私個人を指す名に価値などないのだから、それくらいがちょうど良いのだ。何より五条悟の口からあの家の名前が出ること自体が耐えられなかった。私自身が嫌悪に苛まれるくらいなら、私だけが傷付けば良いだけの話だ。けれど、彼が私を通してあの家を認知し、その記憶の中に刷り込まれてしまうのがどうしても許せない。だって、それは私が一番嫌いなあの人たちの思惑の一片になってしまうのだから。
私は胸の内に駆け巡る複雑に絡まり合った思念を宥めながら、「なんで?」と問うた五条先輩に簡潔に述べる。
「単純に、嫌いなんです。あの家」
抱いた感情の表面を、なぞっただけのその乾いた言葉に、彼は色素の薄いまつ毛に縁取られた大きな瞳で一つ瞬いた。