「……へぇ〜、そういうこと」

 彼から向けられたのは探るような視線だった。
 その時、初めてきちんと目が合った≠ニ私は喉の奥を震わせた。普段背けている私の瞳を逃さなかった彼は、その目が眩みそうなほど美しい青で私の本質・・を見ていた。
 五条悟に私≠理解される。その恐ろしさを彼はまだ分かっていない。ただの嫌悪とは違う拒絶を、私がどれだけ彼に対して抱いているか、まだ彼には視えていないはずだ。
 六眼とは言えど、人の心までは読めはしない。だから、大丈夫だと、そう己を奮い立たせても、未だ注がれる冴え渡ったその青が私を視ている・・・・限り、私の深いところまで探られているようで、疑念は払拭できなかった。

「忘れた」

 彼に胸の内を探られぬように心を閉ざすことに必死だった私へ、唐突に投げかけられたその言葉。私は何を指しているか分からずに首を傾げた。

「え……?」
「お前の名前、何」

 素っ気ない言い草で告げた彼に、私はおずおずと口を開いた。

「……皐月です」
「ふーん、皐月、皐月ね」

 何度か私の名前を反芻した彼は小さく唸った後、「たぶん忘れるわ」と興味が逸れたように言い放った。
 名前を呼んで欲しくて「苗字で呼んで欲しくない」と言い出したわけではないので別に構わなかった。寧ろ、私の存在ごとその記憶から消して欲しい。
 さっさと歩を進めた彼の後に続く。自分が今どんな顔をしているか想像もつかなかったため、隣を歩く怪訝そうな表情でこちらを伺う七海の視線は気づかないふりをした。目を合わせてみても挙動不審が極まるだけだ。
 階段を上がる私たちは徐々に呪霊の気配が濃くなる階へ一歩一歩近づいていく。たどり着いた五階のフロアに佇んだ私たちは、一番呪霊の残穢が染み付いた突き当たりの部屋の扉を開けた。

「いない……?」

 残穢は確かにあるのに、肝心の呪霊が見当たらない。
 部屋の間取りは先ほど入った部屋と同じものだった。違う点といえば、明らかにここで人が死んでいると分かるところだろうか。壁紙やカーペット、カーテンに染み付いた血の跡。シーツは処分されたのかこの場にはない。そのかわりマットレスにまで染み付いた赤黒い染みは、先ほど五条先輩が話した呪霊の凄惨な手口を想起させた。荒れた室内に足を踏み入れた私と七海の背中に、五条先輩は軽い口調で投げかけた。

「とりあえずお前らだけでやってみなよ」

 私たちは振り返り、廊下からそう告げた彼へ視線を向けた。その瞬間、目の前の扉が勢いよく閉まり、五条先輩と私たちを完全に遮断した。それは確実に五条先輩の手によるものではなく、間違いなく呪霊の仕業であった。
 再びゆっくりと部屋の奥へ視線を戻す。マットレスの血痕の上に立つ、人間にしては手脚と胴のバランスがめちゃくちゃの、女のような・・・・・何かを模した異形。それがこちらをジッと見ていた。

「……なるほど。男女で部屋の中に入るという条件を満たさなければいけないのか」
「そういうこと……」

 足を踏み入れた部屋はこの呪霊の土俵。一種の簡易領域に類するもの。
 なぜ私がここに呼ばれたわけが分かった。私が一年で唯一の女≠セから。これに尽きる。この任務が七海と灰原じゃいけなかったわけはそれか、と納得した。……そう、納得はしているのだ。
 女という性≠意識させることは慣れているはずなのに。こんな些細なことで傷ついていたらキリが無いと、言い聞かせて慣れている≠ニ暗示をかけていたはずのなのに。所詮、私が生まれた意味などそんなものなのだと、気にも留めていなかったところから顔を出すのものだから、心にあるその決意がぶれてしまう。
 私は見え隠れした自分の本音を塞ぐように大きく深呼吸をした。

「私が仕留めるので援護をお願いします」

 そう言った七海は『おトぉ、おおおぉおオト、コおおおぉぉおぉおおお』と奇声を発した呪霊に切り込んだ。しかし、呪霊はその一撃をするりと難なく躱した。狭い室内だというのに俊敏な動きで壁を、天井を蹴る。ボコボコと凹んでいく様子を私は蚊帳の外で見ていた。
 この呪霊の標的は完全に七海だった。恐らく女たちの男へ対しての怨恨が折り重なって生まれた呪霊なのだろう。私には全く目もくれないソレは七海の頬を、腕を、脛を掠めていく。
 祓うには、まず動きを止めなければ何も始まらない。私は傷が増えていく七海の背後に立ち、彼の死角を見張る目となった。私が出来るのはこれくらいしかない。敵が首を取りに来ることは分かっている。軌道は絞った。後はタイミングだけ。
 予想通りに敢えて残しておいた隙に飛びついた呪霊へ、五本の指を綺麗に揃えた手のひらを向け、呪霊に触れた瞬間呪力を込めた。

「七海、トドメを刺してくれると嬉しい」

 呪霊の動きを封じた私は、背後の彼に呼びかけた。彼は呻くような返事をして、刀身を呪霊へ切り込んだ。
 呪霊の矮躯が刃によって切り裂かれる。しかし、四散した肉片は瞬時に形を成した。その一部が固く閉ざしていた部屋の扉をブチ破り、外へ逃げて行く。

「追ってください! 恐らくソレがこの呪霊の急所です!」

 分裂したうちの一体を仕留めながら、そう叫んだ彼の言葉に弾かれるようにして私は部屋を出た。確かに、動きを封じることができる私が追うのが適切だ。
 そう私は走り出し、廊下で壁へ背を預け、決して手出しをすることはなく傍観を貫いている五条先輩と視線が交わった。その鋭く探るような瞳に、私は今試されているのだと瞬時に感じ取ってしまう。
 しかし、今はそんなものを気にしている場合ではなかった。とにかくあの呪霊を捕らえなければならない。動きは先ほどよりも遅い。これなら一人でも問題なさそうだ。
 誘い込むために開けた別の部屋の中は、先ほどの部屋に比べて綺麗な状態を保っていた。あの部屋ばかりで呪霊の被害が起きていたということなら、この呪霊は力を使う場所をあの部屋に限定することで呪力の底上げを図っていたのだろう。己に科した縛りから外れた条件の今ならこちらに分がある。
 見事に開けた扉にぶつかり、動きが鈍くなった呪霊に触れて呪力を流し、術式で動きを封じる。よかった、と安堵しながら肩で息をした私は背後に佇む気配に勢いよく振り向いた。

「それで?」

 床に膝をついた私を見下ろす彼の冷めた口調に、私は呪力が途切れないように意識しながら問い返す。

「それで、って……」
「お前、何しにここに来たわけ?」
「呪霊を祓いに、です……けど、私、祓えないんです。封じることしか、できなくて……」

 使えない、と罵られるのだろうか。その通りだから仕方がない。封じる≠ニいう力は、遠い昔は重宝されたらしいけれど、時が経つ毎に愚行だと謗られるようになっていった。
 問題を抹消する祓うという行為と、問題を先送りにする封じるという行為。どちらが賢明な判断か子供でも分かるだろう。これまで長い時をかけて、先人たちが残した過去の負債──封印されてきた呪物を、問答無用で管理しすることを背負わされ続けてきたのだから、人々が曖昧なこの力を忌み嫌うのも頷ける。
 役に立たないこの術式のことはもう諦めている。五条先輩から向けられる鋭い言葉に傷つかないように、事前に壁を作っておく。しかし、実際に向けられた彼の言葉は、私の予想していたものとは少し違っていた。

「できないんじゃなくて、トドメを刺す気がないの間違いじゃないの」
「そんなことは……!」

 私だってトドメをさせるならそうしたい。
 声を上げた私に、彼は容赦のない言葉を突きつける。

「お前の術式は六眼で視ればすぐに解る。だからこそ言ってんだよ。なんでできるのにやらないわけ? その気がないのに呪霊の前に出てって、ハイ死にました、じゃ話にもならないの分かってる? 何、もしかして自殺願望でもある?」

 言葉が、出てこなかった。ハクハクと酸欠になった魚のように口を開けては閉じを繰り返し、声にならない感情が胸でつかえる。
 正論だ。間違いなく、彼の言葉は全て正しかった。本当に祓うことはできないけれど、彼の六眼が誤りを見出すとは思えなかったし、ただ犬死するのがどれだけ無駄なことも十分に理解できる。そして、自分の命の意味に絶望した私には、確かに自殺願望があった。ぼんやりと胸の内にあったそれは、今この場で彼の言葉によって輪郭を成した。
 ──そうだ、私はずっと消えたかった。こんなに辛い思いをなぜ私がしなければならないのだろうか。どれだけ足掻いても付き纏う彼の存在から解放されたかったんだ。まさか、それを彼に気づかされるなんて。
 上手く吸うことすらできない息。頭の中で処理しきれない感情たちは、よりその混乱に拍車をかける。
 そんな私など眼中に無い彼は、自身の指を軽く弾いた。連動して手元にいたの呪霊が弾け飛ぶ。
 私ができないことを目の前でいとも簡単に成し遂げられてしまった。触れていた呪霊だったものがドロリとした液体に変わり、私の手を汚している様を茫然と見つめていた。

「まあ、お前がその命をどう使おうが、俺には関係ないけど」

 その言葉に、濡れた指先が震えた。それは怒りのせいでも、絶望のせいでもない。ただ己が虚無≠ナあることに目の前が真っ白になった。

 ──それでも……貴方には、五条悟≠セけには、言われたくなかった。
 お互い望まないとしても、私は彼のために生きるしか存在意義を見出せないというのに……私の命は彼のために生み出されたものだというのに。それは私の意に反する道だとどれだけ嫌悪しても変わらない事実で、受け入れなければならない運命だ。それでも当の本人には関係ない≠ニ簡単に言い捨てられてしまう存在なんだ。分かっていた、分かっていたけれど、恥ずべきことに、私のアイデンティティはそれしか無かったのだ。私の個性を構築するそれを彼に否定されてしまったら、本当に私が生きる意味がなくなってしまう。
 欠落していたものたちが浮き彫りになっていく中で、砕け落ちた自分の心を拾い上げることもままならないまま動けない私は、涙さえも流せなかった。





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永遠に白線