人間、傷を負ったら養生しなければならない。それは肉体に与えられた傷だけではなく、心に負った傷も含まれる。……はずだ。
 あれから私は五条悟と関わらないように避け続けた。私も自分が辛くなるようなことをわざわざ進んで行うほどマゾではない。周りに迷惑をかける前に、自分の精神状態を安定させるほうが優先すべきことだろう。
 しかし、避けると言っても強気な態度を取る勇気もなかったので、無駄に近寄らず目があったら挨拶するくらいの、後輩としての礼儀は保ちつつ波風を立てない程度の小さな抵抗だった。
 幸いなことに普段は彼も忙しいらしく、一年に構う暇もないようだったので、夏油さんに懐いた灰原のように自分から突撃していかない限り先輩たちに関わる機会もなかった。
 関わらない限りは心の安寧が約束される。触らぬ神になんとやら、とは言うけれどそれは言い得て妙だった。五条家は久世家にとって間違いなく神だ。その遠く手の届かない存在へ、身の程知らずにも肩を並べようと足掻く姿は見るに耐えなかった。だから、私はあの家が嫌いだし、あの家の言いなりにはなりたくない。初めからそう決めていたのだから、これが正しい私の選択した道は間違っていない、と信じ込むことで精神を保っていた。

 西日が差し込む校舎から外へ出た私は、茜色の中長く伸びる影を引っ付けて石畳の上を歩いて行く。決して追い越そうとはせず、ただ斜め後ろで歩調を合わせるだけの従順な私の形をしたそれから視線を上げると、私のものより随分と長い影を従えて歩く七海と目が合う。そんな彼を呼び止めた私は、隣にいると予想していた相手がいないことに首を傾げた。

「あれ、灰原は?」
「四六時中一緒にいるわけじゃないので」

 確かに。私だって常に影のように七海や灰原にべったり引っ付いているわけではない。それでも二人が一緒にいるものだと思い込んでいたことを不思議に思いながら「それもそうだね」と相槌を打った。

「彼に用があるなら自販機へ」
「居場所は知ってるんだ」

 そう小さく笑うと七海は怪訝そうに眉間に皺を寄せた。

「可笑しいですか?」
「ううん、そんなことない」

 傍に居なくても居場所が分かっているという関係が微笑ましく、少し羨ましくなっただけだと説明しても、よく分からない様子で首をかしげられてしまったので、今度はごまかしの笑いを小さく零した。

「それじゃあ、あっちのほう探してみようかな。ありがとう、七海」
「灰原への用はそれですか?」
「うん。報告書に記入ミスがあるって補助監督さんが困ってたから」

 胸に抱いていた透明なファイルに挟んだ報告書へ目線を移した彼に事情を話すと納得したように「ああ」と呟いた。それに続く言葉を彼が発する前に、私は思い切り彼の腕を引いた。視界の隅に捉えた白髪の人物に見つからないよう、そのまま彼と共に傍の茂みに飛び込む。
 彼は目を白黒させていたけれど、近づく足音と話し声に全てを察したのか、私と同じように呼吸を殺している。

「後輩に懐かれて良かったなぁ?」
「それ、僻みかい? 悟がそんなだから懐かれないんだと思うけど?」

 五条先輩と夏油さんがそんな言葉を交わしながら肩を並べて歩いて行く。
 会話の内容からして先ほどまで灰原と一緒だったのだろう。嫌な方向に話が転がりそうな雰囲気に背中を丸めギュッと膝を抱えながら、草木の間から見え隠れする彼らの足元を見つめた。

「はぁ? 別に俺、他人の面倒見るのなんて御免だし」
彼女・・に目を合わせて貰える日は遠いね」
「そんな日なんて来なくていいっつーの。あんな陰気臭い女に懐かれても逆に鬱陶しいだろ」

 ……良かった。
 初めに浮かんだ言葉はそれだった。彼に嫌われたままでいることに安堵しただけではない。先日砕け落ちた胸が少しも痛まなかった。もう彼から何を言われても、あれ以上のことはないのだと再確認できた。しっかり心が癒え、メンタルが鍛えられている証拠だ。そのことについ安堵して、緊張していた表情が緩んでいく。

「事情があるんだろう」
「そんなことに構ってられるほど暇じゃないんでね」

 そう吐き捨てた五条先輩の声が遠ざかっていく。こちらに気を留めた様子が無かったことに胸を撫で下ろし、止めていたも同然の息を吐き出した。ゆっくりと面をもたげて視線を上げた私は、すっかり七海の存在を忘れていた。

「あ……ごめん」

 そうだ、七海を巻き込んでしまった。咄嗟の行動とはいえ、こんなつもりではなかったのに。しかし、私一人だけ逃げていても彼を困惑させていただろうし仕方がない。
 私は慌てて立ち上がる。しかし取ったばかりの距離は、彼によって詰め寄られてしまう。

「何故、五条さんを避けるんです」

 この場において最も適切な疑問だった。何と答えていいものか、あまりにも長い話になりそうで説明がしづらい。

「話したくなければ別にいいです。気にしません」

 そうは言いながらもふい、と目を逸らした彼が不貞腐れた子供のように見えてしまう。話したくないわけではないのだと私は首を振った。

「どんな風に説明したら分かってもらえるか、考えてた」

 骨の髄まで呪術界の膿に浸かり切った私と、比較的マシな部類に入るこの高専へ入学して数ヶ月の七海とでは価値観が違うのは明らかだった。
 私の言葉に「そうですか」とため息混じりに零した七海の眼差しは、これまでの私がとった行動の数々を呼び起こしていた。

「貴女は最初から五条さんに対して態度がおかしかった。入学してから何かあったという訳じゃないんでしょう」

 皆との顔合わせの時、五条先輩の登場にあからさまに動揺してしまったことを思い出した。賢い七海のことだ、あれを不審に思わないわけがないし、簡単には忘れてはくれないと、出会ってから短い時間の中でも濃い付き合いをしてきたが故にそう悟ってしまう。

「よく、見てるね」
「貴女がそんな顔する時は、決まってあの人が絡んでいる。……あの日もそうだった」

 あの日──あの日か。初めて彼と五条先輩と任務に出向いた日。私はどんな顔をしていただろうか。私は今、どんな顔をしているのだろうか。
 頭上で鳴いたカラスの声に我に帰る。私は自分の表情を探して七海の瞳を覗き込むと、彼はそれを拒むように一つ瞬き、目を伏せた。彼を真似て私も足元に視線を落としながら、自分に言い聞かせるように声を落とした。

「五条先輩は悪くないよ。……うん、何も悪くはない。私が勝手に距離を置いてるだけ」
「……そうですか」
「ごめん。これからは今みたいに迷惑をかけないように気を付けるから。だから、今は非難しないで」
「いえ……それはしませんが、そういうことではなく」

 言い淀んだ七海は自分の中にある感情に見合う言葉を探すように、しばらく視線を泳がせていた。そうして、先ほどまでうるさかったカラスの鳴き声も聞こえぬ静寂の中で、ようやく私に焦点を合わせた。

「何故、そこまで予防線を張るんです」
「私はあの人に嫌われたままでいるべきだから」

 即答した私に七海は目を丸くした。そしてすぐに今まで見たことがないくらい深く眉間にシワを刻む。

「何故そんな風に自分を卑下するんですか」

 その硬い声音に、今度は私が眉を寄せる番だった。彼の発言がどうにも腑に落ちなくて、訝しげに彼を見上げては恐る恐る尋ねる。

「あの、七海、ほんとに私に興味ある……?」
「は、?」

 ここまで表情が抜け落ちた七海は珍しいかもしれない。無表情とは別の気が抜けた様子は、いつもより一段と幼く見えた。まさか彼がそんな反応をするとは思ってもいなかった私は、すぐさまその場を取り繕う。

「え、いや、だって、私七海の好奇心を満たせるほど面白い人間じゃないし……さっきから何故≠ホっかりで、もしかしたら気を遣って質問してくれてるのかと思って……」
「は? 何故私が貴女を気遣わなければいけないんです」
「あ、ごめん、そうだね、その通りです……」

 私の予測をバッサリ切り捨てた七海。思い上がってしまった私は、萎縮しながら視線を彷徨わせた。
 恥ずかしい。他人から気遣って貰えるような人間じゃないのにそんなことを考えてしまうなんて。穴があったら今すぐ入りたい。
 グシャリ、髪をかけ上げた七海は「ああ、だからそうじゃなくて」ともどかしそうにかぶりを振った。

「私は貴女のことを何も知らないので、知りたいと思いました。それだけです」

 言葉だけ聞くとなんだかこそばゆいものを感じるけれど、いつもの仏頂面でそう言うものだから、私は彼の真意を測りかねて小首を傾げる。

「……それって、ほ」
「本当です」
「…………」

 食い気味に言葉の先を言い当てられ、何も言えなくなってしまう。困惑を隠せない私は「七海って変わってるね」と口にすることで、居心地の悪い沈黙を誤魔化した。





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永遠に白線