夏油傑と名乗る僧侶と出会ったのは、残暑の厳しい夏の終わり、街がぼんやりとした橙色に染まる中、全身を夕立に洗われていた時だった。
コンクリートの地面を打ち付ける驟雨に襲われたわたしは、濡れることなどとうの昔に諦めて、いつもと変わらぬ歩調を貫いていた。人々が足早に目的地へ急ぐ日常が存在しているというのに、いつもそこにあるはずの雑踏がザアザアともゴウゴウともつかぬ轟音で掻き消されている。頭上にのさばる鈍色をした厚い雲。その脇から西日が差し込む様子は、救いの手を差し伸べる希望の光にも取れたし、悪あがきの末、消え失せる寸前の最後の瞬きにも見えた。破壊と再生が同時に押し寄せるような矛盾した感情を抱えながら、わたしは時の流れに取り残されていた。
目に映る街並みは、全てが早送りされた映像のようだというのに、その中に一人、わたしと同じように世界に取り残された子供がいる。忙しなく過ぎ去っていく周りの人々は気に留める様子もないのに、わたしだけは土砂降りの雨の中、ただその場に留まる一人の少女から目が離せなかった。
「大丈夫?」
導かれるように吸い寄せられたわたしは、幼い少女の前に膝をつく。顔に張り付き、視界を塞いでいた自分の前髪を払い除け、そっと少女の瞳を覗き込んだ。
「お父さんかお母さんとはぐれた?」
そう問いかけても少女は何も言わなかった。ただわたしの目をじっと見つめ、雨に打たれるだけ。
何も答えようとしない彼女に困り果てていた時、頭上で雨音が鈍く遠のく。
「どうかしましたか?」
自身の身体を濡らしていた雨粒が止んだ代わりに、降ってきたのは男性の声だった。振り向いた先、目に飛び込んできたのは袈裟を纏った僧侶だった。
わたしは彼の傾けた傘の中でゆっくりと立ち上がる。
「この子、迷子みたいで」
「迷子?」
薄い瞼を瞬いて、彼は切長の瞳を僅かに見開いた。
「やっぱり女の子一人放っておくわけにもいかないので……あの、近くに交番ってありましたっけ?」
この街に住み始めて、まだ数ヶ月。普段警察にお世話になることもないので、よく通る道に見当たらなければ場所を知ることもない。この土地にある寺院のお坊さんだったのなら、土地勘もあるかと思いそう尋ねるも、彼から返ってきたのは、わたしの質問への答えではなかった。
「足元」
「え?」
言われるがまま、自分の足元へ視線を落とす。
「あれ? いない……」
「走って行ったよ。たぶん親を見つけたんじゃないかな」
「え、あ……それならよかった……」
忽然と姿を消した少女に驚きつつも胸を撫で下ろした。わたしは人々の行き交う中に消えていったという彼女の小さな背中を探すも見つからず、大人しく視線を傘の中へ戻した。周囲よりも一等暗い影が差す狭い空間は、わたしと彼の二人だけで構成されている。普段よりも楽に呼吸をしているようにも、そもそも呼吸すらしていないようにも取れる不思議な感覚に陥った。
目の前の男は、相反する何かを持っている。彼の目尻が細められるのを見つめながら、わたしは直感的にそう思った。
「優しいんだね」
「たまたま目についただけなので、そう褒められるようなことでは……」
声をかけようと決めて少女に近づいたわけではなかった。わたしも傘さえ持っていれば、濡れることを恐れて周囲の人間と同じように足早に立ち去っていただろう。持ち得ているからこそ見えないものもある。目を留めたのは、わたしが持ち得ていなかったからだ。
胸の内で行動に至った訳をつらつらと挙げているわたしを、彼が現実へ引き戻す。
「傘、このまま入ってくかい?」
「いえ、自宅はすぐそこなので大丈夫です」
「それじゃあ尚更送っていこう」
「え、いや……」
ここまで濡れていればこれ以上濡れることなど怖くはないというのに、「さ、行くよ」と腰を抱かれ蠢く雨の街を歩き出してしまえば、彼が作り出した影の中から出る理由はなかった。
「急に降られて大変だったろう」
「え、ええ。帰りで助かりました」
ぎこちなく答えるわたしのことなどお構いなしに、彼は淡々と質問を浴びせる。
「出先では何を?」
「バイトです」
「へぇ、偉いね。何の仕事?」
「日雇いでなんでもやります。今日は交通量調査でひたすらカウンターを押してました」
「それは大変だ。特にこの時期は暑いからね。今は夏休みかい?」
「いえ、大学生では……ただのフリーターです」
「そうか、人それぞれだからね。私も大学には通わなかった」
柔和な表情で語る彼の横顔を見上げる。「言い辛いことを言わせてしまったね」と眉を下げられてしまえば、何も言えなくなってしまった。
纏っていた彼の香が鼻をくすぐる。湿っぽく重さを帯びたそれは、喉の奥に張り付きながら肺を満たした。まるでわたしの身体を侵食しているようで、脳の奥底がジワリと溶ける感覚に長く息を吐き出した。
「ここです」
振り払えない感覚を引きずったまま、古びたアパートの前で足を止める。わたしは傘の中で彼と向き合った。
「わざわざありがとうございました」
「風邪を引かないように」
ハンカチで頬を拭われ、そのまま自然な手つきで握らされる。既に湿ってしまったそれを拒否することはできず、戸惑いがちに問いかけた。
「あの、これ……」
「ん?」
「ハンカチのお礼って」
「……それじゃあ、何か悩みがあったら連絡して欲しいな」
「悩み……」
それがお礼になるのか、という疑問もあったけれど、何より彼が私に悩みがあると見抜いていることの方が不思議だった。
雨の音が全てを遮断する。傘の中の小さな世界で、わたしは息をする。そしてまた彼も、小さく息を吐き、濡羽色の瞳で外界から切り離されたこの場を静かに映し出した。
「君にはきっとあるはずだ。他人には到底理解してもらえないような悩みが」
「……なんで、そう思ったんですか」
薄く笑みを携えた彼は、再びわたしの問いには答えなかった。代わりに手に持っていた傘の柄を腕で抱え、狭くなった傘の下の空間へ抱き寄せる。
「濡れてしまうからね」
わたしに問われる前に理由を告げた彼は、胸元から紙とペンを取り出し、サラサラと文字を書いていく。そして、彼の腕の中でひたすら息を殺していたわたしへ、その紙を手渡した。
「夏油傑。私の名だ」
名前と連絡先が書かれたそれを見つめ、心の中で彼の名前を復唱する。
夏油傑。外見と同様の繊細さを感じさせるシャープな字体ではあるものの、ハネの部分に少しクセがあることに、より一層彼の人となりを見た気がした。
わたしは彼の文字を折り畳み、唯一濡れていない鞄の中に仕舞い込む。連絡をするとも、しないとも、確定的な言葉は口にしなかったけれど、彼は満足そうにわたしを見下ろしていた。
「……あまり帰りが遅いと家族が心配するので」
「それはいけないね。私ももうお暇するよ」
一礼と共に「ありがとうございました」と告げ、傘の中から出る。錆びついた階段を登り始めたところで、足を止めて振り返った。
雨とはこんなに冷たいものだっただろうか。いつのまにか、あの傘の下の湿っぽくも生暖かい空気が、異様なほど居心地が良く感じてしまったせいなのか。
視界が雨に濡れることも厭わずに、遠ざかっていく黒い傘を見送る。
きっとわたしは、彼へ連絡するのだろう。
──もう一度、彼の傍に在ってみたい。
そう思わせる彼は一体何者なのか、どうしても自分の目で確かめたくなってしまった。
自宅の重たい扉を開けて、薄暗い部屋の中へ体を滑り込ませる。テレビの光がチカチカと白い壁を照らしていた。
自分からしとしと滴り落ちる雫が床を濡らす。拭く物を探しに自室に行くついでに居間を覗くと、父がテレビの前で眠りこけている。
「父さん、テレビつけっぱなしにするのやめてよ」
駆り立てるような実況と共に、画面の中で何頭もの馬が競り合って走っている。わたしはその様子を一瞥したものの、容赦無く暗転させる。声をかけてもなお、起きようともしない父にため息をついて部屋を出た。
「あ、母さん洗濯したタオルどこ?」
台所に立っていた母に尋ね、ようやくタオルを手したわたしは風呂場へ駆け込んだ。叩きつけるような冷たい雨とは違い、包み込むような温かいシャワーを浴び、ようやく張り詰めていた何かが緩んでいった。
──明日は、雨が降るだろうか。
雨は好きでも嫌いでもないけれど、晴れではなく雨に期待したのは、生まれて初めてかもしれない。
白い湯気に満たされていく宙をぼんやりと見つめながら、そんなことを思った。