わたしは仕事に向いてない。引き攣った表情で「明日から来なくていいよ」と言われた数を競えば、確実に一等賞を取れる自信がある。
十九になる年、丸腰で社会の荒波へ放り出されたわたしは、とにかくなんだってやった。スーパーのレジ打ち、飲食店のホールスタッフ、宅配ピザの配達員、ラブホテルの清掃だってしたし、コールセンターでクレーマーに「申し訳ございません」をひたすら繰り返す不毛な仕事だってした。
どれもこれも、すぐに首を切られ続けた一年と半年。精神が摩耗しなかったと言えば嘘になる。しかし、人というのは食わねば生きられず、食うためには金が必要だ。例え人と関わるのが向いていないからと言っても、心が荒廃しても尚、働かざるを得ないのだ。
言い訳をすれば、原因に思い当たる節がないわたしにとっては対策の取りようがない。そう、こればっかりは今のところどうしようもできなかった。そこまで追い詰められてしまったら、狭められた選択肢の中から深く人付き合いしなくて良い仕事を選ぶしかないのだ。
額に滲む汗を拭って、焼けついたアスファルトの上を歩いて行く。すぐ横の民家の前で立ち止まり、わたしは袋の中からチラシを取り出してポストに挟んだ。
ポスティングのバイトはわたしにとって働きやすい仕事だった。空いてる時間で小遣い稼ぎができて、人間関係で悩むこともない。長距離を歩くのも嫌いじゃないし、運動にもなる。金と健康と心の安寧を同時に手に入れられるなんて、こんなに素晴らしいことはないだろう。
足下から立ち上る熱気を踏みしめて、再び歩き出す。
住宅街の中、庭先で土いじりをしている老婦と、ふと目が合った。そのまま歩を進めようと一歩踏み出すが、これだけしっかりと目が合っておいて視線を逸らすのは失礼かもしれないと思い直し「こんにちは」と会釈する。
「お庭、綺麗ですね」
「ええ。ガーデニングが趣味で」
「この時期は雑草の手入れ大変そうですね」
「そうねぇ、暑いとなかなか億劫になってしまって」
太陽を見上げている向日葵を眺めながら、他愛のない会話を交わす。「熱中症にならないように気をつけてください」と老婦へ労りの言葉を掛けたわたしは、久しぶりに赤の他人と話したかもしれないと、少しだけ口角を上げた。
その刹那、背中越しに衝撃を受ける。重心を失い二、三歩前へよろけてしまう。
「……ああっ可哀想に!」
「え……」
体当たりに等しい勢いで傍にやってきた女性は、わたしの両手を力強く包み込んだ。全くもって知らない人だ。清楚な白のブラウスとネイビーの膝丈のスカートを纏った、二十代後半くらいの彼女は、目に薄く涙の膜を張り、キラキラと綺麗に日差しを反射させ、わたしを見上げていた。
「本当に救われるべきは貴女のような方なのです……!」
可哀想に可哀想に、と繰り返す彼女に「はあ……」と曖昧な相槌が零れる。
初対面の相手にここまで同情されるほどわたしの人生は惨めなのだろうか……。確かに恵まれているとは言い難いけれど、ここまでではない、と思いたい。
それでも綺麗な女の人に泣かれながら、手を取られてしまえば、邪険にするのはなんだか申し訳なくなってしまう。
「辛いでしょう、苦しいでしょう……! 大丈夫ですよ、共に教祖様に救ってもらいましょうね」
「教祖様?」
脳裏に一人の人物が過ぎる。思わず問い返してしまったせいで、興味を持ったと勘違いされたのか、彼女はより一層潤んだ瞳を輝かせて一歩わたしに近づいた。
「ええ、それはもうお優しい仏のような方ですよ。私たちのような弱きのために手を差し伸べてくださるんです」
彼女はうっとりと夢見心地に表情を緩めては、「ちょうど今から集会があるんです」と半ば強引にわたしの手を引いた。
「あの、わたしまだバイト終わってない……」
「大丈夫ですよ、神はお許しくださいます」
「いやそういうことじゃなくて」
もし仮に、彼女の言う神とやらが許してくれたとしても、わたしには一銭も入らない。
着いて行ったとしても、何の得にならないにならない上に、面倒事になりそうな予感しかしないのならば、この手を振り払って逃げてしまった方がいい。それでも、彼女の歩幅に追いつこうと駆ける足を止められない。
彼女の言う教祖様≠ェ、わたしの思い描く彼≠ネのか。そう胸の中で疼いた好奇心が、わたしに前だけを見させていた。
鉄筋コンクリートのこじんまりとした建物。比較的新しく綺麗な室内に脚を踏み入れれば、冷気が肌を撫で熱を攫っていく。内装は和室が連なっており、どの部屋もピッタリと襖が閉め切られている。床を擦る足音が静かな空間に響き、妙な緊張感を刺激する。導かれるまま、奥へ奥へ続く廊下の先に行けば行くほど、覚えのある香りが鼻の奥をくすぐる。
柔らかくも混沌へ誘い込むような妖しい幽香。この香の香りは、あの日、土砂降りの中、傘の下で彼と言葉を交わした湿っぽい記憶と確かに結びついていた。
ようやく通された部屋は、思ったよりも広く、畳が敷き詰められている様に、何だか寺の本堂のようだと思った。既に集会は始まっているらしく、白い着物を纏った人々が前列の方を陣取っており、わたしのように私服の人たちもチラホラと後列の方に紛れている。
わたしは正面の壁に飾られた掛け軸に目を奪われ、思わず立ち尽くす。
弱者に死を
弱者に罰を
弱者に愛を
「私たちは皆弱い生き物です。それを自覚することで心の中に居座る弱い己を葬り、悔い改めることで己を罰し、同じ境遇の隣人──家族≠愛することで皆救われるのです」
進行役なのだろうか。信者の一人が前に立ち、彼らが信じる教えを噛み締めるように述べている。
チラリとここまでわたしを連れてきた彼女の顔を横目で盗み見れば、ただ真っ直ぐに前を見据え、大きな瞳を歓喜に震わせていた。
わたしは両手を顔の前で擦り合わせる信者たちの様子を、呆然と見つめた。明らかに異様だった。仏教や神道など、自分の周りに根付いた身近な宗教にはこんな感情を抱いたことはなかった。ただ、人とはこんなにも容易に新しい何かを信じることができるのかと、不思議で、少し怖かった。
──彼らを先導しているのが、本当に彼≠ネのだろうか。
そう自問自答して、はたと思考を止める。そして、その問いを迷いなく振り払った。
違ったら、何だというんだ。仮に、もし本当なら、わたしはどうするんだ? これまで彼に感じた印象を全て覆すのか? 全てを見なかったことにして関わりを断ち、陰で指を差して彼を否定するのか? 違う。違うだろう。それはわたしが一番嫌いな世間の価値観だ。わたしはわたしの感じたままに、わたし自身の物差しで物事を、他人を測らなければ、同じことの繰り返しだ。
「教祖様だ!」
信者の一声に、ハッと息を呑む。一気に思考を引き戻し、顔を上げた。「教祖様」と拝む声があちこちから上がる。
畳を足袋で滑らせる音と共に現れたのは、間違いなくわたしの知る彼、夏油傑だった。彼は一段高くなった上段の間から、つるりと信者たちの垂れた頭を目でなぞる。
場に合わせることなどしなかった。わたしはただ、彼が人の上に立つ様子を見つめていた。目の端で見下ろす彼と、嫌でも視線が交わる。最後列にいるとはいえ、綺麗に地に伏す者たちの中で、一つだけ頭が飛び出していたら悪目立ちするに決まっていた。
細められていた目が、僅かに見開かれた。その瞳孔の収縮を、わたしは見逃さなかった。
彼もそれに気づいたのだろうか。罰が悪そうに肩を竦ませた後、小さく微笑んだ。そんな気がした。彼の横髪が表情を隠したせいで、確信は持てなかった。
いつまで経っても座らない彼に、信者たちが様子を伺うように顔を上げ始める。そして、彼の視線を一身に受けているわたしの方へ、探るような眼差しを向ける。
その場にいる全員に注目されるという、何とも気不味い状況に、どうして良いか分からず、ジリと一歩後ろに下がった。
「彼女は私の客人だ。奥の部屋へ通してくれ」
上座から助け船を出した彼に、内心安堵しつつも、信者たちの「教祖様と知り合いなのか」という値踏みをするような視線に、更に居心地が悪くなる。彼の傍に控えていた信者の一人が素早く部屋の外へ連れ出してくれたおかげで、何とか心の安寧が保たれた状態だった。
応接室に通されたわたしは、高級そうなソファーに腰を沈め、その柔らかさに驚いては、出された茶を啜り、物珍しげに室内を観察する。如何にも、と言ってしまいそうな、壺や数珠が飾られているのを眺めては、幾らするのか勝手に予想しながら暇を潰した。脳内オークションで占い師が愛用していそうな水晶玉が、わたしの一ヶ月の給料半年分で落札された頃、室内に扉を開く音が響く。
「やあ、待たせたね」
思わず立ち上がりそうになったわたしを、手で制した彼は、正面のソファーへ腰を下ろす。そして、後から運ばれてきた茶を一口含ませ、深く息を吐いた。
「まさか君がいるとは思わなかった」
「わたしも、まさか貴方が本当に教祖様だったなんて思わなかったです」
「おや。私が言ったこと、疑っていたのかい?」
「そういうわけでは……でも、現実味がなくて」
決まりが悪く、そう言うしかないわたしに「分からなくもない」と同意を示した彼は、そっと眉を下げた。
「信者が無理やり連れて来たみたいですまないね」
「いえ。確かに驚きはしましたけど、教祖様は弱いわたしたちを救ってくれると熱弁されて流されたのはわたしなので」
ゆるゆると首を横に振るわたしは、教祖様が本当に彼なのか、どうしても気になってしまった、とは本人を前にしては言えなかった。本心とはずれた理由を告げると、彼は無に等しい表情で、黒々と静かに存在を主張する、銃口のような底冷えする瞳に照準を向けられる。
「弱い? 君が? 信者がそう言ったのかい?」
「は、はい。そうですけど……」
「笑わせるね。反吐が出るほど滑稽な冗談だ」
苛立ちが混じる彼の鋭い語気に気圧される。恐らく、わたしに向けられたものではないというのに、初めて浴びる彼が放った殺気に、背筋が嫌な汗でじっとりと濡れていく。
彼はこんなにも恐ろしい表情もするのか、と今まで向けられていた表情が、如何に生暖かいものであったか実感する。
「猿の戯言は耳を塞ぐに限る」
「さる……?」
「ああ、こちらの話だよ」
ようやく張り詰めた緊張の糸を緩めた彼は、仕切り直しと言わんばかりに、唇に弧を描いた。
「せっかくここまで来てもらったんだ。丁度いい、君の不幸体質改善に尽力しよう」