昔、近所の子供に「変なの」と言われたことがあった。わたしは彼らと違う≠フだと、指を差された。
子供というのは、例え幼くても人という生き物であることには違いない。自分との差異を感じれば、ただただ無垢な眼差しで、身近に転がっている大人が創り出した偏見の価値観を拾い上げ、吸収し、自分の持ち得た物差しの解像度を上げていく。そうやって皆、置かれた環境に順応していくのだ。それは善悪以前に子供の学びであり、成長とも言える。子供はいつの時代も世を写す鏡だ。
今でもわたしには、あの子供たちが悪いとは思えなかった。きっと、本当のことだったのだから。
歳を重ねるにつれて、面と向かってそういったことを言われることはなくなったけれど、その代わりに人は寄り付かず、遠巻きにされた。それを悲しいとか辛いと思うより、不思議に思う気持ちの方が大きかった。
わたしは皆と同じ世界を生きているのに、何故そうまで避けられなければならないのだろうか。皆それぞれ個性という差異はあっても、それぞれのコミュニティを築けているのに、わたしは何故それすらもできないのだろう。凡庸を体で表したようなわたしなんて、薬にはならないだろうが毒にはもっとならないのに。
そう信じてやまなかった。しかし、あの幼い頃に言われた「変」の一言が、杭のように今もまだ胸の内に刺さっている。一体わたしの何が変なのか、未だに答えを見つけられていない。誰もが離れていってしまったから、答え合わせをする機会すらも逃してしまった。両親だけがわたしを見捨てないでいてくれたけれど、二人はそれらについて言及したことはなかったから、尚更分からなくなってしまった。
目の前のテーブルに置かれたグラスの中で、氷がカラカラと音を立てている。現実に引き戻されたわたしは、「ごゆっくりどうぞ」とにこやかに去っていく店員に会釈をし、アイスコーヒーの先にいる彼に視線を戻した。
「それにしても、お礼って本当にこんなことで良かったんでしょうか」
「ああ、ただの口実だからね」
ツルリと曲線を描いたグラスの中身を、紙ストローで戸惑いがちに回す。小気味の良い音が、店内に流れる音楽と共に鼓膜に響いた。
あの日手渡された番号へ連絡したわたしは、指定された喫茶店でこうして彼──夏油傑と再び相見えていた。
一面ガラス張りの窓側の席で、顔をつき合わせているわたし達には、どこか居心地の悪い空気が付き纏っている。いや、わたし達、というよりわたしだけだろうか。彼はそういったものとは無縁のところにいるような気がした。
わたしは彼の言った言葉の意味が理解できずに、手元のストローと同じように視線を移ろわせながら「口実」と反芻する。すると彼は、卓上に置いてあった、先ほど返したばかりのハンカチの入った袋の上へ、トンと指を落とした。
「ハンカチを握らせたのは一種の賭けだ。迷子の少女に声をかけるくらいの善人である君なら、礼をすると言い出すだろうと見込んだから、と言う方が正しいかな」
善人か悪人か、を問われたら間違いなくわたしは善人寄りではあると自覚しているけれど、面と向かって「善人」と言われるのは、どうにも喉の奥に小骨が刺さったような感覚に襲われてしまう。
わたしはそれら全てを飲み込んで、恐る恐る問う。
「そうまでして、一体何を……」
「一度ちゃんと話がしてみたいと思っただけさ」
目尻を下げて笑いかける彼は「構わず飲んで」と目の前のグラスへと促すけれど、彼自身は一向に口をつける素振りすら見せなかった。
おずおずと一口、爽やかな苦味があるそれを吸い上げる。わたしは、彼が何故わたしと話をしようと思ったのか、ひたすら考えた。
「その、お坊さんの仕事というのをよく分かっていないんですけど、やっぱり人の悩みを聞くのが仕事なんでしょうか」
予想外だったのか、わたしの言葉にキョト、と目を丸くした彼は、すぐに全てを理解したように首を振った。
「ああ、そういえば言っていなかったね。この格好をしているからといって僧侶ではないんだよ」
「ええ! そうなんですか」
ついつい高くなった声に、慌てて口を押さえる。周囲に目を向けるけれど、店員も客も誰一人としてわたしのことなど気にしている人などいなかった。
それでも少々大袈裟に驚いてしまったことには変わりないので、罰が悪く声を落としては「じゃあ、何故」と訊ねる。
「ある宗教の教祖をしていてね」
「…………」
「今怪しいと思っただろう」
「ごめんなさい」
「素直なのは良いことだよ。袈裟はそれなりに見えるから着ているだけだ」
何の躊躇いもなく、そう打ち明けた彼に、ますますわたしに声をかけた理由が分からず、首を傾げながらどう会話を繋げようかと思考を凝らす。
「形から入る、というやつですか」
「大事なことだ。何事もね」
ニコ、と笑みを落とした彼は、背もたれに身体を預けた。
「人間は情報の八割を視覚から得ている」
「そんなに……」
「世の中にのさばる大抵の人間は、自分の目に写るものが正しいと思い込んで生きている。逆を言えば、嘘でもそれなりに体裁を整えてやれば真実味を帯びてくる」
「それでその格好を」
「続けていれば様になるものさ」
彼の言葉には説得力があった。言葉通り、袈裟を纏う彼は様になっていたし、その裏に並々ならぬ苦労があったことも窺えた。努力をする人なのだと、人としての尊敬を芽生えさせたところで、彼が口火を切った。
「──それで、君が今、私とこうして会っているということは、悩みがあるんだろう?」
頬杖をついては「ん?」と首を傾げた彼をジッと見つめる。彼の眼差しは決して強制するものではなかったというのに、逆らうことすら──逆らおうと思うことすら、させなかった。
「漠然としたものになってしまうんですけど、それでもいいですか?」
「もちろん構わないよ」
そう促す彼は、話しやすいように空気を和らげた。わたしは緊張で張り付いた喉をアイスコーヒーで無理やり潤してから、意を決して話し出す。
「わたし、生きるのが苦手みたいで……何かと上手くいかなくて。人付き合いが、その……」
「具体的には?」
「……そう、ですね、自分では仕事を上手くこなしているつもりですけど、人間関係がきっかけですぐクビになったり、初対面の人と仲良くなっても暫くするとみんな離れて行ってしまったり、何かと生活に支障が出てしまって……。でも、わたしにはそこまで大事になってしまう理由が分からなくて」
言葉にすると余計に情けないな、と半分呆れながら、いつのまにか伏せていた視線を上げた。
「要するに……変、らしいんです」
「へぇ」
彼の返事からは、上手く伝わったのかは分からなかった。わたしは取り繕うように、決められた未来を語る。
「こうして親切にしてくださいますけど、夏油さんもきっと離れていきます」
「君が孤独を望むならそうしよう」
そんなこと、生まれてこの方望んだことなど無い。それでも、ルーティン化していると言ってもいいほど人が離れていくのだ。
「今までずっとそうでしたから」
そう零すわたしに、彼は諭すように口を開いた。
「決め付けるにはまだ早い。それに、私はただで温情を施すほど、優しい人間ではないからね」
「代償が必要ということですか?」
タダほど恐ろしいものはない、と言うように世の中は等価交換で成り立っている。彼だってボランティアではないのだ。それに、どこかの教祖様というなら尚更だ。何か裏があると思わない方がおかしい。
わたしは「その通り」と同意を示した彼に、その代償について問う。
「……じゃあ、何を差し出せば」
「可能性を」
それまで柔和だった視線が、スッと値踏みするような鋭いものへ変わる。
「可能性?」
「そう、今のところはそう言う他ない、君の中で可能性に留まっているもの、と言った方がいいかな」
訊ねたは良いものの、ますます分からない。あまりに抽象的すぎてその輪郭すら見えずにいた。
彼はそれを見抜いたかのように、一歩踏み込んだ問いを真剣な声音に乗せた。
「君は周りの人間が見えないような何か≠見たことはあるかい?」
「……それは、その、宗教の勧誘でしょうか」
「フフ、違うよ」
それしかないと思ったのに、あっさりと否定されてしまい逆に戸惑ってしまう。
「さっき視覚の話をしただろう。人は自分の目に映るものを過信している。君もその嫌いがあるね」
「わたしは、何かが見えていない、と……?」
「見えているけれど見ていない。もしくは、見ようとしていない。今はそうとしか言いようがないね」
「ますます分かりません……」
水に近いコーヒーを飲み干して、彼を見るとやはり運ばれてきた時より氷が溶け、かさが増したグラスの中身が鎮座している。
苦手だったら初めから別のものを注文すれば良いし、口に合わないと判断するにも一口は口をつけるはずだ。不思議な存在に成り果てたそれは、何故だか指摘するのを憚られて、きゅっと唇を結んだ。
彼は相変わらず悠々と瞬いては、困惑したわたしを黒々と艶めく瞳に映し出す。
「話が長くなってしまったけれど、要はそれが見えた時、君の悩みも解決される」
「本当ですか!」
「もちろん」
思わず身を乗り出したわたしは、信じられない思いで彼を見つめた。
他人から避けられることが解決するなんて、考えたこともなかった。しょうがないと諦めてしまった方が簡単で生きやすかった。彼らがわたしを求めないなら、わたしも彼らを必要としない。それでいいのだと、それで全て割り切っていたここまでやって来たから。
もし、解決するのなら良いに越したことはない。今よりもっとずっと生きやすくなることは望ましいのだから。けれど何より、わたしが変≠セと、後ろ指を差された理由を知りたかった。周りの価値観に影響されやすいとは言えど、まだ未熟な子供にまでそう言わせるものが何であるか答えを見つけたかった。
「それじゃあ、そろそろ行こうか」
「は、はい」
慌てて背筋を伸ばす。それを見た彼はクスクスと笑いを零した後、立ち上がり私を見下ろした。
「焦らずとも答えは目の前にある」
落ちてきた言葉に安堵して良いのか分からなかった。すぐそこにあるのに、その答えを見つけられない自分自身に対して焦燥に駆られてしまう。
わたしは一度だけ瞬きをして、小さく笑みを作った。それが今できる精一杯だった。
席を立ち、出口へ向かう彼の後を追う。忘れ物がないか己のいた席を振り返れば、水分を吸い、へたった紙ストローが刺さるアイスコーヒーがテーブルの上に取り残されていた。
──見えているけど、見ていない。見ようとしていない。
そう心で唱える。見逃してしまっている何かが、そこにある気がしたけれど、やはり今のわたしでは見つけられなかった。