「一緒に住まないかい?」

 パリン。響いた甲高い音に背筋が凍った。恐る恐る視線を足元へ落とすと、黄金の孔雀が無慈悲に息絶えていた。
 掃除の途中、突然声をかけられたことで注意力が散漫してしまった。つい手元が狂い見事に破壊したのは、牡丹の花と羽を広げた孔雀が繊細に描かれた花瓶だった。粉々に散らばったそれは、素人目から見ても高価な物だと分かる。全身の毛穴から冷や汗が噴き出すのを感じながら、わたしは咄嗟に頭を下げた。

「すっすみません、弁償! 弁償します……!」

 返済するのは一体いつになるだろうか……生きている間に払い切れれば良いけれど……もしかしたら自分の子供にまで借金を負わせてしまうかもしれない。いや、そもそも子供は誰の子だ。結婚の予定など一切立っていない。って、そうじゃない、今は花瓶をどうにかしなければ。
 血の気が引く思いで「一生掛かっても絶対返済します」と浅い呼吸とともに、うわ言のように繰り返す。わたしは慌てて美しい花々が絵付けされている比較的大きな破片を拾い上げようと手を伸ばす。しかしその手を夏油様に掴まれてしまう。

「素手では駄目だ。怪我をしてしまう」

 彼の大きな手の中にあるわたしの手首の骨が軋んでいる。咄嗟に掴んだため、力加減を間違えたのだろうか。痛みに呻き声を漏らせば、彼はハッと我に返ったように手を離した。

「すまない……怪我をないようにと思ったのに逆に怪我をさせてしまった」

 彼は赤く跡のついたわたしの手首を見ながら、おろおろとし始めた。大事ないか確かめるため触れようとするけれど、さっきの今で触れるのが戸惑われるのか、手を伸ばしては引っ込めてを繰り返している。珍しく焦っている彼の様子が可笑しくて、つい笑い声を上げてしまう。

「手は大丈夫です。赤みもすぐに引くと思います」
「何かあったらすぐ言うんだよ」
「はい」

 時間を置いたらすぐ治るだろう。ズキズキと奥に響くような痛みに冷や冷やしながらも素直に頷いた。

「花瓶は気にしないでいい。確か貰い物だった気がするから。新しい物は……そうだな、暇な時にでも好きなのを買って来てくれたら問題ないよ」
「分かりました」
「あ、領収書は忘れないように。給与と一緒に振り込んでおくから」
「はい……ありがとうございます」

 そう寛大な処置に胸を撫で下ろしたのも束の間。何かを忘れているような気がして彼との会話を脳内で遡っていく。何かとんでもないことを言われたような……
 暫くして、ようやく花瓶を割った直前の彼の発言を思い出し、わたしは下げていた頭を勢いよく上げた。
 
「あ、あの! さっきの、どういう意味でしょうか……」

 花瓶の水を変えようとしていたわたしに向かって突如投げかけた言葉。何を言っているのか、ワケが分からず思考停止してしまったせいで、手元を狂わせ花瓶を割ってしまったわけだが、あれは一体なんだったんだ。
 伺うように彼を見る。爆弾を放り込んだ張本人だというのに、何故だか彼も首を傾げている。

「さっきの?」
「はい……一緒に住むとか、何とか……」
「ああ。そのままの意味だけど」

 何事もなかったように頷く彼に思わずギョッと身を引く。彼はどこから一緒に住むという選択肢が出てきたのだろうか。一体何のために? 意味のない事はしない人だ。何か決定的な理由があるのだろうけれど、一切思い当たらない。

「いきなり引越しだと新居を見つけるのも面倒だし、時間がかかるだろう? うちに来れば大体のものは揃っているし、美々子や菜々子も喜ぶ」

 既にわたしが引っ越す前提で話が進められている。理屈は最もだと思うのだが、有無を言わせない強い意思を感じるのは何故だろう。

「あの、夏油様にとってわたしが引っ越した方が良い理由があるのは重々承知しているんですが、今すぐにというのはちょっと……」
「何か問題があるのかい?」

 彼の問いにわたしは申し訳ない思いで頷いた。

「両親と暮らしているので、どうしようかと」
「なるほど。そうだったね……じゃあ、一緒に移れるよう部屋を手配しよう」
「いえ、家族のことまで面倒かけるわけには……。一度、両親に話してみます」

 そうは言ったものの、何と打ち明けよう。両親には彼のことを話していない。呪術云々をぼかしたとしても、教祖の彼に声をかけられて、今は新興宗教の施設で雇ってもらっている、なんて説明して信じてもらえるだろうか。信じてもらえたとしても、その教祖と一緒に住みます、なんて言ったら全力で止められる気がする。両親どちらとも意外と過保護なのだ。もしかしたら「もう会うな」などと言われそうだ。
 どうやって伝えようか悩むわたしを見透かしてか、彼は良い笑顔を作った。

「何かあったら私が説得に行こう。君のご両親には是非会ってみたい」
「あはは……」

 彼なら丸く収めてくれるのかもしれないが、あのボロアパートの狭い居間で両親とわたしと彼の四人がちゃぶ台を囲む様を思い描いても、異常な空間であることは変わりない。現実にするのは是非とも阻止したい。
 乾いた曖昧な笑い声を零すも、目が合った彼があまりに真剣な眼差しをしていたので、わたしは笑みを取り去った。

「できるだけ早い方がいいんだ」
「……分かりました」

 その瞳の奥で何を考えているのかは、わたしには到底窺い知れない。けれど、これだけは言える。彼はわたしに伝えないことでわたしを守っている。だからわたしは彼の言う通りに動かなければ、彼の気遣いを踏み躙ることになる。端から彼の言うことに逆らう気は毛ほどもないが、今回ばかりは従わなければならないとより強く思うのだった。





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永遠に白線