その日は家へ帰る前に、いつもは乗らない都心へ向かう電車に飛び乗った。夏油様は暇な時でいいと言ってくれたけれど、どうしても明日には応急処置でバケツに浸けている花達を飾ってあげたかった。
 窮屈な電車の中で揺られる度、夏油様に掴まれた手首に響く。すぐに治ると踏んでいたけど、意外にも腫れてしまった。やはり冷やさなかったのがいけなかったのか。熱を持ったそこにそっと触れる。鋭い痛みが走り、すぐに手を引っ込めた。
 明日、ちゃんと夏油様に申告しよう。そうぼんやりと思いながら、電車を降り街へ繰り出した。
 百貨店で本部内に飾っていても恥ずかしくないものをいくつか見繕って一番装飾の少ないデザインのものを購入する。センスがない故の選択だがシンプルイズベスト。これが一番失敗しにくいはずだ。
 物腰の柔らかい店員に、丁寧に包んでもらった花瓶の入った紙袋を持たされる。今度こそ割らないよう、大切に抱えながら店を出た。すっかり暗くなってしまった外では、仕事帰りのサラリーマンが帰りがてらに一杯やるためか、居酒屋の多い通りに吸い込まれていく。その波に逆らって駅へ向かうわたしの耳に届いたのは、己の名前を呟く声だった。
 道ゆく人々の雑踏がBGMのように遠のいていく。わたしは自分のフルネームを言い当てた声の持ち主の方へ顔を向けた。

「……あの、どこかでお会いしましたっけ」

 肩の上で柔らかい茶色の髪を揺らした女性にそう尋ねる。右目の下の涙黒子と両眼の下のクマが印象的だった。これだけ特徴があれば、忘れないはずだけれど。そう思いながら歩み寄ってくる彼女を見つめていた。

「家入硝子。覚えてない?」
「えっと……すみません。……どこで会いましたっけ。もしかしたら思い出せるかも」
「いいよ、無理に思い出そうとしないで。……多分、そっちの方がいい」

 意味深な言葉の裏を読むことができず歯痒い思いで彼女を見た。彼女は形の良い眉を下げ「でもまあ、元気ならよかった」と淡く笑った。わたしもそれに「あ、ええ。元気です」とぎこちなく返す。
 わたしの身を案じてくれているということは、きっと善い人に違いない。ただ、わたしが忘れているだけ。
 ……わたしは、何故忘れているんだろう。以前に夏油様にも言われたことがある。「君に神と呼ばれたのはこれで二度目だ」と。わたしは彼に、彼女に、会ったことがある。それなのに記憶に残っていないなんて、どう考えてもおかしい。いつ、どこで、わたしはおかしくなったんだろう。もう遠い昔からずっと、わたしはおかしかったから。思い当たる節なんて一つもなかった。

「手」

 彼女はそっと赤く腫れ上がったわたしの手首を掬い上げる。その怪我の理由を咄嗟に説明できるわけもなく、わたしは口をもごもごとさせながら「ああ、これはちょっと」と呟いた。

「こっち」

 唐突に肩を攫われ、傍の雑居ビルの隙間に押し込まれた。
 ふと、彼女が纏う苦々しい煙草の香りが胸に刺さった。匂いと記憶は複雑に結びついている。欠けてしまった記憶の断片をくすぐられたような気がして、わたしは再び彼女の香りを吸い込んだ。何としても彼女のことを思い出したかった。
 人通りの少ない路地裏は室外機の低い音が響いている。妙な緊張感が漂う中、彼女はわたしの手首の表面を撫でてから、患部を覆うようにして右手を重ねた。
 瞬間、自分体内に異物が入り込むような違和感に侵され、わたしは思わず顔を顰めた。これは呪力だ。わたしのではなく、間違いなく目の前にいる彼女のもの。
 そうやって自分以外の呪力を感知できたことは大きな一歩だった。彼女の手がゆっくりと離れていく。肌に乗っていた温もりが消えていくのを感じながら、わたしは隠されていた患部に目を落とす。

「どう? 痛くないだろ」
「本当だ、全然痛くない……」

 先ほどまで赤くなっていた部分が、何事もなかったように腫れが引いていた。わたしは二、三度手のひらを閉じては開きを繰り返し、手首の可動域が正常かを確かめる。

「これは、貴女の術式?」
「そう。前にも君の怪我を治したことがある」
「前にも……」
「思い出さなくていいよ」

 彼女は小さな笑みを浮かべた。賑やかな通りの明かりを背負ったせいで、顔には影が落ちている。それが何故だか哀しげな表情に錯覚させた。

「記憶が無いのには意味があるはずだから。気に病むなよ」

 そうは言われても、気にしないわけにはいかなかった。自分自身を見失っているような、途方もない虚無に放り出される。夏油様のお陰で歩み出せたと思っていたのに、それ以上踏み出すことを拒むように己で己の足を引っ張っている。それがとてつもなくもどかしく、やるせなかった。
 竦んでしまう足元へつい目を落としたわたしに、彼女は一言「じゃあ、お大事に」とだけ告げると踵を返した。

「ありがとう……!」

 彼女の背中に向かって声を張った。無理やり全身に力を入れる。そうでもしなければ立ってもいられなかったし、彼女へ声を届けることもできなかった。
 腕の中で抱えた紙袋がグシャリと音を立てる。そんなわたしに振り返ることなく、彼女はひらひらと手を振って去っていった。





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永遠に白線