花は特別好きでも嫌いでもない。自分で育てもしないし、わざわざ花屋に出向いて買いもしない。けれど、日常の中にあれば不思議と嬉しくなるもので、ただそこに存在するだけで少しだけ心が和み、心が躍る。その小さな彩りには、人の心を豊かにする力があった。
 昨日買った花瓶に花を生ける。あの高そうな元の花瓶と比べれば華やかさは劣るが、花の彩りを邪魔しない良さがある。
 これなら違和感もない。何となく花をいじりながら、安堵する。しかし、一向に気分は晴れない。重たく伸し掛かる曇天を胸に抱いたわたしは、ため息として憂鬱を吐き出した。
 結局昨日は引っ越しが必要なことを両親に伝えられなかった。いや、正しくはやんわり伝えたのだが、詳しいことを話す前に断られた。そう、わたしの「古い建物だしそろそろ引っ越さない?」という提案はこれ以上生活水準を上げられない≠ニいうもっともな意見と共に却下された。
 わたしの家は貧乏だ。その上、一年ほど前に実家は火事で炎上。両親はわたしの住んでいたアパートに避難してきたのは良いが、そのまま新居を探さず居着いている。正直わたしも家を出たは良いものの、仕事が安定せず精神的にも落ち込んでいたので家族と再び住むことになったのは良かったと思っている。ずっとわたしの味方でいてくれた両親だ。大切にしたい。親孝行がしたい。その一心で向いていなくとも必死で仕事に打ち込んでいたのだ。母は専業主婦であるものの、父には職が無いから。理由は、確か……確か、何だったっけ? 父は何の仕事をしていた? それで、何故職を失った? 一体わたしは──

「夏油はいるか?」

 背中越しに声をかけられる。物思いに耽っていた意識を浮上させ、ハッと顔を上げた。振り返るとスーツの男性が佇んでいた。

「アポは取ってあるんだが」
「そ、そうでしたか……お名前を伺っても?」
「孔時雨だ」

 わたしは彼の名前を反芻し、受付の来客者のリストをペラペラとめくるも、頭の中にあるのは先ほどのことだった。
 ──またこの感じだ。自分の記憶を信じられず、自分自身も信じられず。どうしようもなく不安になる。さっき、何かに気づきかけた気がしたのに。ようやく手が届きそうだったその正体は、もうその輪郭すら思い出せなかった。
 リストに綴られた漢字の羅列を一つ一つ目で追っていくと孔時雨≠フ文字を見つける。

「お待たせしました。ご案内しますね」
「ああ、頼む」

 顔を上げて声をかけると、彼は片手間に操っていた携帯をスラックスのポケットに仕舞い込んだ。
 煙草の香りを纏った彼は慣れた足取りでわたしの半歩後を着いてくる。夏油様とは初対面ではないのだろう。チラリ、横顔を窺おうと視線を向けると、彼もまたわたしを見ていたようで見事に視線が鉢合わせる。気まずい、と目を泳がせたわたしに、意外にも向こうから話しかけてきた。

「アンタも大変だな」
「え?」
「いーや、何でもない。忘れてくれ」
「はあ……」

 有耶無耶にされてしまえば、困惑の乗った息をつくしかない。そのまま彼とは会話を交わすことはなく来客室へ辿り着いた。わたしは夏油様を呼んでくるとだけ彼に告げ、すぐに部屋を後にした。
 
「夏油様、お客様がいらっしゃってますけど……」

 三度ノックをしたが、返答がないのでそのまま執務室の戸を開ける。静まり返った室内。ここに居るはずだと思ったのに、姿が見えない。そう思って部屋の中に足を踏み入れれば、すぐに謎が解ける。

「夏油様」

 机の上には本や資料が積み上がっている。完全に死角になったその場所で、彼は机に突っ伏したまま、小さな寝息を立てていた。
 彼が寝ているところを見たのは初めてかもしれない。珍しい、と思いながら寝顔を覗き込む。

「隈……」

 彼の目の下は黒く染まっている。まるで昨日出会った家入硝子と名乗った彼女のようだと思った。顔色も良いとは言えない。
 わたしは血色の悪い肌へ手を伸ばした。指先に彼の温もりを感じる。瞬間、我に返り、咄嗟に手を引いた。
 ──無意識に、彼に触れてしまった。言いようもない高揚感が胸を、全身を満たしていく。その反射のような反応に通ずる感情は抱いてはいけない。そう拒むように後ずさると、壁のように積み上げられていた本が音を立てて崩れていく。
 腕が当たってしまったらしい。落ちてしまったものを急いで拾い上げる。

「わたしの、名前……?」

 ふと、目に止まった資料の中に、見慣れた文字の羅列があった。何故、と思いながら、その資料の内容を読み込もうと目線をずらした。
 刹那、目の前が闇に染まった。この温もりをわたしは知っている。

「夏、油様……」

 何も言わずにわたしの視界を奪った彼は、背後から静かながらも芯の通った声を放った。

「──見たね」

 事実を確かめようとしている、と言うよりは、わたしに自覚を持たせるような確信に満ちた言い草だった。
 わたしは縮こまった喉もとを無理やりこじ開けて、肯定の返答を絞り出す。

「……はい」
「何を見たのか、言ってごらん」

 緊張を孕んだ声音が耳の裏を掠めた。弾けそうな心臓を抱えながら、ゆっくりと乾いた唇を開く。

「……名前。わたしの、名前を見ました」

 そう見たままに伝えると、手に握っていた資料をそっと取り上げられただけで、思っていたより簡単に視界を解放された。
 わたしは恐る恐る振り向く。それでも、彼の顔だけは見れなかった。

「……本当にそれだけか、疑わないんですか」

 わたしは袈裟の裾を見つめる。床に膝をついているせいで汚れて皺になってしまうかもしれない。そんなことを漠然と考えながら、彼の返答を待った。

「君は私に嘘をつくのかい?」

 彼を騙すなんて考えたこともない。わたしは己の恩人を、神を、決して裏切ったりしない。その思いを込めて、わたしはすかさず首を振った。

「ああ。私もそう信じているよ」

 彼から向けられた信頼が甘やかにわたしを支配していく。劣情にも似たその感情に指先が震えた。それを隠すように拳を握っては、そのまま懺悔するように、床へ額を擦り付ける勢いで頭を下げた。

「勝手に見てしまってすみませんでした」
「いいや、私の不注意だ。寝ておきながら文句は言えない」
「誰しも休息は必要です」
「……ああ、そうだね」

 彼は顔を上げるよう促しながら、肩に手を添えた。久しぶりに彼と視線が交わる。何か言いたげに彼の瞳が揺れた。息が詰まる思いでその様子を見つめる。彼はやがて視線を落とし「そう言えば」と声を上げた。

「手首、大丈夫だったかい?」
「はい、この通りです。昨日治してもらったので」

 服の袖を捲って手首を見せると、彼は怪訝そうな顔で問う。

「治った、でなく?」
「ええ。わたしを知ってると言う人に偶然出会って。その人の術式で治してもらったんです。……でもわたし、彼女のこと全然記憶に無くて」

 何か思い当たる節があるのか、彼は「反転術式か」と呟いてわたしを見た。

「家入硝子と名乗っただろう?」
「は、はい! その人です。夏油様のお知り合いですか?」
「ああ。元同級生だよ」
「同級生……」

 予想外の言葉を思わず復唱していた。学生時代の彼など想像がつかない。こんなにも同級生と言う言葉が似合わない人など居るのだろうか。失礼に当たるので、もちろんそれは口にはしないけれど、そう思わせるほどわたしの中の彼は目の前にいる教祖の夏油傑だった。

「今後、彼女とは会わない方がいい」
「……悪い人、なんですか」

 わたしは彼の突き放した言い草に違和感を抱いた。わたしの怪我を治してくれた彼女は善人でしかなかったから。

「いいや。悪人は私の方だよ。彼女とは敵対する立場になってしまったから」

 彼は遠い目をしながらも「だからこそ、君は関係を持たない方がいいんだ」と断言する。その真意を測りかねたわたしは、口にしない方が良いと分かっていながらも聞かずにはいられなかった。

「……彼女、わたしが記憶に無いと言ったら、思い出さない方がいいと言ったんです。そのことに、何か関係がありますか」

 彼は何と返答しようか迷っているように見えた。そして、しばしの沈黙を要し「ある」とだけ呟いた。その先はやはり答えてくれそうにないので、わたしは「そうですか」とだけ告げた。

「あ、そうでした。お客様がお待ちです」
「ああ……もうそんな時間か」

 時計の針が指す数字を確認した彼は重たい腰を上げた。それに続いてわたしも立ち上がる。
 床に散らばった本や資料を拾い上げた彼は「悪いね」と噛み締めるように呟いた。

「気を遣わせてしまった」
「いえ、そんなことは」
「隠すつもりは──いや、あった、あったな。……すまないね」

 もう今更何を言っても墓穴を掘ってしまうと悟った彼は、ゆるゆると頭を振り白旗を掲げた。
 わたしはそんな彼が時折見せる、隙のようなものがとても好ましかった。ギャップというのだろうか。可愛らしいとも、愛おしいとも思えたし、何より計り知れない彼の内面に一歩近づけたような気がした。

「ふふ、大丈夫です。わたしの方こそ気遣ってもらって、ありがとうございます」

 思わず溢れてしまった笑みに、彼は決まりが悪そうに眉を下げた。

「……本当は、君は知らないままでいて欲しかったんだ。でも見られてしまった以上は、伝えるから。もう少し待っていて欲しい」
「わかりました。夏油様がそう言うのなら、わたしは従うまでですから」

 彼の真剣な眼差しに、わたしは静かに頷いた。
 午後の柔らかい陽光が窓から差し込んでいる。そのひだまりの中で、わたしたちは小さな後ろめたさを抱えていた。それを互いに分かっていながら言い出せない、言い出さない。
 それが最善だと心の中で言い訳をして、わたしは利口な人間を装った。知りたいけれど、彼の意に沿わないなら言わせたくない、なんてわがままにも程がある。
 空気中を舞う塵が、陽を浴びて白く輝いている。その様を目で追ったわたしは、彼に心中を見透かされないよう小さく笑みを作るしかなかった。





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永遠に白線