「待たせたね」
夏油はするりと開けた扉から身体を滑り込ませて、ソファに腰を沈め煙草を燻らせている孔に声をかけた。そのまま正面に腰を下ろせば、孔は灰皿に煙草を揉み消し、夏油を見上げた。
「何かあったか?」
「……ああ、あったと言えばあったかな」
彼女を無理に笑わせてしまった、と夏油は苦い思いを抱えていた。彼女の己を知りたいという思いは、夏油も最もだと理解していたし、彼女が夏油に従いたいと葛藤していることも容易に予測できていた。
彼女は今、夏油への依存によって生きていると言っても過言ではない。首の皮一枚で精神を繋ぎ止めている状況を、夏油とて無下にはできない。いや、無下にはしたくなかった。夏油にとっても、これ以上の彼女の精神破壊は
孔は濁した夏油の言い草に、呆れた顔で苦い息を吐いた。
「どうせ女でも誑し込んでたんだろ。教祖様は随分とおモテになるようで」
「人聞きが悪いね。私がそんな悪い男に見えるかい?」
この手の話題で夏油をいじると、悪びれもせず「贔屓にしてもらっているだけさ」などと返ってくるため、孔は自ら話を振っておきながらも、心底嫌そうな顔で「分かってて聞いてるだろ」とたしなめる。しかし、夏油は眉一つ動かすことなく「さあ? どうだろう」と涼しい顔を崩さない。生意気にも思えるその姿は、金を吸い上げるため無理やり乗っ取った教祖の座が天職とも思える程だった。
「ハ〜、本当に相変わらずだな。こんな奴に拾われて
孔は先ほど自分をこの部屋へ案内した彼女の顔を思い浮かべながら嫌味を口にする。
彼女のことは初めから知っていたわけではない。夏油から依頼を受け、彼女について調べる中で彼女の顔や名前、それから過去の経歴を知ってしまっただけだった。
赤の他人と言っても差し支えのない間柄にも関わらず、孔は彼女に同情を向けるしかなかった。人誑しと評価している夏油に拾われたこともそうだが、彼女の背負ったものがどれだけ痛ましいものだったのかを考えるだけで胸を痛めざるを得なかった。
夏油は孔の茶化した言葉を無視して「資料は受け取ったよ」と、先刻彼女の目に触れてしまった紙の束を机に置いた。
「依頼通り高専に出入りしている業者を装って過去の報告書を盗ませたが……なるほど、彼女と顔見知りだったわけだ」
孔は机に置かれた資料の中から、一枚の紙を弾く。彼が指したのはとある任務の報告書。担当者の欄には夏油傑≠ニ確かに本人の字で署名されていた。
「たまたまだ。当てられた任務で助けただけだよ」
「彼女にとっては恩人だろ」
「ああ……恐らく、ね」
どことなく自信なさげな夏油の返答に、孔はらしくないと眉を顰めた。それに気づいた夏油は、孔に資料を手渡すと言い訳するように語り出した。
「見ただろう? 彼女は一度、精神破壊にまで至っている。……原因は数ヶ月に渡る幽閉。それも、呪霊のおまけ付きで、だ」
夏油はトラウマと呼べる記憶を呼び起こした。確かに生きているはずなのに、人間を人間と呼ぶだけの大切なもの全てを失ってしまった少女。彼女を腕に抱いた時の重たい虚無は、一生忘れはしないだろう。
かさついた両の手を握り合わせる。あの時の感触が今もまだそこにあった。
孔は夏油の仕草を目の端で捉え、ああと頷いた。
「元凶はあの呪詛師の育成を手がける面倒な集団だろ。育てられた術師は傭兵と呼んでもいい。あの界隈は一度首を突っ込むと抜け出せなくなると聞くが」
「その非道な教育の結果、廃人になるまで追い詰められた彼女は、たまたま高専で保護されることになった。……その時のことも含めて、彼女は全てを忘れている」
「記憶から消すことで立ち直ったわけだ」
彼女にとっては、今の夏油の会ったのが初対面だったし、過去に呪術に触れた経験もなかった。
夏油は孔の言葉に静かに頷いた。彼女は無意識にでも記憶を消すことで自分を守ったのだろう。呪術の扱い方までも忘れてしまったことは、誤算だったかもしれないが、それが原因で生き辛かったとしても、精神の死を迎えるよりそちらの方が何倍もマシだと思えた。
「今更、思い出させるようなことはしたくない。……そう思っていたんだ。けれど、先日受けた依頼がどうやら
「なるほど」
孔は一拍置いた後、当たり障りのない返答を口にした。正直、夏油の意図が意外であった。利益より、他人の為に動こうとする彼を見るのは、この数年の付き合いの中でも初めてのことだった。それほどまでに彼女のことが大事なのか。そう思ったけれど、口にすることは憚られた。ましてや茶化すことなどできる雰囲気ではない。孔は夏油の心中を察し、余計な口を挟むことは無かった。代わりに、考え込むように己の顎を摩った。
「……でもまあ、やるなら早い方がいい。
「どういう風の吹き回しだ? ずっと未解決のまま放置していたのに何故……」
「お前が関わったものとはまた別に、例の呪詛師連中がきな臭い動きをしているのを問題視しているらしい。ここに来て活発化しているのなら再度叩くのは何もおかしいことじゃない」
夏油は顔の前で両の指先を擦り合わせた。
高専のやり方はある程度予測がついていた。彼らがどう動くか、様々な可能性を弾き出した結果、良いとも悪いとも言えない状況に小さく息を吐いた。
しばらく浮かない顔で黙り込んだ夏油に、孔は首を傾げ「あちらさんが解決してくれるなら願ったり叶ったりだろ?」と問う。
それで済むなら夏油とてリスクを背負って首を突っ込もうとはしない。この件に関して夏油が動く理由はただ一つ。彼女の心の安寧のためだ。それが脅かされる少しでも可能性があるのなら、確実に回避すべきだというのが夏油の考えだった。
「……唯一所在が知られている被害者の彼女に、あちらが接触してこないという確証はない」
ゆるゆると首を振った夏油は、高専が問題視し始めたきっかけとなった事件の資料に目を通す。夏油が受けた依頼と同じような呪術師として素質のある少年少女たちの失踪≠ノついて窓から報告があり、呪詛師勢力の強化を目論む一派が関わっている、というところまでは掴んでいるようだった。
過去に保護された被害者は彼女ただ一人。彼女が持っている情報を聞き出せていれば、解決できていたかもしれないが、廃人と化した彼女からは当然有益な情報を得ることはできなかった。しかし、今なら何か思い出せるのではないか。そう考えて接触してくる可能性は大いにある。情報収集のために関係者を当たりに行くことは、そう珍しいことではない。現に夏油も高専時代はそうやって任務をこなしていた。だからこそ、あちら側の動きが手にとるように分かる。
──硝子が彼女に会ったことは確実に報告されていると考えていい。高専も無能ではない。場所を絞り込めればすぐに彼女の居場所はつきとめられるだろう。やはり、早急に彼女を目の届く場所に置いておく必要があるな……
先日話した引っ越しの件はどうなっただろうか、と夏油は記憶を探った。突然のことで大分彼女を驚かせてしまったが、冗談で言ったわけではないことは伝わっているはずだ。なかなか行動に移せないのは、確か両親と住んでいるからだったか。
夏油はそこまで考えて、はたと思考を止める。
「……おかしい」
「何がだ?」
「彼女を高専で保護した、とは言ったが、その後は入院を余儀なくされた。あの状況じゃ無理もない話だ。……しかし、暫くして病院から姿を消している」
机の上で該当する内容が書かれた部分を人差し指で叩く。
家入の処置の後、ずっと高専内に置いておくわけにもいかず、一般の病院に入院することになった彼女に四六時中見張りをつけるわけにもいかず、時折補助監督が様子を見に行く程度の監視体制だったため、逃げ出そうと思えば逃げ出せる状況ではあった。ただ、当時の彼女はそう思わせるだけの感情が欠落していた。まさか彼女が逃走を図るなんて誰も思わなかったのだ。
再び呪詛師に攫われた、と言われた方がまだ信じられた。しかし、それは状況から見て考えられなかった。見張りが少ない分、簡易的な結界を病室に張り、一定の呪力を持った者が入れば分かる仕組みになっていたのだ。それがなかったということは、彼女が自ら意思を持って部屋を出たことになる。
結果、それ以上の捜索はされなかった。
「確かにそこから経過報告書も途絶えてるな」
「両親の元へ帰ったのだと思っていたが……ここを見てくれ。彼女が消息を絶った後、すぐに両親は火事に巻き込まれて亡くなっている」
「……まさか、彼女が?」
「いや、そこまでは分からないが、おかしなことに今、彼女は両親と住んでいる≠ニ言っている」
──彼女は一体何≠ニ住んでいるのだろうか。
胸の内がざわざわと落ち着かない。何かを見落としている気がしてならないと、夏油は眉を寄せ眉間に皺を刻む。
それにつられてか、孔も難しい顔で頬杖をついた。
「嘘をついているのか、もしくは本当にそう思い込んでいるのか……」
孔は全てを把握しているわけではない。あくまで依頼を受けて調査しただけであって夏油が頭を悩ませているものが何かは思い当たらなかった。しかし、第三者の目線から考えられるのはそれしかなかった。
「間違いなく後者だろうね。彼女は私に嘘をつかない」
夏油の言葉は確信に満ちていた。一瞬怯んでしまうほどの強い眼差しを受けて、孔は思わず喉を鳴らす。
何が夏油をそうさせるのか。彼女は夏油にとって何なのか。孔にはさっぱり分からなかったが、深く首を突っ込むと碌なことにならないことだけは分かった。
さらに深まる彼女への同情を胸に、新たに取り出した煙草に火をつけ、汚れきった肺を満たすしかなかった。