目覚めた瞬間から目眩がした。頭の内側から鈍痛が広がっていく。身体はだるいし、熱っぽい。朝から最悪の気分だが、病は気からと言い聞かせてなんとか布団から這い出た。
ピピッという小さな電子音を聞いたわたしは、服の中から体温計を取り出す。液晶に表示されたのは37.8℃。見事高熱まであと一歩という数字を叩き出したので、今日は大人しく家に引きこもることを決意した。わたしは母に「熱っぽいから寝て過ごす」とだけ伝え、スポーツ飲料と氷枕を抱えて部屋に引っ込んだ。
夏油様に体調のことを報告すべくスマホでメッセージを飛ばすと、すぐに返信が来る。「仕事のことは気にしないでいいよ。ゆっくり休んでくれ。何か必要なものがあったら持っていくよ」という労りの言葉に感謝しながらも、うつしてもいけないし両親が家にいるので大丈夫だと伝え、彼の申し出をやんわりと断る。流石に彼に介抱してもらうのは気が引けた。
わたしは彼からの「何かあったらいつでも連絡していいからね」に「ありがとうございます」と夏油様に似ていると思って買った猫のスタンプを送って、そっと画面を閉じた。
ここ数日、考えることが多かった。記憶の欠落から始まり、理由の分からない事ばかり。精神的にも参っていたのだろう。後は単純にいつも使わない脳味噌を無駄に使ってしまったことが体調不良の原因かもしれない。所謂、知恵熱だ。
氷枕に頭を預ければズン、といつもの倍以上の重力を感じる。下へ下へと落ちていくような感覚に逆らうことができず、わたしはそのまま瞼を閉じた。
気怠い思考は意識せずとも鈍く動く。最近あった出来事がフラッシュバックし、わたしは怯えるように布団を頭から被った。己の知らない、記憶していない何かが、じわじわと日常を蝕んでいるようで恐ろしかった。
結局のところ、どうして良いかも分からなくなってしまった。記憶のことなど気にせず、ただ夏油様の元で静かに生きていければそれで良いはずなのに、自分自身がそれを良しとしてくれていないようで、ひたすら逡巡してしまう。
いっそのこと全て自我を捨てされたら良いのに。そんな行きすぎた考えまで浮かんで来る。それらを全て振り払うように寝返りを打ったわたしは、そのまま一眠りしてしまおうと、静かに息を吐いた。
パリン、と鼓膜に突き刺さるような耳障りな音が響く。眠りの底から徐々に意識が浮上するとともに、全身の感覚が鮮明になってく。家の中で誰かが暴れているかのようにドタバタと騒がしい。わたしは抗議の声を上げるように、小さく呻めき寝返りを打った。
具合が悪いのだから静かにして欲しい。まさか泥棒に押し入られたわけでもあるまいし、両親二人で何を暴れているんだ。
そう思った瞬間、はたと思考を止める。嫌な予感が頭をよぎった。
重たい瞼を押し上げ、気怠い身体に鞭を打ち上体を起こす。ふらつく足取りで騒がしい音の元へむかえば、ここ一番に大きな破壊音が響いた。
「は……?」
扉を開けた先。目に飛び込んできた光景に、思わず掠れた声が漏れた。
日当たりの悪い間取りのせいか、薄暗い室内に人影が崩れ落ちた。水気が含んだ音とともに、床に転がった
「母さん……」
喉の奥が震える。目の前から血の気が引いていき、足に力が入らない。
音を立ててその場に崩れ落ちたわたしを、今まさに母を切り捨てた男が見つめていた。全身黒で統一された学生服を纏ったその少年は、年相応の幼さが残る笑みを向けた。
「よかった! もう大丈夫ですよ!」
──この人は、一体何を、言ってるの。
何もよくない、何も大丈夫なんかじゃない。人を殺しておいて、何でそんなに笑ってられるの。
揺らぐ視線を逸らすと、部屋の隅には母と同じように父の亡骸が転がっていた。
「……なんで、殺したの……?」
わけが分からない。わななく唇で問えば、少年ははてと首を傾げた。
「殺した? 呪霊を祓っただけじゃないですか」
「呪霊……?」
少年の「貴女も見えてるんですね。それなら何でこんなところに」という声が、まだ鈍く痛む脳内に反響する。今は彼と会話をしている場合じゃない。わたしは思わず頭を抱えた。
呪霊? 父さんと母さんが? もしそうならば、わたしが今まで過ごした時間はなんだったのだろう。貧乏ながらも自分を信じてくれる両親と肩を寄せ合って生きていた。それは全て幸せな幻想だったというのか。じゃあ、本当の両親は? 本当の記憶は? 本当の私は──?
グラグラと揺れる視界に真実≠ェフラッシュバックする。
……そうだ。わたしは、ずっと自分が幸せなのだと、信じたかったんだ。
「ウッ」
刹那、小さな呻き声を上げた少年が目の前で崩れ落ちた。彼の背後に音もなく立っていたのは、夏油様だった。
「ど、うして」
「見舞いに、と思って来たけれど、これまた……」
苦々しく呟いた夏油様は灰となって消えていく
「これが君の両親か」
「……夏油、様」
ずっと信じ続けていたものが、己の脳内で作り出したものだった。呪霊を両親に見立て、呪霊と共に暮らしていた。そんな日々が幸せだと、己に都合の良い妄想に取り憑かれて生きていたなんて、わたしはなんて弱いんだ。自分が傷つきたくないから、嫌なことから目を背けて、脳内で全て幸せな偶像に塗り替えて。それで普通に生きていけるわけないじゃないか。全てのことから逃げてきたわたしは、生きる価値なんか無い。
絶望と嫌悪が身体の中で入り混じり膨れ上がる。今すぐ消えてなくなってしまいたかった。本当の家族はわたしを信じてはくれず、頭のおかしい子だと家に閉じ込めた。辛かった。苦しかった。だから幸せになりたかった。ただ、それだけだったのに。
「大丈夫、分かってるよ」
ふわり、温もりに包まれる。彼はわたしを抱き留めた。背に回された腕の力強さに、単純なわたしの心は安堵に満たされていく。気が緩んだことによって、溜め込んでいた涙が溢れ出る。拭っても拭っても止めどなく湧き出る涙が彼の胸に染みていく。
わたしは震える声で過去を思い出したことを告げる。
「わたしの、かぞくは、わたしは、かぞくがほしくて、それで」
うわ言のようにまとまらない取り留めのない言葉を並べるわたしに、彼は幼い子供をあやすような優しい声で「落ち着いて」と耳元で囁いた。
濡れた目元を拭って、しゃっくりが止まらない自分の身を抱いて彼を見上げた。彼の優しげな眼差しが胸の奥に沁みる。なんだか、余計に泣きたくなってしまった。
彼は小さく弧を描いた薄い唇で救いの言葉を紡ぐ。
「私が君の家族になろう」
息が詰まった。鼻の奥がツンと染み、再び涙が込み上げてくる。
「げとうさまは、ずっとげとうさまですよね……?」
「ああ。私は私だ。……君が望むなら、ずっと傍にいよう」
耳をくすぐる彼の声が、鈍く鼓膜を震わせた。何もしていないのに動悸が止まらない。熱にやられた身体が限界だった。脱力した状態で彼にもたれかかる。
夏油様は何一つ変わらない。それなら、全てを思い出した今も、変わらず彼だけを信じればいい。変わらない彼の存在だけが、何もかもあやふやなわたしを確かなものにしていく。
薄れゆく意識の中でも、心が落ち着いていくのが分かる。同情だとしても、彼がわたしを想ってくれることが嬉しかった。少なくとも今だけは、彼の言葉に悦に入ってもバチは当たらないだろう。
ふわり、重力を失ったように身体が浮き上がった。それが夏油様に抱き上げられたのだと気付いた時には、既に意識は深い闇の中へ沈んでいった。