茹だるような真夏の空の下。頭上の照りつける日差しと、足元のアスファルトから立ち昇る熱気に挟まれた夏油は、灼熱の地獄に身を置きながら身体の芯から冷える思いだった。今思えば熱中症だったのかもしれない。脳内で脈打つ鈍痛が鼓膜で膨張し、ひたすら眩暈に襲われた。そして、何より寒かったのだ。寒くて寒くて、今にも凍えてしまいそうだった。
 夏油は死より恐ろしいものを抱いていた。己の腕の中に収めたもの。それは一瞬死体と見間違うほど虚ろな目をした少女だった。全身は裂傷に覆われ赤黒く染まり、黒々とした長い髪は長年手入れをしていない日本人形のように絡れ合っている。脱力し切った身体を揺さぶるも、何の反応もない瞳が空虚を見上げるだけだった。見てくれだけで言えば、生きているのが不自然すぎるほどだった。ただ、時折かさついた唇から漏れる呼吸音だけが彼女の生≠証明していた。

「すぐに仲間が来るから……っ、もう少しだけ頑張ってくれ」

 聞こえているかどうかも分からない彼女に呼びかけるけれど、この世の全ての情報を遮断しているかのように彼女は反応を示さない。夏油は上手く息を吸えずにいた。生と死を常に身近に感じているからこそ、生きながら死んでいるような未知≠目の前にした今、どうすることが正解なのか答えが出なかった。
 ──なんてことのない任務のはずだったのに。
 夏油は浅慮な己を悔やみながら、自身を責めるように睨みつける頭上の太陽を見上げた。
 夏油が当てられた今回の任務は、窓からの不自然な結界を見つけたという報告を受け、事前に行われた補助監督の探りでもさほど危険ではないと判断されていた。それを受けた夏油も、学生それも一年生一人でも十分だという采配を鵜呑みにし、それほど構えずに調査に出向いた。おまけに問題の結界の外からは簡単に入れたのもあり、早く終わらせて同期の五条や家入と合流して食事でも行こうなどと、悠長に構えていた。
 続く螺旋状の階段を降りながら、夏油は徐々に近づく呪力の圧にすかさず頭の中を切り替えた。
 ──これは、まずいかもしれない。
 急ぐ足取りはコンクリートの冷たい音へ変わっていく。全てが吸い込まれそうな闇の中。たどり着いた最下層に居たのは、今にも死にそうな少女と数多の残穢だった。
 夏油は血相を変えて少女を抱き上げた。彼女の身に何があったのかは不明だが、ただ事ではない。とにかく今は結界の外に出るべく階段を駆け上がる。腕の中で揺さぶられるだけの少女の顔をたびたび確認する夏油は、この場に自分一人だけという事実を悔やんだ。
 こんなことなら補助監督の送迎を断らなければよかった。それに、硝子に待機してもらっていればすぐに対処できたはずだ。
 夏油は己の甘さが晒されていくのをぐっと耐え、結界から飛び出すとすぐに応援を呼んだ。炎天下の真夏の昼下がりは、ずっと暗闇の中にいた少女にとっては苦痛になるはずだと、直接日が当たらないよう自分の影の中に入れる。相変わらず微動だにしない瞳とは裏腹に、少女の乾いた唇が薄く開いた。

「……かみ、さま」

 声と言うより吐息に近かった。微かなその言葉は神に向けられたものか、はたまた夏油に向けられたものか。不明瞭であったものの夏油は確信した。今、ここで己が彼女の神になったのだと。
 傷んだ己の胸に、彼女の呟きが鮮烈に焼きついた。思わず噛み締めた唇から滲んだ血が、口内に広がっていく。少女を、人間を、ここまで追い詰めたものに対し、怒りが込み上げてくる。せめぎ合った感情に震えたため息が、鉄の味に支配された口から漏れた。夏油はじっと少女を抱き留めながら、やるせない思いを背負うしかなかった。
 どのくらい時が過ぎただろうか。それすらも考える余裕などなく、夏油は駆けつけた補助監督と家入に彼女を託し、その場で処置を任せる。外傷は全て家入の反転術式によって直すことができた。しかし、一切反応を示さない様子は変わらなかった。高専内の医務室に運び込まれたものの容態は一向に回復せず、結局本格的に治療のできる一般の病院に移されることになった。

「……心の傷までは、反転術式では治せない」

 空になったベッドを見つめて家入はそう呟いた。それが紛れもない事実で、己の限界であることを言い聞かせるような苦く重たい口調だった。
 家入のその言葉に夏油は何も言えず、ただ皺になったシーツの影を見つめていた。
 この一件は生徒の手には負えないという決断が下され、これ以上の調査は禁止された。高専に入学して半年も経っていなかったが、夏油はそれなりに強いのだという自負があった。しかし、それがどれだけ愚かで未熟であったか思い知らされた。
 今の夏油にできるのは、彼女が自分を取り戻すことができるよう祈ることだけだった。神頼みだなんて性に合わないけれど、無力な己を諌めるのには勝手が良かった。
 そして、こんな自分を神と呼ぶしかなかった少女を想い、強くなろうと固く胸に誓った。
 ──もう二度と彼女と会うことがなくとも。



 その日は夏のお手本のような五年前のあの日とは、真逆の天気だった。土砂降りの雨の中、あの時の少女を見つけたのは本当に偶然だった。夏油が声をかけたのは、熱心に呪霊に声をかける女性が気になっただけであって、苦い記憶の一部となった少女と、目の前の女性が同一人物だと結びついていたわけではなかった。
 一切の記憶を失っていることは、会話をする中ですぐに察することができた。夏油は何事もなかったように生きているその姿に安堵した。
 全てを忘却することで、己を取り戻すことができたのならそれで良い。今更過去を深掘りすることもない。それでも、彼女の生き様はとても危うく、一歩足を踏み外せば五年前に逆戻りすることだってありえた。
 夏油は彼女の呪霊の認識を正すことを建前に庇護下に置くことにした。その中で五年前の出来事と類似した依頼が舞い込み、関わらせてしまったことは想定外だったが、一度傍に置いた以上、無視することはできなかった。
 何も思い出さず、彼女が思う生きやすい世界で生きていてくれればそれだけでよかったのだ。



 夏油は熱にうなされる彼女の枕元に腰掛けた。張り付いた前髪を払い除け汗を拭うと、新しい冷却シートをそっと貼り付けた。
 まさか、こんなことになるなんて、正直予想していなかった。高専の生徒があの場にいたのはどうやら任務とは関係なく、呪霊の気配を辿りやって来たようだった。一般人が呪霊に取り憑かれていると思ったのだろう。完全な善意でやったことなのだろうけれど、それは全くの見当違いだ。寧ろ呪霊をその場に縛り付け、家族に見立てていた彼女こそ今回の元凶だった。しかし、生徒がそれを見抜けなかったのは仕方ない話だ。この数ヶ月ずっと傍にいた自分でさえ、勘づいたのはつい先日のことだったのだから。
 高専で騒ぎになっていなければ良いけれど、と夏油は今後彼女に接触してくる高専関係者がいないことを願うしかなかった。

「一番傍で守っていたつもりだったけれど、そう簡単にはいかないか……」

 しなやかでどこが頼りない彼女の左手をおもむろに掬い上げた夏油は、手なぐさみに薬指の付け根を親指の腹で擦る。
 ──ここに家族の証をはめてしまうおうか。
 そう胸の内で呟いた夏油は、自嘲的な笑みを漏らす。
 そこまでしても彼女はきっとただの気遣いとして受け取ってしまうだろう。彼女の中の夏油傑は、己の行く先を照らす神なのだから。
 夏油としてはそれで彼女が何不自由なく生きられるのなら、彼女の望む通りの神でいようと思っていた。それでもいつか一人の人間として、色を取り戻したその瞳で見て欲しいと思わずにはいられなかった。
 闇雲に全てを曝け出す勇気はない。だから、今は彼女が現実と向き合う手助けさえできればいい。
 夏油はもう一度、彼女の髪を梳いた。指の間からはらはらと滑り落ちていく様子を名残惜しげに見つめては、音を立てずに腰を上げた。





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永遠に白線