幼い頃、この世の物とは思えない恐ろしい姿をした異形のものを目にしたことがあった。直接襲われたわけではなかったけれど、怖くて怖くて仕方なかったわたしはこちらに来てほしくない≠ニ、もう二度と見えませんように≠ニ心の中で強く願った。
それから、その異形を目にすることはなかった。願いが通じたのだと漠然と思った。その時点で全てが狂ってしまっていたことに気づかないまま、わたしは普通の人と同じように生きた。
日常生活に支障が出始めたのは小学校中学年あたりからだろうか。皆、自分との比較対象ができたことにより、この子は自分とは違うと、何かがおかしいと、指を差され除け者にされた。わたしにはそれが何故だか分からなかった。自分が見てる世界と他人の世界が同じだと信じて疑わなかった。辛い思いをしたのは否定できない。しかし、わたし以上に過敏に反応したのは両親だった。
両親は学校に行くな、外に出るな、とわたしに言って聞かせた。きっと同級生の親や近所の人の目を気にしたのだろう。何より両親が一番わたしのことをおかしい≠ニ思っていたのだ。家族である以上、一番近くで見てきたが故の思いだったのだと、今考えてみれば腑に落ちる。しかし、一番信頼を寄せていた存在に見限られてしまったことは、当時のわたしを絶望させるには十分だった。
家からは全く出してもらえず、勉強だけをさせられる日々。それは中学に上がってからも続いた。地元の中学校だったのもあり、学校内ではわたしが頭のおかしい不登校の子という噂だけが独り歩きしていたらしい。両親はついにわたしを全寮制のフリースクールに入れることを決めた。
処刑台に上る心地で机に広げられた数多のパンフレット見つめる。どこだってよかった。わたしが両親に捨てられることには変わりないのだから。そう塞ぎこんでいた時、一人の若い男が家を訪ねてきた。
薄暗い陰を纏った人だと思った。前髪の隙間から除く静かな瞳の印象からは大人しそうな雰囲気が漂っている。身長は高いわけではなく、いたって平均的だったけれどやけに身体付きがしっかりしており、芯の強そうな印象を与えた。
男はタカツキ≠ニ名乗った。彼はパンフレットを取り寄せた内の、一つのフリースクールで教師をしていると告げ、是非わたしにうちの学校に来てほしいと名乗りを上げた。そして、もしわたしが入学するのなら、全学費を免除すると言ったのだ。彼の勤める学校は、両親が希望する全寮制であるのはもちろん、系列校で通信制の高等学校へエスカレーター式で上がれることもあり、もうわたしの面倒を見なくても良いことに二人はとても喜んでいた。わたしの意見などないも同然で、話はとんとん拍子で進んでいった。そうして、わたしはそのまま彼の──先生のもとで学ぶことになった。
先生は何でも知っていた。授業として学ぶ教科はもちろん、人間の思想や哲学について、そしてわたしがおかしいと言われる理由についても良く知っていた。
「貴女はきっと思い込む力が強いのでしょうね」
「思い込む……?」
「言葉を簡単にしすぎましたが、要はマインドコントロールです。貴女が強く念じてしまえば、意図していなくても望んだ通りになってしまう」
編入し新しい生活にも少し慣れてきた頃、先生に何故両親に追い出されるようにフリースクールに入れられてしまったかを不意に問われたわたしは、幼い頃にあった出来事から順を追って話した。
彼は時折相槌を打つ以外、ずっと黙ってわたしの話を聞いていた。話し終えたわたしに、彼は少し長い前髪を揺らし、真剣な瞳を陽の下にさらした。少し眩しそうに目を細めた後、この世の全てを憂い憐れむような、深い影を宿した瞳を向けていた。
「もともとそういう性質の人間なんですよ、貴女は。だから、術式もそれに付随しているのだと僕は思いますよ」
彼は呪術が使えた。ここに通う生徒にはそういった人が多いと言う。そして、彼によって呼び寄せられたわたしも、例に漏れず呪術が使えるのだと教えられた。
「貴女は意図せず呪霊も己も操れる。だから、呪霊が貴女に危害を加えることはないし、貴女も呪霊の見たままを視ることができない」
わたしはその言葉に他人事のようなため息をつくことしかできなかった。幼い頃にたった一度願ったことが今もなお、呪霊を、わたしを、縛っているなんて思いもしなかった。先生のもとに来て、何度か呪術を使えるか試したことはあったけれど、力に振り回されるばかりで思ったように正確に操れはしなかったのだ。
未熟で不完全な存在。そんなわたしはこの先どう生きていけばいいか不安だった。それを口に出せば、彼は薄く笑った。
「生徒たちは皆、大なり小なり貴女と同じような悩みを持っています。仲間がいるというだけで少し、前を向けませんか?」
「……そうですね。頑張ります」
「ここには打ちひしがれた
彼の陰鬱な瞳の中に、より濃く深い闇が爆ぜた。その瞬間をこの目でしっかりと捉えていたというのに、わたしは全身に走った悪寒を抱くだけで、確かに感じた違和感を自ら手放してしまった。
彼は善い先生だった。生徒一人一人に対して丁寧に、真摯に向き合う姿勢は教師の鑑と言っても良かった。それでも、確実に人としては悪だった。彼は呪術界では、呪詛師と呼ばれる人間だった。
それなりに呪術を使えるようになった生徒は、他所から金で雇われるようになる。世の秩序を守る呪術師より、金を払えば融通の利く呪詛師は一部の世界では需要があった。彼は自分の生徒をその世界へ送り出し、利益を上げていた。それを知った時、彼が両親に学費を免除すると告げたことを思い出した。あれは未来への投資だったのだ。いずれ学費などには比べ物にならないほどの金を産む商品になるのだからなのだと、ようやく全てを理解した。
わたしは商品などにはなりたくなかった。ただ普通に生きたかっただけだったのに。そう唇を噛み締めては、呪術を覚えないことで無言の抵抗を示してみせた。表立って噛み付く勇気はないくせに、いじけたように沈黙する。今思えば子供っぽい反抗だったけれど、あの時のわたしにはそれしかできなかった。
きっとそれが火種であったのだろう。従順に成り損ねたわたしを見かねた彼は、ついに強行手段に出た。
「……僕は別に怒っているわけではないんです。ただ、貴女を信じたいだけ」
とある廃ビルに連れ出されたわたしは、先生にそう告げられる。言葉通り怒気は孕んでいない代わりに、憐れみの視線に刺されていた。
彼の感情を見極めることができず、一歩後ずさる。しかし、怯んだ足元はコンクリートの床につくことはなく、突如現れた穴の中へ吸い込まれる。地下に続くような階段を転がり落ちたわたしは、慌てて這い上がる。外に出ようと抗うけれど、見えない壁に弾かれた。
「この中の呪霊を全て祓わなければ外に出れないんです」
彼は申し訳なさそうに眉を下げる。わたしをこの状況に陥れた張本人だというのに、全て生徒を思ってやったことなのだと言っているようだった。
悪を悪と認識していない。己を善人と信じ切っている彼は、完全に異常者でしかなかった。
「自分に打ち勝つことが、最も偉大な勝利である≠ナすよ。乗り越えなければ先はない。実際、数をこなすことも大事ですしね」
「先生っ!」
偉人の格言を用いて諭す彼に「出して」「助けて」と叫ぶ。無様な姿のわたしを見て、彼は憐れみの視線を一転させ、恍惚な笑みを浮かべた。
「期待していますよ。──貴女の魂の極限を魅せてください」
意味が分からない。ただそれだけだった。どうして良いかも分からない。目の前が真っ暗になる感覚に崩れ落ちた。
そのまましばらく泣いていたかもしれない。目の前には下へ下へと続く螺旋階段。先が見えない恐怖に追い詰められながら、ひたすら降りていった。呪霊は簡単に襲っては来ない。幼い頃のわたしの願いがそうしているのだろう。かろうじて命は助かっているが、常に緊張状態に置かれているせいで精神が摩耗していく。わたしはただ全ての呪霊が居なくなって欲しいと願うしかなかった。湧き上がるありとあらゆる感情を乗せて念じるそれは、もはや願いというより呪いだった。
そこから先は、全てを思い出した今も記憶が曖昧だった。既に動けなくなっていたわたしを救ったのは見知らぬ青年だった。太陽の光を背負い、逆光に浮かび上がったシルエットを覚えている。後光が差したようなその姿に神様だと思った。
彼が夏油様だった。ようやく彼の言った言葉の意味が理解できる。彼は何を思って全てを忘れたわたしを見ていたのだろう。過去に救ったはずなのに、ただただ気が狂っていて残念に思っただろうか。
──そんなの、今更か。
ふ、と口角が上がるのを感じた。意識が浮上していく。ゆっくりと身体を起こせば、額から乾きかけた冷却シートが剥がれ落ちた。ふと横を見れば夏油様がベッドに突っ伏して寝息を立てていた。
「夏油様……」
付きっきりで看病してくれたのだろうか。左手に添えられた彼の手のひらは少しひんやりとしていて心地よかった。
彼の手の甲をそっと撫でる。その感覚が眠り底から引き上げたのか、小さく唸りながら首をもたげた。
「おはようございます」
「おはよう。よかった、目が覚めて」
「こちらこそありがとうございます。……その、いろいろ迷惑かけてしまって」
頭を下げるわたしに「そんなことはないよ」彼は頭を振った。優しさが痛いほど身に沁みる。申し訳なくなりながら、わたしは部屋を見渡した。
「ここは……?」
「
強調された言葉に、表立って喜んで良いものかと頭を悩ませた。不意を突かれた表情で固まっていたわたしに、彼はふと表情を和らげた。
「しばらくはここに居て欲しい。君の家はまだしばらく高専関係者がうろついている可能性がある」
「なるほど。確かに鉢合わせしたら面倒ですね……」
わたし自身に何かされるのは構わないけれど、彼が敵対する高専側と関われば迷惑をかけ兼ねない。それでも、彼が助けてくれた際に、意識を失った学生の安否が気になるところだった。言い出しづらくも「あの……」と声をあげれば、彼もまた察したようでああ、と頷いた。
「高専の生徒なら無事だよ。恐らく軽い脳震盪だろう」
「そうですか……よかったです」
ほっと胸を撫で下ろす。学生の彼だって悪気があったわけではないのだろう。あくまで呪霊を払うという善い行いをしていたのだから、彼が責められる謂れはない。あの場でおかしいのはわたしの方だった。誰も呪霊と家族ごっこをしていたなんて考えつくわけがない。
わたしは深く長い息を吐いた。夏油様は全てを察した上で、一人狂ったわたしを傍に置いてくれていたのか。そう思うと恐縮してしまい頭が上がらない。
「わたし、昔から夏油様に助けられてばかりですね。本当に情けないです……」
「……その様子だと、五年前のことも思い出したんだね」
わたしが肩を落とし吐き出すようにそう言えば、彼は複雑な表情で微かに眉を寄せた。わたしはそれに気づかなかったフリをして「はい」と相槌を打った。
「夏油様は命の恩人なのに、それすらも忘れてしまっていたなんて……」
「私はそれでも構わなかったよ」
「……いいえ。思い出せてよかったです。夏油様のこと。忘れたままだったら後悔してました」
確かに思い出したくない記憶の方が多い。それを分かっていたから、彼もわたしが記憶を思い出したことをあまりよく思っていないのだろう。
彼がいなれば思い出すこともなかったけれど、今こうして正気を保っていられるのは紛れもなく彼のおかげだ。結果的に良い方向に転がっているのだと思いたい。
遠くに向けた視線を戻す。夏油様は何か言いたげにわたしを見つめていた。わたしは促すように首を傾け、彼の顔をそっと覗き込む。すると、彼は音を上げたように小さく息を吐いた。
「……君が病院を抜け出した後、どうしてたのか気になってね」
俯きがちに呟いた彼の言葉に「ああ、なるほど」と零す。
わたし身柄は高専が管理していたはずだが、恐らくわたしの有用性が低いのか、一旦監視の目を掻ってみれば今の今まで野放しにされた。わたしのその後は高専も彼も知らないのだ。
そっと蘇ったばかり記憶を掘り起こせば、鮮烈な情景達が目の前をちらついた。
「……確か、あの時は混乱していたんです。ふと、何で自分がここにいるか分からなくて、つい両親いる家に帰ってしまいました」
「君の親は火事で……」
「──両親は、わたしが殺したようなものです」
驚いたように少し目を丸めた彼に、自虐的な笑みを浮かべて目を伏せる。
「心を病んでいた母親を刺激してしまったせいで、乱心した母が家に火をつけました。……おかしな話ですよね。わたしを追い出した張本人なのに、実は後ろめたく感じていて自身を追い詰めていたなんて」
いっそのこと罵詈雑言でも浴びせられれば、心の底から憎むことができたのに。今更悔いても仕方ないけれど、あの時完全に見限り、見限られていたと思っていた家族に対して未練が生まれてしまった。
だからなのだろうか。家族が欲しい≠ニ願ってしまった。
過去の膨大な感情が流れ込んでいる今、もうその瞬間の気持ちは霞んでしまったせいで言い切ることはできない。しかし、それが術式として発動してしまったのは完全に予想の範疇を超えていた。
わたしは両親が生きている≠ニいう自分に都合の良い世界を作り上げていた。虚像の現実で生きていたわたしの目を覚まさせたのは、間違いなく彼だった。もし、あの雨の日、彼と再会していなかったら、幸せな妄想に生きる狂人として生きて死んでいたかもしれない。
そう考えるとゾッとした。
「一体、誰が悪人だったんでしょう」
わたしは誰を憎めばよかったんだろう。
零れ落ちた言葉が、気だるい身体にのし掛かった。答えが出ないのは分かっていた。そして、誰も憎むべきではないという模範解答も理解せざるを得なかった。けれど、それを簡単に受け入れられるような利口な人間性も持ち合わせていない。
「──人は誰しも悪だ」
「そうですね……本当に、その通り」
顔を上げれば、夏油様は真摯な瞳でわたしを見据えていた。
わたしは予想だにしていなかった言葉に目を見開いた。そして、性悪説を説く彼に何度か頷き返す。流石は教祖様だ、と思った。弱っている相手が本当に納得できる言葉をくれる。こうやって信者達が増えていくんだ、と妙に感心してしまった。
ふ、と笑みが漏れたわたしに、彼は不思議そうな表情を作る。
「わたし、これから頑張りますね」
──わたしは、彼の行く道を阻む全ての障害を排除できるような、そしてこれから先も彼の傍に存在することを許されるような、強い人間になりたい。
ようやく、あれだけ望んでいた普通の人間≠ノなれた気がした。人間としてのスタートラインに立ったばかりのわたしに何ができるか分からないけれど、そう強く思った。
わたしの決意表明に彼は判然としない様子だったけれど、最後には「期待しているよ」と喉の奥で笑った。