見慣れた路地のはずなのに、久しぶりに歩いたせいか知らない土地のように思えた。すぐそこには自宅のアパートが見える。足並みを揃えていたわたし達は、路地の影の中で一度立ち止まった。
「この一ヶ月、高専関係者の出入りがないのは確認済みだ。周囲にも見張りはいない」
孔さんは「三十分あれば足りるか?」と問う。わたしはそれに頷いて、手に持っていた空のボストンバッグを見せるように肩にかけた。
「荷物はそんなに多い方ではないので、それだけあれば十分です」
「俺はここで待ってる。三十分経ったら呼びにいくからな」
煙草に火をつけながら言う彼に、わたしは「分かりました」とだけ返答し、塀の影から出た。
そろそろ家を引き払う、と彼から伝えられたのは昨日の話だ。このまま夏油様の家に置いてもらえることになったのはありがたいし、異論もない。そもそも元いたアパートに戻りたくもなかった。先延ばしにしてずっと放置していたけれど、荷物の選別ができるのはわたしだけだ。いっそのこと全て捨ててしまおうかと思ったけれど、それは嫌なものから目を背ける行為と同じだった。もう過去の過ちを繰り返したくはない。そうやって、虚像の両親達と過ごした空間から自分を断ち切るために、今わたしはここにいる。
錆びれた階段を上がり、ドアノブに手をかける。力を込めれば、拍子抜けするほど簡単に扉が開いた。一瞬驚いたものの、それもそうかと胸中で納得する。わたしをこの家から運び出したのは夏油様だ。鍵をかけて家を出てたわけではないのだから、開いていて当然だった。
もし空き巣に入られていたらどうしよう。貴重品だけでも確かめておかないと、とはやる気持ちで靴を脱ぐ。家の中は荒れていたけれど、わたしが倒れた時と同じ状態だったので胸を撫で下ろす。これなら空き巣もびっくりして物を盗むどころじゃないだろう、なんて思いながら自室へ向かった。
その瞬間、背後でカチャリと音が鳴る。反射的に振り向いたわたしは息を呑んだ。
「おかえり」
ヒュ、と心臓が縮み上がる。玄関のドアの鍵を閉め、声をかけた人物は、白髪とサングラスが特徴的な若い男だった。
「誰……?」
咄嗟にそう問いかけたものの、完全に冷静さを欠いていた。
──一体この人は、どうやって家の中に入ったのだろう。孔さんはこの部屋に出入りしている人はいないと言っていたし、わたしもこの人がドアから入ってくる音を聞かなかった。
こちらに近寄ってくる男に後ずさる。彼はわたしの問いなど聞こえていなかったかのように「今までどこに行ってたの? 心配したんだよ」と軽い調子で笑った。
「……あの、状況から察しても貴方は不審者にしか見えないんです」
勇気を振り絞って「だから答えられません」と口を閉ざせば、彼は「それもそうだな」と案外簡単に同意を示した。
「五条悟。直接会うのは初めてかな」
「……はい。初めて、だと思います」
「僕は君のこと知ってるけどね。書類上でだけだけど。ま、そんなことはどうでもいいんだ」
饒舌な彼の死角で携帯を操作しようと指を動かす。外にいる孔さんへ状況を伝えなければと必死だった。しかし、彼は全てを見透かしていたかのように、携帯を持つわたしの手首を掴んだ。
「この前、うちの生徒が世話になったみたいだからさ。そのお礼に、と思ってずっと待ってたんだけど、外では常に誰かが見張ってるし、君は全然戻ってこないしで少し疲れちゃったよ」
ガシャン、と滑り落ちた携帯の音を聞くも、視線を外すことはできなかった。
この人は高専の関係者だ。今更そう理解してももう遅い。そして、孔さんが付けていた見張りにも気付いていた。彼の方が一枚上手だったのだ。それならもう、大人しくしておくしか方法はない。
完全に逃れられない状況に、わたしは抵抗をやめた。それを感じ取った彼は、手首から手を離しその場に座らせた。
そして、彼もまたわたしの目の前に座ると、まるで自分の家のようにくつろぎ始める。しまいにはコンビニの袋からお菓子を取り出し「いる?」と差し出されたけれど丁寧にお断りした。彼は特に気にする様子もなく「美味しいのに」とぼやく。その緊張と弛緩の落差に神経をすり減らしながらも、一番の疑問を投げかけた。
「あの、ずっと待ってたって、一体いつから……?」
「言葉のまま、ずっとだよ。まぁ、僕も暇じゃないからさ、来れる時だけだけど。あ、もしかしてどうやって出入りしてたか気になってる?」
考えていたことを言い当てられて内心ギクリと硬直したけれど、なんとか曖昧に笑みを作った。
「僕、家から出なくても移動ができるんだよね。分かりやすく言えば瞬間移動みたいな?」
「それは、何というか……便利、ですね」
「クク、それ生徒たちにもよく言われるよ」
何と反応すれば分からなかったわたしに、彼は愉快そうに喉の奥で笑った。
そんな反則技のようなことができるのなら、確かに外から見張っていただけでは分からないな、と妙に納得してしまった。
「……貴方は先生なんですよね」
不意に零したわたしの言葉に彼は「そうだよ〜」と間延びした声音を返す。わたしがこの家で遭遇した高専の生徒も全身真っ黒な制服に身を包んでいたけれど、彼もまた同じように全身黒で統一した服を纏っている。それに加えて、目立つ容姿に軽薄な態度。とても教師には見えない、という率直な感想が喉元まで出かかったけれど、何とか飲み込んだ。
先生というのはもっと落ち着いていて、息を呑むような静寂が似合い、常に瞳に影が差していて、派手で軽薄という言葉とは縁遠い──
そこまで考えて、思わず思考を止めた。わたしが思い浮かべた教師像は、間違いなく先生≠セった。わたしを苦しめ、地獄へ突き落とした相手だというのに、師の象徴として己の中に根付いている。復讐は望んでいないけれど、憎んでいないわけでもない。そんな相手を平然と思い浮かべる自分自身に驚きを隠せなかった。
「どうかした?」
「いえ……なんでもないです」
急に黙り込んだわたしに、彼は不思議そうに首を傾げた。わたしは誤魔化すように首を振ると、先程の沈黙を取り戻すために口を開いた。
「貴方の生徒さんには、本当に申し訳ないことをしました。ただ、わたしも混乱していて──」
「ふうん。うちの生徒は君ではない誰かに攻撃されたって言ってるんだけど、生憎姿は見てないようでね」
彼の証言通り、直接手を下したのはわたしではない。夏油様だ。
思わず視線を移ろわせると、彼は逃がさないとばかりに距離を詰めた。
「──ねぇ。誰を庇ってるのかな」
鼻先で発せられたピンと張った糸のような声に、冷や汗が吹き出す。サングラスの奥に見え隠れする透き通った青い瞳に、ジリジリと追い詰められる。上手く息ができない。怖い。
責め立てられたわたしは口を閉ざす以外にこの場をやり過ごす術を持たない。全ての感情を押し殺して静寂に負けないよう強く口を結んだ。
まるで我慢比べのように見つめ合う沈黙。やがて彼は何かに見切りをつけ、近づけていた顔を離す。
「ま、それも聞きたいんだけど、実は本題は別にあるだよね」
ふと和らいだ空気に、それまで張り詰めていたものが全て脱力する。本当に生きた心地がしなかった。
彼はサングラスを外し、意味もなく手の中で弄びながら「五年前の事件のこと覚えてる?」と問う。わたしは気が緩んだまま「はい」と即答すると、彼の白い睫毛に縁取られた大きな瞳がさらに見開かれた。
「え、マジ?」
「聞いておいてそんなに驚きます……?」
「いや、硝子は頑なに君には記憶がないって言ってたから、ぶっちゃけ無駄かと思ってさ」
「ああ……家入さんと偶然再会した時には本当に覚えてなかったんです。思い出したのは先日のことがあってからで……」
細かい経緯を説明せずとも彼は理解したようで「なるほど、じゃあ話は早い」と膝を打った。
「情報が欲しいんだ。君が覚えている全てを教えて欲しい」
彼らは先生を追っているのだろう。呪詛師の間でも噂に上がるようになれば、高専にも目をつけられるのは当然か。
そう納得するものの、彼にそう簡単に情報を渡して良いものかと頭を悩ませた。
黙り込んで考えあぐねていると、彼はわたしが妥協せざるを得ない状況に追い込む。
「もちろんタダでとは言わない。
「……分かりました」
渋々頷いたわたしは、彼に全てを話した。どれも夏油様の不利になる情報ではない。わたしが夏油様と繋がりがあるということだけ伏せればいいだけの話だ。
彼はわたしの話を聞くと「また何か聞くかもしれないから」と連絡先を要求してきた。携帯が床に転がり落ちていたお陰で、「持ってません」という嘘は付けず、仕方なく連絡先を教える。すると、彼もまた自分の連絡先を告げた。連絡帳の中を覗かれたくはなかったので、彼に無理やり登録される前に自ら文字を打ち込んでいく。その様子を満足そうに見つめていた彼は「さてと」と立ち上がった。
「用は済んだしもう行くよ。最後にとっておき、見せてあげる」
そう言うが早いか、彼はふわりと宙に浮いたかと思えば、パンッと一つ手を鳴らす。何事かと目を瞑ると、その瞬きの間に彼の姿は跡形もなく消えてしまっていた。
これが先ほど言っていた移動方法か、と納得するも、こんな凄いことができる人がわたし相手に譲歩した理由が分からなかった。彼なら無理やりにでもわたしを問い詰めることができたはずだ。
何事もなく済んだのは、彼に敢えて逃がされたからだと言って良かった。
何とも言い難い胸中に、視線を落とす。携帯の画面を開けば夏油傑≠フ文字の下に五条悟≠フ文字が並んでいることに気づき、余計に複雑な感情が湧き上がる。
わたしはそれらを全て閉じ込めるように、携帯の画面を閉じた。