疲労した身体を布団の上に投げ出した。手元には送信を押すだけの短い文章の横でカーソルが点滅している。
 ふと、見上げた壁の時計は午後七時を指していた。それは夏油様と毎日欠かさず交わしている夜の連絡をする時間だった。
 五条悟と名乗った男と何があったか、あの後孔さんには報告した。彼は驚くのと同時に頭を抱え「考えが甘かった、悪い」と謝罪を口にした。その様子から、やはり五条悟は規格外な人間なのだと思い知った。
 夏油様には自分で詳細を報告すると孔さんに伝えたのは良いものの、いざ伝えようとすると複雑な感情がよみがえる。

 今日は五条悟に会いました

 その文章をしばらく見つめるけれど、いつまでも悩んでいても仕方がない。いつもの時間に連絡がなければ夏油様も心配するだろうと思い直し、わたしはそのまま送信ボタンを押した。
 向こうは真昼だが、彼もきっと忙しいだろうからすぐには連絡は返って来ないだろう。そう思い、携帯を投げ出した矢先、着信音が鳴り響く。
 驚いて肩を竦ませるも、すぐに携帯を掴んだ。「もしもし」と言うわたしの声に被せて、久しぶりに聞く彼の声が鼓膜を揺さぶった。

「悟と会ったって……!」

 動揺を隠しきれない切羽詰まった声。五条悟を悟≠ニ呼ぶ彼に、落ち着いた声音で返す。

「やっぱり、彼とは顔見知りだったんですね」
「ああ……親友だったんだ・・・・・

 過去だと語る彼は、冷静さを取り戻し深く長く息を吐いた。
 五条悟が家入さんの名前を出した時に、夏油様も繋がりがあるのではないかと思ったけれど、まさか親友だったとは。
 驚きが声にならないよう気をつけながら、事の経緯を説明すると、夏油様も孔さんと同じように「見通しが甘かった」と謝罪を口にした。

「大丈夫です。ただ五年前の件で覚えていることを全て伝えただけですし、夏油様の名前も一切出していません」
「……そうか、何事もなくてよかった」
「夏油様の足を引っ張りたくはありませんから」

 呪術高専、そして呪術師と敵対していることだけは把握していたけれど、親友でさえ敵に回し呪詛師として生きていることに、彼には絶対的な道≠ェあるのだと思った。他者に縋り、手を引き、導いてもらわなければ歩けないわたしとはまるで正反対だった。
 そうやって自己嫌悪に陥るのと同時に、五条悟に問い詰められた時、夏油様の名前を漏らさなくて正解だったと胸を撫で下ろす。あの場で繋がりを匂わせていれば、今わたしはここにいなかったかもしれない。そして、五条悟は夏油様に何かしら接触を図っていただろう。それでは確実に夏油様を追い詰めてしまっていたはずだ。
 胸中を安堵で満たすわたしに、彼は「いや、そうじゃなくて……」と弱々しい声を落とした。

「君が高専に取られてしまったら、と」
「取られる……」

 思わず反芻した言葉に、彼は過敏に反応した。

「すまない、物扱いしたわけじゃないんだ。ただ──」
「わたしも高専に連れて行かれなくてホッとしました。……わたしは夏油様のもとじゃないと生きられないので」
「……そうだった。君はそういう人だったね」

 ますます声を落とした彼は、電話の向こうで頭を抱えているに違いない。出立する時と同じ様子が目に浮かんだ。
 また彼を困らせてしまったと口籠ると、彼は柔らかい口調で話を切り替えた。

「とにかく、すぐ帰るよ」
「気をつけて。三人で待ってますね」

 彼の「また連絡する」と言う言葉を聞いてから通話を切る。
 もうすぐ、帰ってくる。そのことに自然と口角が上がった。




「夏油さま、まだかな〜」
「もうすぐだよきっと」

 玄関の前でソワソワしている双子を見守っては、携帯の画面に視線を戻す。成田に着いた≠ニ連絡が来たのは数時間前の話だ。もうそろそろ帰ってきてもおかしくはない。そう思った矢先、メッセージを受信した音が鳴る。わっと駆け寄ってくる彼女たちを落ち着かせて、文章を目で追った。
 美々子と菜々子には内密に出てこれるかい?
 そう書いてある画面を見せることはできず、「何で書いてあった?」と問う彼女たちに曖昧に笑いかけた。

「帰り着くまでもう少しかかりそうって。わたしは孔さんに用事があるから、少し出かけてくるね」
「わたしも行く!」
「もしかしたら夏油様も早く帰り着けるかもしれないし、二人にはお留守番してて欲しいな」

 そう言うと彼女たちは渋々ながらも引き下がった。二人の知る孔さんの名前を勝手に借りて騙す形になってしまって申し訳ないと心の中で謝りながら、わたしはコートとマフラーを引っ張り出して家を飛び出した。
 外に出ると少し離れた道路脇に車が止まっている。すでに日は落ち、辺りが暗くなっているせいで車内の様子はよく見えない。じっと視線を送ると、ヘッドライトが二回点滅する。夏油様からの合図だと受け取ったわたしが車に近寄れば、待ち構えていたように助手席側のドアが開いた。
 暖房の効いた空気が逃げてしまわないうちに素早く乗り込む。しっかりとドアを閉め、運転席の方を見れば、ハンドルに両腕をついた彼がや、と小さく声を上げた。

「長旅お疲れ様です。無事に済んだみたいで良かったです」
「ああ……本当に疲れた。もうしばらく出張には行きたくないね」

 苦い顔でぼやく彼は「車、出すよ」とわたしにシートベルトをつけるように促した。

「それで、その、どこへ……?」

 流れる窓の外の風景を眺めるふりをして、チラリと彼を盗み見る。久しぶりに見る彼の姿に安心したのかずっと強張っていた心が和らいでいった。
 この二週間の間、双子に何かあってはいけないと気を張っていたし、予想外にも五条悟という危険因子にも出会ってしまった。心の底ではずっと不安だったことを、今こうして彼の傍にいることで自覚せざるを得なかった。
 彼はふ、と笑みを浮かべると「今日は何の日か、考えてごらん」と問いかけた。
 わたしはバツが連なっている家のカレンダーを思い浮かべる。確か、昨日23日にバツをつけていたから、今日は12月24日……
 街並みは色とりどりのイルミネーションで色づいている。それを見て、わたしはハッと顔を上げた。

「クリスマスイブ!」

 世間的には一大イベントであるものの、わたしや双子にとっては、夏油様が帰ってくる方がクリスマスなどよりビッグイベントだったせいか、頭から完全に抜けていた。

「すっかり忘れてました……」
「フフ、何となくそうだろうとは思っていたよ」

 楽しげに苦笑した彼は、悪戯を企てているかのような幼い笑みを浮かべ「今年は私達がサンタクロースだ」と言った。
 なるほど、双子へのクリスマスプレゼントを選ぶために、彼女達に内緒でわたしを呼び出したのか。ようやく謎が解けた。二人に嘘をついて出て来たことを気にしていた胸の内が晴れていく。クリスマスのことまで気が回らなかったなと自省する部分もあったけれど、彼女達の喜ぶ顔を思い浮かべると胸が踊った。
 人に何かをあげたことがあまりないこともあり、実際店でプレゼントを見繕うのは難しかった。それでも店内に流れる陽気なクリスマスソングに耳を傾けながら、真剣に悩むのは案外楽しかった。
 隣で難しい顔をしながら、可愛らしいぬいぐるみが敷き詰められた陳列棚とにらめっこをしている彼を視線の端で捉える。毎年こうやって幼い少女達に贈る物を選んでいたのだろうか。そう考えると微笑ましく思えた。

「美々子ちゃんも菜々子ちゃんもサンタクロースを信じてるんですね」

 無事に買い物を終え、車に乗り込んだわたしは綺麗にラッピングをされた後、後部座席に積み込まれたプレゼントを尻目にそう尋ねる。

「ああ、毎年サンタへの手紙に欲しいものを書いてるんだけどね。今年は二人もすっかり忘れていたみたいだね」

 その口ぶりから彼女達との楽しげな思い出が窺えた。彼は彼女達にきちんと子供としての楽しみを与えている。辛い過去があろうとも子供が子供らしくいられるのは、本当に信頼できる大人がいるからなのだとしみじみと思った。

「……わたし、サンタになるのは初めてです」

 わたしはいつからサンタクロースを信じなくなっただろうか。心の中でそう思ったのと同時に、口からこぼれ落ちた言葉。彼はそれに「そうか」と静かに頷いて、流れる動作で車線変更した。入るはずだった首都高速の入り口が過ぎ去っていくのを目で追う。家とは違う方向に車を走らせていることに「あの」と戸惑いがちに声をかけると、真っ直ぐ前だけを見つめる彼からは「少しだけ寄り道」と返って来たので、わたしは大人しく視線を移し窓の外を眺めていた。

「美々子と菜々子を救った時、その土地にいた村人を全員殺した」

 唐突に口火を切った彼の言葉に目を見張る。思わず驚いたわたしに気づいた彼は、自嘲し「もう三年も経つのか」と零す。
 彼が非術師を猿と呼び、憎しみを抱いていることは知っていた。驚いたのは非術師を殺していたことではなく、今そんな話題を出されるとは思わなかったせいだった。

非術師 さるを殺したのはあれが初めてだった。……あの時、私は腹を括ったんだ。自分の生き方も、行く末に待ち受けるものも、全てね」

 彼の語り口は柔らかかった。それは全てを悟り、受け入れたが故の平静だった。
 わたしはただ彼の声に耳を傾ける。

「両親は非術師だった。自ら手にかけたのは、大義を貫くためのけじめだ。私は自分の選んだ道に後悔はしていない。……処刑対象になろうとも、旧友に──悟や硝子に理解されなくとも、私は何度だって同じ道を選ぶ」

 一人で決断して進むには大きすぎるものを彼は背負っている。心臓が締め付けられたかのように痛んだ。手にこもる力が強くなり、ぎゅっと膝の上で拳を握った。
 彼は「つまり、何が言いたいかというと」と言いながらサイドブレーキを引いた。わたしは拳から視線を上げ、前を向く。停車した場所は品川の埠頭だった。目の前に広がる海の向こうでは、レインボーブリッジが流線を描くように輝いていた。
 綺麗、と呟きかけたわたしに、彼は一呼吸置いて言い継いだ。

「私は地獄に堕ちる人間なんだよ」

 鈍器で殴られたような衝撃だった。掲げた理想を成し遂げるためには、例え悪道だろうと進むしかない。自らの罪を自覚している彼には、最終的に行き着く場所がどこなのか理解している。
 美しい夜景を前にしているせいか、余計に重みのある言葉だった。愕然としているわたしに、彼は何事もなかったかのように「君に渡したいものがあってね」と紙袋の中から小さな箱を取り出した。

「……これって」
「家族の証だよ」

 手のひらに乗せられたベルベットの滑らかな手触り。これが何か察するのと同時に緊張が走った。
 恐る恐る親指の腹に力を入れ、押し上げる。少し硬い蓋がゆっくりと開くと、細やかに光を反射する小さなダイヤがはめれらたシルバーリングが顔をのぞかせた。言葉を失ったわたしは思わず彼を見上げる。

「君も知っているだろう? 私は形から入るタイプなんだ」

 そう眉を下げて笑った彼は、箱の真ん中に鎮座した指輪をそっと摘み上げると、わたしの左手をとって薬指の付け根をゆるゆると撫で上げる。それはまるで、今からここに指輪をはめることを知らしめる行為かのようで、熱に浮かされたかのようにくらりと目眩がした。
 早鐘を打つ心臓を抱え、肩が上下しそうになる息を殺し、わたしは彼と見つめ合った。その永遠よりも長い時間は彼からの意思表示で、わたしに与えられた最後の猶予だった。
 わたしは首を横に振ることも、手を振り払うこともしなかった。ただ彼をじっと見つめ返す。それだけで十分だった。
 試すような視線を向けていた彼はくすり、と笑みを零してはわたしの薬指にゆっくりと指輪を押し入れた。

「傍にいて欲しい。私が地獄に堕ちるその日まで」

 苦しかった。何もかも真剣で、切実で、だからこそ余計に胸が痛かった。
 彼はわたしの答えを待っているかのように口を閉ざした。何か言わなければとは思うけれど言葉にならない。それでも、口籠っていてはダメだと己を奮い立たせ、恐々と口を開いた。

「……その、初めてです。指輪をもらったの」
「ふふ、そうか」

 ただ事実を述べるのみになってしまった。気が緩んだように笑われてしまえば、一気に熱が顔に集まっていく。気の利いたことの一つも言えないのかと自己嫌悪に陥りながら視線を彷徨わせ、最終的にはめられたばかりの指輪の上に落ち着いた。
 家族の証。家族が欲しいと言ったわたしに、目に見える形として示してくれたことが嬉しかった。それでも、素直に頷けなかったのは、彼が優しすぎたせいだった。

「……傍に置いてもらえるのなら、わたしは地獄の底にだって着いていきますよ」

 ここまで来た以上、一人残される方が残酷に思えた。どうせなら最後の最後まで連れて行って欲しい。そう願うけれど、彼は困ったように言葉を探している。

「夏油様」

 わたしは悩ませてしまった彼の思考を遮りたくて、彼の手を取り呼びかけた。

「おかえりなさい」

 まだ彼に言えていなかった言葉。家族という帰る場所になれたからこそ言える言葉。
 彼は一瞬目を丸めた後、表情を緩め「ただいま」と微笑んだ。





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永遠に白線