眠い目を擦り、窓から差し込む朝日を眺める。眩しいほどの晴天が目に刺さり、思わず目を引き絞った。
 春の気配は暖かさとともにやってくる。肌寒いのは朝晩だけで、日中はほとんど麗かな陽気に包まれていることの方が増えてきた。身体の芯まで凍える冬の寒さは嫌いじゃないだけに、少し残念に思えた。
 あの冬の日を宿したような、ひんやりとした冷たさが左手の薬指を包んでいる。人肌より冷たいせいか、常にさりげなくその存在を主張しているようだった。それが何だか彼らしいと思えてしまうのは、私の薬指に指輪が収まってから程なくして、当たり前のように彼の同じ指にも全く同じデザインの指輪がはめられていたからである。
 男女が左手の薬指にはめる指輪と言えば、世間一般からすれば結婚指輪≠ナある。さすがにそこの認識を違えるほど常識外れではないが、わたしと夏油様にそんな事実はない。指輪を渡された前後で何が変わるわけもなく、ただ穏やかな日常を過ごしているだけで何の不満もない。この断続した幸せな日々が家族の証≠ニして渡された指輪のおかげであるのなら、わたしは目に見えた証を授けてくれた夏油様に感謝をし、ありがたくこの状況を享受する腹づもりだ。しかし、事情を知らない周囲の目には結婚という見当違いな関係に写っているようで、既に両手で数えても足りないほどの人達に祝福され、その一人一人丁寧に説明するのも骨が折れる作業になってしまっている。しまいには双子にも「夏油さまとお姉ちゃんは結婚したの?」「左手の薬指に指輪をつけるのは結婚する時って言ってた」と純粋な瞳で問われてしまい困り果てたばかりだった。

 腰掛けていたソファーが沈む。苦く深みのある芳しい香りとともに、わたしの隣に腰を下ろした夏油様は両手に持っていたマグカップの一つを手渡す。わたしはそれを受け取って「ありがとうございます」と小さく呟いた。
 褐色の表面を湯気が撫でている。その様子を見て、ふと彼が教祖と知った喫茶店での記憶が蘇る。

「夏油様はコーヒーが嫌いなんだと思ってました」

 何気なく放った言葉に、彼は意外そうに「どうして?」と首を傾げた。わたしはあの時感じた緊張感と紐付いている香ばしい匂いを吸い込んで、湯気を払い除けるようにして息を吹きかけた。

「前に喫茶店で一口も口をつけなかったから」
「ああ、そんなこともあったね」

 思い当たる節があった彼は苦笑混じりに頷く。

「理由は分かっただろう?」
「はい、それはもう」

 わたしも彼と同じ笑みを作る。彼が非術師をよく思っていないことは、傍にいるうちに察することはできた。その徹底したやり方は少々度が行き過ぎていたけれど、己を律する戒めのようにも思えた。
 わたしは常に普通を──非術師を羨んで生きてきた。それでも、今こうして彼の隣にいられるのはわたしが術師であったからなのだと思えば、以前と同じように非術師に対して羨望を抱くことはなく、寧ろ術師でよかったと安堵している。
 なんて身勝手な人間なのだろう。そう自嘲する己を洗い流すように、マグカップの中で波打つ褐色を飲み込んだ。
 鼻に抜けていく苦味を舌の上で転がす。そうやって黙り込んだわたしを見た彼は、傍の机にコーヒーを置くと膝の上で手を組んだ。

「それにしても、初めの頃に比べて見違えるほど動けるようになったね」

 彼は話題をすり替えるように昨夜あったことを持ち出した。
 ここ最近、使える手持ちの呪霊を増やすために、彼が欲した呪霊を捕獲するのにわたしも着いて回っている。初めは彼も良い顔をしなかったけれど、最近では案外わたしが頑固なことを悟っては、戦闘において重要なことを助言してもらえるようになった。数を重ねれば重ねるほど戦えるようになる。それは「数をこなすことも大事」だと言った先生の言葉通りだった。
 強くなると決意したからには、複雑に絡み合うわたしの感情は関係ない。彼の言葉に、わたしは渦巻く思考を打ち消すように「本当ですか! 嬉しいです」と少し大袈裟に声を上げた。

「いつかはちゃんと一人で戦えるようになりたいです」

 呪力コントロールの精度が上がっていることにより、呪霊と人間の判別はつくようになったけれど、視覚的な認識は未だに曖昧だった。まだまだ改善する点は多い。いざ単独の戦闘となっても、任せてもらえるようになるまでは時間がかかりそうだと気が急いて仕方がない。

「……君はそう言うけれど、私は戦って欲しいとは思っていないんだよ。もし、君が私と同じように戦わないと家族でいられないのだと思っているのなら、それは見当違いだ」

 これまでも何度か言われたことのある言葉。わたしは家族を失う強迫観念から戦いたいと思っているわけではない。ただわたしが彼の一番傍にいることを許されるために自ら望んで行なっているだけなのだ。わたしはいつまで経っても噛み合わないその想いを再び口にするために顔を上げた。

「君にこれを渡したのは──」

 不意に伸びて来た彼の指が、薬指の付け根を撫でた。驚きで体を揺れる。その衝撃により、手に持っていたマグカップの中身が飛び出し、抱えていたクッションに着地して濃いシミを作った。

「あ……ごめんなさい」

 慌ててカバーを取り外す。中身のクッションには染みていなかったようで、ひとまず胸を撫で下ろす。すぐに洗えばシミも取れるはずだ。
 コーヒーに浸ったカバーを手に立ち上がる。「火傷は?」と眉を下げた彼に「してないです」と答えた直後、ポケットの中の携帯が鳴り響く。

「大丈夫、片付けておくから電話に出ていいよ」

 わたしの手から汚れてしまったカバーを取り上げ、洗面所に消えていく彼の背中に礼を言う。そして、未だ鳴り続けている携帯を取り出すと、表示されていた電話の相手の名前に目を疑った。そのまま無視してしまうことも考えたけれど、やけに耳障りな着信音に責め立てられ、応答を余儀なくされる。

「もしもし」

 発した己の声は緊張をはらんでいる。携帯を持つ手に力が入る。わたしは汗を握った左手で服の裾を掴んだ。しかし、そんなわたしとは反対に、相手は陽気な声を放った。

「久しぶり〜元気?」

 五条悟だ。できるだけ関わりを断ちたいと思っていたのに、どうして電話に出てしまったのだろう。やっぱり出なければよかったと後悔してももう遅い。
 わたしは早く切りたい一心で彼の問いに答えず「何の用でしょうか」と用件を急かす。

「え〜知りたい? どうしよっかなぁ、教えちゃおうかなぁ」
「……切って大丈夫ですか?」
「ごめんごめん、冗談」

 もったいぶる彼に冷たく当たれば、電話の向こうで軽く笑い飛ばされる。その様子が少し腹立たしくて唇に力が入った。文句の一つでも言ってやろうかとへの字になっていた口を開くと、彼は真剣な声音を落とした。

「君さ、呪詛師の末路、知りたくない?」

 ザッと全身の血の気が引いた。冷えていく脳内に鼓動の音がガンガンと響いた。
 このタイミングでそれを尋ねる彼の意図が分からない。呪詛師とは誰のことを指している? それが私ならいいけれど、もしかして夏油様との関わりがバレたのだろうか? そうであるのなら、わたしはどうすれば──
 湧き上がる疑問と焦燥を、必死に押し留めて噛み殺す。

「何故……ですか」
「君の先生′ゥつかったよ」

 予想外の返答に言葉を失った。彼は硬直した空気を気にすることなく「会う気、ある?」と問いかけた。



 貴重品だけ手に持って靴を履き、玄関のドアをそっと押し開ける。その動きを制したのは、背後でわたしの名前を呼ぶ夏油様の声だった。

「どこへ?」

 決して責めているわけではない問いかけが余計に負い目に感じられ、わたしはバツが悪い思いで小さく振り返る。

「……呪いを解きに」

 悩んだ末に吐き出した言葉に、彼が何か言うより早く開いたドアの隙間から体を滑り込ませ、外に出た。
 わたしが抱いた不安が杞憂であったのはよかった。しかし、わたしが五条悟に情報を渡してから、たった数ヶ月で先生の身柄を捕らえていたのかと思うと、やはり彼ら呪術師の元へ向かうのは危険なのではないかと疑う気持ちが強くなる。もしかしたら、何かの罠かもしれない。けれど、その危険を冒してもわたしは先生に会ってみたかった。ただ漠然と会えば何か変わる気がした。
 電話で指定されたのは、呪術界の要・東京都立呪術高等専門学校。緑に包まれた山道を登り、苔のむす石垣に沿ってひたすら前進していく。ようやく坂を登りきった先に寺院のような仰々しい建物が見えてくる。
 わたしはそびえ立つ門の前で一度立ち止まる。敵陣に単騎で乗り込むようなものだ。不安を抱いた心を奮い立たせ、決意を固める。緊張でカラカラに乾いた喉を潤すために、無理やり生唾を飲み込んだ。そして正面の入り口の立て札を確認して、敷地に踏み込んだ。





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永遠に白線