地方の空港は東京と比べて人は少ないとはいえ、休日と重なってしまったせいかそれなりに混んでいた。わたしは片隅に追いやられていた公衆電話をようやく見つけ出す。いつのものか分からないボロボロの電話帳が積み上がっているのを横目に、十円玉を数枚ねじ込んだ。
ここ二週間ほど、出張で九州の僻地に滞在していた。本来の期間は十日であったものの、良い
夏油様は、初めわたしになかなか一人の仕事を任せたがらなかったけれど、七年の歳月を経て、それなりに仕事を振ってもらえるようになった。今思えば夏油様と再会した直後は、強くなりたいという気持ちはあったものの当然一人で戦える実力はなかったのだから、適切な采配だったと思う。
己の師を手にかけたあの一件で、わたしは過去という呪いから解き放たれた。そのおかげで
わたしは暗記している数字を手早く押す。耳元でコールが鳴った。三回同じ音を聞いた後「はい」と応答した他人行儀な女性の声に、わたしは「もしもし、真奈美さん?」と切り出す。瞬時に緊張を解いた電話の相手は、慌てた様子で声を上げた。
「ちょっ、今まで何してたの! 急に連絡付かなくなったからみんな心配してるのよ!」
「あ〜……申し訳ないです」
わたしは項垂れながら後頭部を掻いた。正直、心配をかけているだろうなとは思っていたけれど、連絡手段の携帯電話は途中で
仕方のない一連の理由を手短に述べると「いつ帰ってこれるの?」と問われる。
「今から東京行きの便に空席がないか確認するんですけど、多分今日中には帰れそうってみんなに伝えてください」
わたしは少し間を置いて「夏油様にも」と言い添える。
この数年で増えた家族は皆、夏油様を慕い集っている。もちろん個人間での絆はあるものの、それ以前に根幹にある部分が明確なだけあって絶対的な信頼関係を築くのは難しくなかった。
連絡する相手に真奈美さんを選んだのは、わたしが夏油様に直接連絡するより、良いタイミングを見計らって彼女から伝えてもらった方が丸く収まると思ったからだった。わたしが空気を読み違えて伝えてしまえば、夏油様を不快にさせかねない。秘書を務める彼女は、わたしと違って器量が良い。わたしだって彼を怒らせたいわけでないので、彼女が適任だと踏み伝言を頼んだ。夏油様は機嫌の浮き沈みが激しい方ではないけれど、とりわけご機嫌なタイミングで伝えてくれると期待している。
しかし、彼女はわたしの予想を裏切って「夏油様ならいないわ」と言い放った。
「──もしかして、何かあったんですか?」
嫌な予感に喉の奥が引き攣った。
百鬼夜行。そう命名した都市部に数多の呪霊を放つテロ行為を一ヶ月後に行うことになっている。その計画の破綻に関わる問題でも発生したのかと身構えるも、彼女はわたしの推測を否定するように呆れたため息をついた。
「ええ、あったわよ。貴女が帰って来ないっていう大事件が」
「え、わたしですか?」
「それ以外に何があるっていうのよ。とにかく今はリスケの交渉で大変なんだから」
「それは、その……大変ご迷惑をおかけして……」
でも、それは夏油様がいない理由とは関係ないのではないだろうか。そう彼女に尋ねようと思った矢先、電話の向こう側から揉める声とともにガタガタとものすごい騒音鳴り響く。咄嗟に受話器から耳を遠ざけたわたしは、まだ通話が長引きそうだと再び小銭を投入する。すると、真奈美さんとは違う声が耳に飛び込んできた。
「お姉ちゃん!?」
「な、菜々子?」
圧に押し負けてたじろぐも「真奈美さんはどうしたの?」と問えば「美々子が抑えてる」と平然と返される。
「それ、吊ってないよね? 大丈夫?」
「そんなことより、今どこ!?」
そんなこと……と思うけれど真奈美さんと双子が戯れていているのは日常茶飯事なため、心の中で彼女に謝りながらも聞き流すことを決める。わたしは出張先の空港にいると伝えれば、受話器の向こうで安堵に満ちた声が漏れた。
「よかった〜」
「えっと、何が?」
「夏油様、そっち行ったよ」
「え」
ピシリと硬直したわたしは手に汗を握る。菜々子から伝えられた到着予定時刻は、今の時刻から二十分ほど過ぎていた。余程の遅れがない限り、夏油様はすでにこの空港内にいるということだ。わたしのせいで彼があちらにいないと言っていたのはこういうことか、と腑に落ちるも、焦りを隠せずにいた。
「入れ違いにならないように気をつけなよ」
「え、ほんとに……?」
「ほんとほんと。夏油様ってば寝ずに飛行機の予約サイトとにらめっこしてたんだから」
信じられない思いでもう一度真偽を問うけれど、あっさり肯定されてしまう。
正直寝ずにすることではないだろうと思いながらも、呆然と備え付けられた時計の針を見上げたわたしは、その視線上に見慣れた人物が立っていることに気づいてしまった。
「……いた」
そう呟いたところでブツリと通話が途切れた。通話料金が足りなかったせいで切られたのだと分かっているものの、無慈悲にも見放されてしまったかのように錯覚してしまう。ツーツーと繰り返される無機質な機械音が鼓膜に張り付くのを感じながら、視線だけは見事に彼とかち合っていた。
このまま突っ立っているわけにもいかず、ついつい視線を彷徨わせていたわたしは受話器を置き、荷物を持って彼の元に向かった。
彼は遠巻きに見られていることなど微塵も気にしていない様子で人混みの中で立ち尽くしていた。わたしとは対照的に、彼は手荷物一つ持っていない。睡眠時間を費やしていた上に、荷造りをする暇もないほど、悩みに悩んだ末にやって来たのかと信憑性がますます上がっていく。
「あの……夏油様、ちょうど今本部に連絡を入れたところで……」
そう言い訳を口にするも、顔色一つ変えずに見下ろす表情のない彼を見て、瞬時に「無断で帰りを延期してすみませんでした」と頭を下げた。
「携帯は?」
「その、途中で壊れまして……」
恐る恐る告げるわたしに「そう」とだけ発した彼の表情は依然変わらない。居心地の悪い沈黙に追いやられて「あの」と切り出すも、彼によって掻き消された。
「約束」
「えっと……?」
「約束しただろう」
そう繰り返す彼の言葉によって、七年前の記憶が掘り起こされる。
確かに約束した。黙っていなくならないと、もし同じことがあったら問答無用で探しに行くと、小指を絡めた記憶は確かにある。
「覚えてないとは言わせない」
「も、もちろん、覚えてますよ」
正直、連絡できなかったのは仕方のないことだったと思うのだが、これは約束を破ったことになるのだろうか。つい視線を落とすと、彼の気配が近づく。距離を縮めた彼は至極真剣な表情のまま、究極の選択を迫った。
「今この場で抱きしめられるのと、後で二人きりの時に抱きしめられるの、どちらがいい?」
「えぇ……」
思わず困惑した声を漏らす。いきなり何を言い出すんだと思い、彼の顔を見上げればあまりに酷い顔色をしていた。
寝不足ということもあって冷静な判断ができないのだろうか。そうだ。きっとそうに違いない。
それ以外の選択肢が欲しいけれど、今でさえ周囲の目が痛いのに、これ以上目立ちたくはない。
「こ、後者で……」
渋々そう答えると、彼はわたしの荷物を奪い、腕を引いて空港の外に向かって歩き出す。
「あの……! どこへ?」
「わざわざ地方まで来させておいて、蜻蛉返りさせる気かい? せっかく仕事を投げて来たんだ。羽を伸ばさせてくれてもいいと思うんだけどね」
嫌味混じりの返答に何も言い返すことができない。引き攣った笑みを向けるしかないわたしは、大人しく彼に連れられるままタクシーに乗り込んだ。
もともと予約していたらしいホテルに到着したのは良いものの「一部屋しか取ってないよ」という無慈悲な宣告に尻込みする。いつも同じ屋根の下で暮らしているわけだから他意はないはずだという希望的観測を胸に部屋の扉を開けた。
「それじゃあ、まず言い訳を聞こうか」
先程の無表情とは打って変わって、非術師に向けるようなよそ行きの良い笑顔で迫り来る彼の圧に押し負けて口籠る。その間もズンズンと距離を詰めてくる彼に後ずさると、膝裏にベッドのマットレスが当たる。後ろに倒れてしまいそうになるのを何とか耐えて、今回の経緯をポツリポツリと言葉にしていく。
「ええと……各地方に支部の基盤を作る方針の一つとして今回ここまで出向いたわけですが──」
本来の目的である地方の権力者に取り入って金を作るという単純明快な仕事は、十日かからずこなせていたのだ。わたしが滞在を伸ばしたのは、その権力者が力を入れようとしている事業の一つに手を貸すことを決めたからだった。寂れた宿場町の復興という名目でレジャー施設の建設予定が立っていたが、住民の総意を得られないらしい。そして、住民がこぞって口にする反対の理由が祟り≠フ存在だった。江戸から続くその宿場町には、歴史とともに深く呪いが根を下ろしていた。
祟られることを恐れていた人々は、他所者であるわたしが迂闊に手を出すことを阻止するために、携帯を壊し外部と連絡を取れないように手を打って追い返す算段を計画を企てた。
そうした一悶着があったと話せば、彼は冷静さを取り戻したのかいつも通りの声音で「これだから
「だが、そこまで首を突っ込む必要はなかったと思うけれど」
「恩は売れる時に売っておいた方いいですし、後々の役に立ちそうな呪霊だったので」
今回の一件は祟りを恐れる人々の畏怖の念が、呪霊となったものだった。人々には分かりやすく祟りの原因として適当な物を見繕い、偽りのお焚き上げをしてやれば、全て終わったのだと安堵に胸を撫で下ろしていた。わたしとしては手駒も増えて、恩も売れて一石二鳥だ。詐欺師のような真似だが、そんなことはもう今更追及したところで手遅れだった。
呪霊の等級は一級相当。わたしの実力では祓うまではできないけれど、後々扱うなら封印で十分だった。そうやって一時的にでも封じておけば、解くのは簡単だ。百鬼夜行により呪術界の要を潰し、後はそのまま地方に封印した呪霊を解き放って非術師を襲わせ蹂躙していけばいい。扱える駒は多ければ多いほどスムーズに事が進む。そのための仕込みをこの数年、各地に施して来た。今回もそれに倣ったまでだ。
それは彼の行く道にある邪魔な小石を一つ一つ取り除いていくような地道な作業だったけれど、わたしが彼の傍で一番したいことでもあった。
そう誇らしく思いながら彼を見る。彼はうっすらと苦しげに眉を寄せた。
「君は先のことを見据えている。……そして、成功することを信じて疑わない」
彼はわたしの行動を確かめるように、そして噛み締めるように口に出した。わたしは何故彼がそうしたのか分からず、首を傾げた。
「夏油様もそうでしょう?」
そう尋ねれば彼は「そうだね」と呟くも、一瞬辛そうに目尻を歪ませる。彼はその顔を隠すためか、わたしの肩に顔を埋めて体重を乗せた。その押し倒そうとする力に抗うけれど、仰反った身体のどこに力を入れていいか分からず、そのまま重力に任せて崩れ落ちた。
柔らかなマットレスがわたしを受け止めるけれど、上に乗った彼の重みで蛙が潰れたような間抜けな声を上げた。
恥ずかしい思いで赤面するけれど、彼は笑うこともなくただわたしを抱きしめたまま押し黙っていた。
「……君は、いずれどこかに行ってしまいそうだ」
ポツリ、耳元で呟かれた言葉に、わたしは目を見開き「まさか!」と驚きの声を上げた。
「そんなこと、一度も思ったことありませんよ。昔からずっと夏油様の傍にいたいと思ってます」
「君が私の傍で生きたい、とその言葉は本当なんだろう。それは疑う余地もない」
彼はわたしの肩口でゆるゆると首を振ると、両手を付き身体を離した。わたしを見下ろ好きその表情は、迷子の子供のように不安げに揺れている。
「君を見ているとヒヤヒヤする。存在が危ういんだ。……君の何がそう思わせるんだろうね」
「……夏油様はわたしの道標です。もし仮に、どこかへ行きそうな時は首根っこ掴んででも連れ戻してください」
わたしは安心させるようにそう言うと、願いを込めて彼の瞳を見つめた。
「道連れでも共倒れでも、何だって本望ですから。どこまでだって連れて行って欲しいんです」
「ハハハ、突拍子もないことを言うね」
「笑い事じゃないですよ。本気です」
わたし達を繋ぐものは、一つ一つが小さく頼りないものであった。それでも、少女だったわたしが彼に救われ、再会を果たし、手を取り、言葉を重ね、約束を交わしたこの十年という決して短くない月日の全てが、大切なものとなって記憶の中に刻みついている。彼にとっても共に過ごす時間が大切だと思ってもらえているのなら、永遠に手放さないで欲しい。終わりなどない円環の中を廻るこの世界で、永遠に。
笑い飛ばされそうになったわたしの懇願を、彼は今一度吟味するようにそっと目を閉じた。
「あの雨の日、君に声をかけたのは本当に偶然だった」
ポツリ、零した言葉は一瞬でわたし達を真夏の夕立の中に連れ込んだ。アスファルトの濡れた匂いと、彼の纏った香の香りが鼻の奥に広がる。頭上で跳ねる雨音が重く響く傘の下。足元を叩きつける鋭い雨に遮断された小さな世界。肌に絡みつく湿り気を帯びた生温さを想起させながら、わたしは言葉を発することなく相槌を打った。
「生きていてよかったと心の底から思ったんだ。……だから、私は君に生きて欲しい」
彼の指がそっと頬に触れた。熱を持った肌とは裏腹に、突き放された想いで身体の芯が冷えていく。目の端から零れ落ちた雫が、重力に従って肌の上を滑り耳の上に落ちた。
彼は「泣かないで」と言った。そんなのはどう足掻いても無理だった。彼はきっと死を前にして、わたしを同じ道には連れて行ってはくれない。わたしを想ってくれているのに、わたしの願いは叶えてくれない。その優しさが何より辛かった。
頬を撫でていた手が濡れた目尻を拭う。彼は諭すように「最後に行き着くところは私も君も同じだろう」と穏やかに語った。どう訴えても彼が考えを変えることはないのだと悟り、わたしは吐く息とともに「はい」と答える。それを見た彼は安堵に満ちた表情で柔らかく笑った。
「それなら、君の願いは聞き届けたよ。骸となってもずっと一緒だ」