さざ波がわたしの意識を飛び戻すように爪先に触れた。生温い。けれど波が去れば次第に冷たくなっていき、濡れてしまったことに不快感を覚えた。視線の先にある広がる海原と雲一つなく澄んだ大空。キャンバスに青を落としたような鮮烈な色彩は、現実味を持たず漠然と目の前に存在している。
 背後で砂を踏む音が鳴る。白昼夢の中にいるような朧げな思考のまま、わたしはそっと振り返る。いやでも目に入る額の縫い目に頭の中が冷めていく。佇む骸にわたしは開きかけた唇をきつく結んだ。

「まさか君がついて来てくれるとは思わなかったよ」

 夏油傑の姿で微笑むその存在は、親しげに仕草でわたしに歩み寄る。声も、仕草も、何もかもが不快だった。しかし、何事も突き抜ければ案外平気になるもので、わたしは何も感じなくなったまま「貴方にとっては好都合でしょう?」と尋ねた。

「確かに、嬉しい誤算だ」
「案外と役に立つと思いますよ」
「へぇ、それは期待できそうだ」
「夏油様の指導の賜物なので」

 わたしの嫌味にクツクツと笑ったソレは、左手の薬指にはめられた指輪をくるくると回し弄んだ。

「嫌われる覚えはあるからね。これは返しておいた方が良いのかな」
「……いいえ、そのままにしていて下さい」

 指輪を外そうとする手を押し留める。迷いなく止めたことに驚いたのか、ソレは目を丸くした。

「これは夏油様がはめたものです。外す選択も夏油様がするべきです」

 わたしの出した答えに、相手は嘲るような笑い声を漏らした後、厭みな表情で見下ろした。

「君も随分とコレに執着しているらしい」
「いけませんか」
「そんなことは言ってないよ。じゃあ……そうだな、暇つぶしにごっこ遊びをしてあげようか」
「ごっこ遊び?」
「そう。君は夏油傑に何を望む? 恋人であること? 夫婦であること? それとも互いの血を分かつ子が欲しいのか? どれであっても私なら叶えられる」

 問いかけとともにわたしを追い詰めたソレは、「もし子供であったならば、少し私の呪力が混じってしまいそうだけど」とからかう口調で、何が起きるか示唆するようにわたしの胎を上に手を這わせた。
 わたしはその挑発に無視を決め込み口を開いた。

「別に、夏油様の遺志を継ぐとか、彼を冒涜している貴方への復讐とか、正直どうでもいいんです」
「へぇ? それは意外だ」

 興味が逸れたのか触れられていた手が離れていく。わたしは相手と距離を取るために、波打ち際に沿って三歩ほど歩みを進めた。
 どうでもいいは言いすぎただろうか。そう自分の発言を思い返すけれど、大事なところはそこではないと先の言葉に言い継いだ。

「ただ、どうせ夏油様の元へ行くなら骸まで連れて行きたい。彼が骸となってもずっと一緒だと言ってくれたから、その約束を守るためなら例えどんな悪党に器として使われていても必ず彼を連れて逝きますよ」
「君に私が殺せるかな」

 つらつらと理由を並べたわたしを相手は見下した。きっとわたしがこの身体を傷つけられるわけがないと高を括っているのだろう。
 わたしはその見当違いな思索にゆるゆると首を横に振った。

「貴方の生死はわたしの意図するところではありません。わたしが欲しいのは身体だけなんです。貴方が鞍替えするか、誰かに殺されるのを気長に待つことにします」
「奇遇だね。私も気が長い方でね。君とは相性が良さそうだ」

 胸糞の悪い台詞ばかり吐く相手を一瞥し、わたしは本音を零した。

「……わたしは、生きなくちゃいけないんです」

 記憶の中で夏油様に生きていてよかったと、これからも生きて欲しいと言われた時のこと思い起こす。
 これはある種の暇つぶしだ。生きるための目的を無理やり作り、かろうじて命を保つ。これが生きて欲しいと願われた側の限界だった。
 相手はわたしの心の中を見透かしたかのように苦笑し「それは、長い我慢比べになりそうだ」と言い放ち、わたしの隣に並んだ。

「貴方がその身体から出ていってくれるなら、使い勝手のいい器を用意するところまでやりますよ」

 それが一番平和的だと、わたしは相手の目も見ずにそう告げる。

「もはやどちらが悪党か分からないな」
「失礼ですね。わたしは良かれと思って提案しているだけなのに」

 喉の奥で笑う相手に冷たい視線を向けて向き直り「なんならわたしの身体を器にしてくれても良いですよ。それが一番手っ取り早い」と主張する。

「自分で言うのもなんですが、結構使えると思うんですよ、この術式。わたしもまだまだ使いこなせているとは言い難いですから、貴方なら上手く使えるんじゃないですか?」
「ハハ、それはやめておこう」

 半分冗談で挙げた提案は、あっさり断られた。特別気にすることもなく、わたしは真っ直ぐ歩いていく。ザザッと一際大きな波の音がすると、波打ち際を歩きすぎていたせいか足首あたりまで波に打たれた。既に濡れていたわたしは、全て濡れるのを厭わずに歩みを止めることなく薄く広がる白波の中を進む。それに倣ってか、隣の相手は同じように濡れているのにも関わらず、わたしに歩調を合わせて波を蹴った。打ち寄せた波を避けることなどできたはずなのに、敢えてわたしと同じ道を選んだのが不気味でもあり、何より居心地が悪かった。
 潮風がやけに鼻についた。わたしは眉を寄せ、相手を見上げる。何か言いたげなその様子を察したのか、わたしが言葉を発する前に相手は口を開いた。

「この身体は使い勝手がいい。そう簡単に手放せない」

 予想通りの答えだった。その線には期待していないからこそ、気長に待つという選択だった。そう口にしようとした矢先、「それに」と付け加えるように言った彼の言葉に再び遮られる。

「次は君の身体がないと、地獄から彼に舞い戻られても面倒だ」

 一等愉快そうな口ぶりで言い放ったソレは、水を吸って重たそうな見た目とは裏腹に、軽やかな足取りでわたしを追い越していった。
 わたしは告げられた言葉の意味に気を取られ、しばらくその場に佇んでいた。しかし、すぐに弾かれたように遠のいていく背を追いかける。見失っては元も子もない。今はあの身体から目を離さないことだけを考えればいい。そう思い直して、歩くたびに水を吐き出す足を懸命に動かした。





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永遠に白線