ガコン、と何かの落ちる音によって、夏油の意識は浮上した。目の前には学生の好みに合わせた炭酸飲料や甘味飲料ばかりが並んだ自動販売機が鎮座していた。
 夏油は、さっきの音は買ったものが出てきた音か、と腑に落ちる。そして、見慣れた高専の風景を見渡し、ここが現実ではないことを悟った。
 既に己は死んでいる。死の直前に見た情景も、感じた痛みも、全て覚えている。確かに五条の手によってこちらに送られたのだ。それなのに、何故夢のような幻の中にいるのか。初め夏油は、死後の世界にあるのが天国や地獄だと誰が決めたのだろうかと思った。死者が語ったわけではないのに、生者がなんの根拠もなく勝手に思い込んでいるだけであって、死後現実に似た日々が続いていても何ら不思議ではない。けれど、夏油がそうではないと気づいたのは、日々の中に些細な違和感が散りばめられていたからだった。
 最初に夏油が身を置いていたのは、離反せず高専に残る選択をした世界だった。そこでは摩耗していく精神に耐えきれず、最後には自決同然に非術師を殺して死んだ。結局彼女に出会うこともなく、ただの走馬灯にしては何かがおかしいと困惑した時、夏油の取り巻く世界は瞬きの間に全く違う世界に様変わりしていた。
 次に夏油がいたのは、現実の通り教祖となり百鬼夜行を行おうとしている世界だった。自分の記憶と違うのは、あんなに自分の傍にいたいと願っていたはずの彼女がいないことだった。また再会できないまま幕を閉じるのかと諦めていた時、彼女が呪術師側に身を置いていることが発覚した。
 彼女と敵対する関係であることに衝撃を覚えた。何か一つでも違えば、現実でもこうなっていたかもしれない。その可能性に愕然とするしかなかった。
 夏油は、これらが全て彼女の願いを無下にした罰なのだと思った。永遠に繰り返すあらゆる可能性の世界。その中を彷徨い続けるのは生き地獄と言ってもよかった。それに加え、どの可能性を経験しても、彼女と幸せになれた未来はどこにもなかった。夏油が唯一気の遠くなるような時間の中で得たものと言えば、己が生きた現実がどれほど恵まれたものだったのかを思い知らされた痛みだけだった。

 握っていた缶から、パタパタと冷えた雫が足元に落ちた。夏油はおもむろにプルタブに指をかけ、味のしない炭酸飲料に口をつけた。
 周りの様子から察するに、この世界は高専時代のものに違いない。夏油は一気に飲み干した空き缶を、見慣れた自動販売機横のゴミ箱に投げ入れる。次は何が起こる世界なのか、憂鬱な思いを抱えながら、校舎へ向かって歩き出そうと振り返った。

「夏油先輩・・

 背後に立ち声をかけたのは、間違いなく彼女だった。呼びかけられた敬称に違和感を抱く。しかし、それがこの世界での関係を分かりやすく示していた。
 彼女の顔つきは見慣れたものより幼く、初めて出会った頃を彷彿とさせた。この世界の彼女は、呪術師として見出された可能性であるのだろう。それは彼女にとって、理想的な世界であることに間違いはない。
 夏油は高専の制服を纏う馴染みのない彼女を凝視する。その様子を特別不思議に思っていない彼女は「みんなが呼んでましたよ」と何事もなく夏油の傍に寄った。それにああともうんともつかぬ曖昧な返事を発した夏油は、ぎこちない足取りで歩き始める。そして、何を血迷ったのか「もう何年も好きな人がいるんだ」と何も知らない彼女へ語り始めた。

「彼女は私が望んだように想いを受け取ってはくれなかったし、私もそれを良しとした。別に、世間の作り出した型にはまりたいわけじゃなかったからね。幸せならそれでよかった」

 夏油は会話を欲していなかった。ただ独り抱えた想いを吐き出したかっただけだった。
 それにこれはただの幻だ。何を言ったところで、誰の迷惑にもならない。それなら独り言くらい言わせてくれ、と夏油は驚いた表情の彼女へお構いなしに言葉を続けた。

「それなのに、置いてきてしまった。私のエゴは彼女の幸せではなかったのに」

 大切な人に生きて欲しいと願うのは、そんなに悪いことなのだろうか。
 自分の想いも彼女の願いも間違ってはいなかったし、正しくもなかった。二つを同時に選べなかったのだから、片方が犠牲になるしかない。それでも、考えずにはいられないのだ。もっと正しい道があったのではないかと。

「──ねぇ、私は一体どうすればよかったんだろう」

 そんなことなど知る由もない彼女は、困惑しながら何と答えるべきか視線を移ろわせている。その仕草に見覚えがあった夏油は、クスリと笑みを零して「なんでもない、忘れてくれ」と言い放った。それを受けた彼女は、腑に落ちない表情に答えを出さなくてもいいという微かな安堵を滲ませた。
 日が傾き始めている。西の空は茜色に染まり、徐々に全体を侵食していく。長い影を伸ばした夏油達は、ヒグラシの鳴き声を聞きながら歩を進めた。
 夏油は物寂しげな夏の夕暮れを象徴するその音の中に、聞き慣れない不気味な音が混ざっていることに気づき、つい足を止めた。

「……何か、聞こえないか」

 ズ、ズ、と何かが這いずるような、もしくは何かを引きずっているような、擦れた音が近づいてくる。
 それを口にすれば、彼女は耳をそばだててから「そうですか? 特に変な音は聞こえませんけど」と首を傾げた。
 そんなはずはないと夏油は音のする鳥居の方向へ、じっと目を凝らした。千本鳥居が連なる長い階段は結界外の麓まで繋がっている。夏油は下から何が上がってくるなど検討もつかず、身構えながら得体の知れない音の正体の到着を待った。

「行きましょう、五条先輩が待ちきれなくなってる頃ですよ」
「じゃあ、もう少し遅くなると伝えておいてくれ」
「でも……」

 彼女にしては珍しく引き下がらないところを見ると、この場に留まらせたくないのだろう。
 そう仮説を立てた夏油は、口籠る彼女へ早く行くよう視線を投げた。その瞬間、規則的に近づいていた音がすぐそこで止まった。

「ああ、こんなところにいたんですね。夏油様」

 よく知った声だった。虚像の彼女とは違う、常に己の傍で発せられていた声。
 燃え上がるような橙色の中、鳥居の下に立った彼女は全身を血で染め上げ、おぼつかない仕草で大きな物体を背負い直した。それが自分の骸であると気づくのに、そう時間はかからなかった。
 彼女は唯一残してきてしまった己の身体を連れて、ここまでやって来た。その執念とも呼べる想いの強さに夏油は感服しながらも、迷惑をかけてしまったことに二度と頭が上がらない思いだった。
 夏油が傍に寄ると、彼女は奥にいる学生服を身につけた自分の姿を一瞥する。この世界がどのような可能性によってできあがったものか察し「なるほど」と零した。
 ここは、彼女にとって一番まともに生きていける人生だった。こんなふうに、彼女自身も夏油と学生時代を共にしてみたかったと思ったこともあった。しかし、夏油が現実で彼女と生きた道が一番幸せだったのだと気づいたように、彼女もまた己が生きた時間に悔いはなかった。

「こんな世界、クソ喰らえですね」

 あのかけがえのない時間を過ごしておきながら、他の可能性に縋ろうとは、今の彼女はこれっぽっちも思えなかった。
 乾いた笑い声を添えて吐き出した彼女の言葉に、周囲の景色が揺れ、全てを巻き込んで消え去っていく。
 夏油は濃い霧に包まれたような真っ白な世界で、静かに声を落とした。

「……苦労をかけたね」
「本当に。最悪な置き土産でしたよ」

 夏油の身体を乗っ取った呪いに向けて皮肉を交え頷いた彼女は、ここまで肌身離さず連れていた夏油の骸を地に置いた。体格差のため、どう頑張っても余る足を地面に引きずることになってしまったせいで膝から下は傷だらけだが、その他は案外綺麗なままだった。彼女は唯一目立つ額の傷に目をやり、苦笑いを浮かべた。

「……私を、恨んでいるかい?」

 彼女に全てを背負わせてしまった。責められても仕方がないと、夏油は彼女の胸中を思い浮かべては苦しげに顔を歪ませた。
 思い詰めた夏油の表情を見た彼女は、眉を下げ柔らかく息を吐くと「いいえ」と頭を振った。

「貴方のいない世界で貴方の形をした呪いと共に過ごした時間は……心を殺すばかりで耐え難いものでしたけど、これは罰だとも使命だとも思ったんです」

 夏油は、彼女が自分と同じようなことを考えていたことに、驚き目を見張った。

「貴方の骸をこの腕で抱くまで死ねないと、必死だったんです。そうやって精一杯、貴方の望み通りに生きるから……だから、せめて向こうで貴方に待っていて欲しいと思ってしまった」

 夏油があの果てしない幻に身を投じることとなったのは、置いていかれることを拒んだ彼女が待っていて欲しいと願ったからだなのだと、全てが腑に落ちた。夏油にとってはどれも悪夢であったけれど、追いつきたいと必死だった彼女を責める気にはならなかった。むしろ、そうであって欲しいと思った。彼女を置いていった罰を与えられるなら、被害者である彼女からでなくては意味がない。

「私は、本当に君に生きて欲しかっただけだったんだ。……すまない」

 夏油は抱えた想いを吐き出すように懺悔する。その様子に彼女は全て悟り切った表情で笑った。

「夏油様は、ずっと優しいですね」
「まさか。酷いことをした自覚はある」
「それでも。神が示したなら、それが私の生きる道です」

 彼女のその言葉に、夏油はやるせない思いでしきりに首を横に振った。未だに彼女にそう思わせてしまっていることが何より悔しかった。

「──もう、いいんだよ。もう生きなくていいんだ」

 夏油は込み上げてくる感情を押し留めるように彼女を抱きしめた。
 煩悶する夏油の声は震えている。それを聞きながら、彼女は漠然とそれもそうかと思った。

「確かに、もう死んでるんですもんね。……それなら、わたしの好きにします」

 彼女の決意表明に、夏油は名残惜しげに彼女を解放した。輪郭を掠めた彼女の柔らかい髪の感触は、頬の上でくすぐったさとなって存在を主張していた。
 彼女は真っ直ぐに彼を見据えて、己の生き様を思い返した。

「……わたし、精一杯生きましたよ」
「うん……私の願いを叶えてくれて、ありがとう」
「一人になって気づいたんです。わたしは生きるために貴方の傍にいたいと思ったわけじゃない。貴方と一緒だから生きたかった」

 互いの両手を重ね、存在を確認するように握り合う。

「例え、もう生きなくてよくても、貴方と全てを共にしたい」

 彼女の言葉に、辺りは水を打ったように静まり返った。

「夏油さん。夏油、傑さん」

 彼女は夏油傑という人間と向き合うために、何度か口に馴染まない呼び方を口にする。
 夏油はようやく個として見てもらえたと、弾かれたように視線を上げ、固唾を呑んだ。

「今度こそ、わたしの幸せのために一緒にいてください」
「……君は、相変わらず頑固だね」
「駄目ですか……?」
「駄目じゃないよ。次こそ君の意志が尊重されるべきだ」

 ここまで来るまでの道のりは長かった。ようやく、ようやくここまで来た。夏油はハハ、と泣き笑いを零した。

「今、初めて死んでよかったと思えたよ」
 死ななければ永遠に互いの想いが交わらないまま過ごしていただろう。だから、これでよかった。

 夏油は「ありがとう」と告げ、そっと顔を寄せた。

「ずっと前から愛してる」
「ふふ、初めて聞きました」
「言ってなかった?」
「言ってないですね」

 彼女の頬に貼り付いた髪を耳にかけながら問う夏油に、彼女は鈴を転がすように笑った。
 互いに額を合わせ、鼻先を掠め、まつ毛を震わせ、目を閉じる。重なった唇に全てを委ね、彼女は唇を解放された後に告げる言葉を思い描いた。
 柔らかくも熱いものが離れていく。その気配を感じながら目を開けば、霞んでいた視界が晴れて行った。
 待ち受けるのは三途の川か、彼岸の先か。そう思考を巡らせた彼女は、何であっても良いと柔らかく息を吐き、初めから決めていた言葉をそっと口にした。

「わたしも愛してます」










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永遠に白線