再び先程の大広間に戻ったわたし達は、だだっ広い空間にポツンと取り残された男性と傍に控える女性へ目を向ける。男性はシワ一つないピカピカのスーツに、質の良いネクタイを締めているが、体型にあっておらず少し窮屈そうに見える。苛立ちを隠そうともせず、膝を揺する様子は、見苦しいと言えなくもない。斜め後ろに静かに座る女性は秘書なのだろうか。指の先まで気を張った両手が、正座をした膝の上に揃えられている。胡座をかき夏油さんの姿を捉えると、辛抱ならない様子でガリガリと薄くなった後頭部を掻く男性とは、あまりにも対照的だった。
「そんな隅ではなくてこっちにおいで」
またしても入り口で立ちすくんでいたわたしに、彼は手招きで呼び寄せる。
「彼には君のために残ってもらったようなものだからね」
「わたしの、ため」
彼の言葉を反芻する。わざわざこの場に残された男性達は、今までわたしが生きてきた中で関わったことのない赤の他人だった。そんな人達がわたしの不幸体質──人間関係の悪化からもたらされる数々の失敗たちの原因を突きとめる術だというのか。
今のところ、彼が何をするつもりなのか、予想すらつかなかった。
おずおずと段差を上り、彼の横へ寄ると隣に座るよう促される。
「君にはどう見える?」
「どう……?」
質問の意味が分からなかった。男性達の何を問うているのだろうか、と言い淀んでいるわたしに、彼は「見たままでいい」と答えに導く。
「えっと、ごく普通の人達にしか……」
「人達=H」
「……はい、男性と女性の二人」
「へぇ、君の目にはそう映るのか」
面白いものを見つけたように瞳の奥に好奇心を据えた彼は、戸惑うわたしの肩を抱く。
「無理に視ようとしなくていい」
耳元で「目を閉じて」と呟くと息が耳朶を撫でる。ヒュ、と心臓が縮む。恐怖ではない。ただ、突如襲った彼の行動に理解が追いつかなかっただけだ。自分の中心で早鐘を打つ心臓に、どうしようかと思考を巡らせていると、大きな手のひらが視界を覆った。
「意識を逸らさないで」
暗闇の中に響く彼の声に、一つ瞬きをする。指の間から僅かに差し込む光が、彼の血潮を透かしていた。
いくら教祖様と崇められていても、彼も血の流れた生きている人間なのだと、ごくごく当たり前のことを思う。自然と落ち着いてきた心音に、わたしは大きく息を吸った。
「そう、そのままゆっくり息を吐いてごらん。ただこの場にある呪い≠ノ意識を向ければいい」
「呪い……?」
理解できない言葉ではないけれど、馴染みのないそれを拾い上げる。
何も見えない。目を閉じてみても、ただ広がる闇の中で彼の言う呪い≠ニいうものを見出そうとするけれど、やはり見つけることはできなかった。彼の手の中で、諦めの意思表示で何度か瞬きを繰り返す。「まだ無理そうかな」という言葉と共に、視界を開放されたわたしは、まだ彼の温もりが残る瞼を再び瞬いた。何度、目を凝らしてみても、先ほどと変わることのない風景に、ほんの少しの落胆が心の中に染みを作る。何より、普段他人から向けられることない期待を裏切ってしまうことが心苦しかった。彼からは見放されたくないと、縋り付く本心を見なかったことにして、いつものように諦観を心に据えた。そうしなければ、期待の分だけ心が砕けてしまうような気がした。
わたしが上手く呪いというものを見つけられなかったせいで、待たされ続けた男性がついに痺れを切らし「いい加減にしろ!」と声を上げた。
つい、肩をびくつかせてしまったわたしは、身をすくませる。
「待てもできないのか。それでは家畜以下だ」
そう言い放った彼は、先ほどと同じく絶対零度の視線で男性を射抜いていた。その威圧に一瞬は怯んだものの、「金は払ってるんだぞ」と口角泡を飛ばし、喚き散らしている。
そんな様子など目にくれず、この場に居ないものとした彼は、講義をするような穏やかで少し畏まった口調で語り始めた。
「今ここにいる私たちは、本質は同じだというのに、それぞれ違った世界を見ている。私に見えているものは、彼には見えていないし、君には
男性の元へ降りていく彼の後に続く。わたしは目の前を凝視した。
「彼の隣にいるのは人ではないんだよ」
その言葉に、ありえないと声を上げそうになりながら、女性の前に立ち、恐る恐る手を伸ばす。
「……でも、ここにちゃんと」
肩に触れた、と思った。間違いなく、女性に、人間に、触れたと思った。
ザラリ、と予想していた感触とは違うものが手のひらに乗る。わたしの信じていた世界が、ガラガラと崩れていく感覚に、唇がわななく。
どうして良いか分からず、わたしは助けを求めるように、彼を見た。
「それは呪霊──人の負の感情から生まれたものだ」
彼の言葉と共に、サラサラと砂へ変わるように目の前から消えていく女性へ、咄嗟に手を伸ばした。既に先ほどの感触すら残っていない。間違いなく、アレは人ではなかったのだと、その事実だけが手の中に残った。
「私には人間ではないものが、人間として見えていた……?」
空を掴み、抱くわたしの様子に、一部始終を見ていた男性が侮蔑を含んだ瞳で「狂ってる」と一言吐き捨てる。どんなに手を尽くしても、今のわたしはその言葉を受け止めきれなかった。
「あの日、雨の中で君を見つけた時、君が話しかけていた迷子の女の子も呪霊だった」
肩に置かれた彼の手に力が入る。それ以上に重たい真実がのし掛かったわたしには、微々たるものだった。
首をもたげて、ゆっくりと彼を見上げた。きっちりと合わさった襟ぐりの上で、彼の喉仏が無防備に上下していた。
「……君をここに連れて来た信者が言うには、君が一人で宙に向かって喋っているのを見かけたそうだ。十中八九、呪霊に話しかけていたんだろう。……きっと今までにも同じようなことが何度もあったはずだ」
「それが、わたしが人に避けられていた理由……」
客観的に考えれば考えるほど、滑稽でしかなかった。雨の中でしゃがみ込んでは、何も無い空虚へ話しかける自分。道端で一人、誰もいない庭へ声をかける自分。側から見れば、異常者に違いなかった。
「……なんだ、そういうことですか。それなら、頭の可笑しい人間だと言われても仕方がない」
寧ろ、これまで精神病院にぶち込まれなかったことを感謝すべきだ。
乾いた笑いを上げながら、わたしを化け物でも見るような目を向ける男性へ賛同する。
「貴方の言う通り、確かに狂ってる。こんな気味が悪いヤツに誰も近寄りたくないですね」
あれだけ答えを欲していたのに、いざ謎が解けてしまえば、虚しいだけだった。
やはり、わたし以外、誰も悪く無い。わたしが追いやられていた状況は、わたしが狂っていたことだけが原因の、自業自得の産物だったんだ。
そう自嘲するしかないわたしの頬が、彼の両手によって包まれる。
「いいや、可笑しいのは猿の方だ。誰もがマジョリティを正義だと思い込み、己の思想から逸脱するものを恐れ、排除しようとする。その短絡的で自己中心的な思考は実に愚かしい」
目と鼻の先にある彼の顔は、いつになく必死だった。何かを繋ぎ止めようとしているようにも見えるその様子に、わたしは口を開くけれど、彼が抱きしめるようにして肩口へ後頭部を押し付けたため、咄嗟に口を閉ざした。
「君は可笑しくない。矯正すべきはこちらの方だ」
視界を塞がれたわたしの背後で、やけに生々しい水音と、断末魔の叫びが混じり合い、次第に小さくなっていく。全てが終わるまで、力強く脈打つ彼の心音に意識を集中させ、背中越しに起こっている恐ろしい行いのことを、できるだけ考えないようにするしかなかった。
どれくらい経っただろうか。シン、と静まり返っても、長いことそのままだった気がする。「彼は潮時だったんだ」とポツリ呟いた彼は、ようやくわたしを腕の中から解放した。
わたしには何が£ェ時だったのか、聞けなかった。ただ無残な死体を背景に、お互いに見つめ合うばかりの無意味でいて、有意義な時の流れを共有する。微睡のような居心地の良さは、永遠に腰を据えたくなってしまう。
こんな時だというのに、わたしは彼の傍に在りたいと思ったあの日の夕立を思い出していた。ザアザアと耳の奥で雨が打ちつけている。幻聴だと理解しているけれど、不思議と嫌ではなかった。
「君は、強者が身を削ってまで弱者と共存する世界なんて、馬鹿げているとは思わないかい?」
静かな問いだと言うのに、彼は肯定しか求めていなかった。彼自身がそう思いたくてたまらないとでも言いたげに、安堵できる答えを欲していた。
それを分かっていながら、わたしは首を縦には振らなかった。
「……わたしには、夏油さんの言う、強者と弱者の良し悪しが、分かりません」
彼は見える者を強者、見えない者を弱者と呼んでいるのだろう。搾取から逃れるために、強者が弱者を殺すことは許されるのか。弱者が束になり、強者を蔑むことは許されるのか。その罪の重さを測れるだけの基準が、欠落してしまったわたしには、答える権利がない。
「何を信じていいのかも分からない。……自分のことでさえも、どうやって信じていいか分からないんです」
わたしが見続けてきた世界は、皆と違っていた。そんな世界では、これまで培ってきた経験や学び、思い出さえも、皆とは違う空虚なハリボテだった。
二十年という月日で構築してきた全てを、一瞬で失ってしまったわたしは、完全に迷子だった。踏み出す足の方向すら定まらず、その場に立ち尽くしてしまえば、誰かに手を引かれなければ歩き出せない幼子へ退行してしまう。
黙り込んだわたしへ「じゃあ」と何かしらの答えを出そうとした彼の言葉を、眼差しで制した。これからどうするべきかだけは、全てを無くしても決めることはできた。
「だから……わたしは、貴方を信じます。……今、わたしがそう思えるのは、貴方しかいないから」
彼は薄い唇を硬く結ぶ。しかし、涼しげな目元には、完全なる動揺が浮かんでいた。
「……その判断の下し方は、少し危険だと、私は思うよ」
「わたしを見つけ出してくれた。……理由は、それだけじゃ駄目ですか?」
追い縋るような懇願だった。盲目的な思考回路がどれほど危険なことかも理解している。けれど、己の価値観を全て失った今、なり振り構っている余裕などなかった。どんなに愚かと言われようとも、愚かであることで、彼の傍に在れるのなら、これ以上の幸せはないと思った。わたしには彼が必要だった。例え、身を滅ぼすことになろうとも、今のわたしにこれ以外の選択はなかった。
夏油さん、と呼びかけたわたしは、揺れた彼の瞳を捉える。その奥へ探りを入れるように、慎重に言葉を紡いだ。
「……わたしは、貴方の信じるものを信じたい。信じることで、見失ったものを取り戻したい。だから、どうか……わたしを導く神に、なってもらえませんか……?」
「神、か」
長い沈黙の後、放たれた呟きは、降伏の意が含まれた、ため息と呼んでも差し支えのないものだった。
「私が君を搾取するつもりでいても、同じことが言えるのかい?」
試すような彼の眼差しに、わたしは彼を教祖様と呼ぶ信者たちを思い浮かべては、しっかりと頷いた。
「はい、それはわたしの預かり知るところではありませんから。神の御心のままに傅くのが信者の役目なんでしょう?」
「私は君にそういったものは求めていなかったんだけどね……まあ、君がそうしたいならそれでいい」
呆れが混じった笑みを浮かべた彼は、ジッとわたしを見つめては、目を細め、大きな手のひらを頭の上へ乗せた。
「君から神と呼ばれるのは、これで二度目だよ」
柔らかく撫でられた髪に、そっと触れる。
以前に彼を神と呼んだことがあっただろうか。
去っていく彼の背中を眺めながら、そう己に問いかける。いくら記憶を辿っても、思い当たらなかった。
──けれど、彼がそう言うのなら、きっとそうなのだろう。
今のわたしには、それだけで充分だった。