「呪詛師……」

 反芻した言葉は、思いの外重たく胸の底の方まで落ちていく。
 この世には呪術を使えない非術師と、非術師を守り世界の秩序を守る呪術師、そして私欲のために呪術を使い非術師を害する呪詛師がいる。そう教えてもらったのはつい最近の話だった。その中で、彼が何に当たるかは教えられなくても容易に察することができた。彼は一度わたしの目の前で人を殺めている。それが世間的にはやってはいけないこと≠ニいう事が分からないほど倫理観は欠如していない。
 彼は誰かにとっては間違いなく悪人なのだろう。しかし、わたしにとっては紛うことなき善人だった。彼は優しい。どうしようもないわたしを数多いる人間の中から見つけ出し、手を差し伸べ、救ってくれた。だからわたしは彼を神に据えたのだ。他人の言う善悪など、当てにならない。全ては自分にとってどうであるのかという目線でしか語れないのだから。わたしにとっては彼が呪詛師であろうとも何も問題はない。そう、わたしに覚悟さえあれば、何も。
 戸惑うというより、わたしはその重みを噛み締めた。進む道は決まっているのだから、後は振り切ることを拒む厄介な倫理観を捨て去るだけだ。

「まあ、何か問題が発生するとしたら、失踪した少年の元へ辿り着けなかった時かな」
「じゃあ、すぐにでもあった方が良さそうですね」
「そうだね。この残穢を辿ると言っても途中で途切れている可能性もある。となれば、これの出番だ」

 彼は徐に宙へ手をかざす。すると、瞬きの間に人が現れた。彼の目の前に立つのは、老いすらも味方につけた美しさを放つ女性だった。

「君には何に見えるかな?」

 やはりわたしの目には偽り実体が映し出されている。間違いなく呪霊なのだとは分かっていたけれど、わたしは見たままの姿を告げた。
 
「……美魔女」

 キョト、と目を丸くした彼は、次の瞬間声を上げて笑い出した。まさかそんな反応をされるとは思っていなかったわたしは、先程の彼と同じように目を丸めた。

「すまない、馬鹿にしたわけじゃないんだ。まさか、君の口からそんな言葉を聞くなんて思わなくてね」

 彼は目尻の涙を拭いながら、申し訳なさそうに肩をすくめた後、チラリと傍の呪霊に視線を向けた。

「分かりやすく言えば、これはよく鼻が利く。そういう術式を持っている呪霊と思ってくれていい。対象を追うのに重宝してるんだ」
「何だか犬みたいですね」

 大してよく考えないまま口にして全く頭の悪い感想に「フフ、そうだね」と彼は同意と共に笑みを零した。気を使わせてしまったと萎縮するも、背中に添えられた手に彼を見上げあ。

「それじゃあ、行こうか」
「はい」

 屋敷の外へ出たわたし達は、残穢を追うのを呪霊に任せタクシーに乗り込む。使役する呪霊の居場所は把握できるらしい。そうして、彼の指示のもと辿り着いたのは渋谷駅にほど近い工事現場だった。

「都市開発の途中か。どうやらこの一画だけ作業がしばらく止まっているようだね」

 白い防音パネルに囲まれているその場所で、彼は工事中断のお知らせ≠ニ書かれたホワイトボードを眺めながら呟いた。
 相次ぐ機器の破損、作業員の怪我が原因らしいが、問題なのは何故それが起きたのかだ。何も知らない頃なら、ただ不気味だなと思うだけで済ませたかもしれない。しかし、呪いというものが実際に力となって日常のすぐ隣に蔓延っている事を知ってしまった以上、それらとは完全に無関係と言えなくなってしまっていた。現に残穢を追ってここまで辿り着いたのだ。関係がないということはないだろう。
 何となく、呪術など知らずに生きていた少し前のわたしと同じような人々は、日常の中で知らず知らずのうちに今回の件と似たような事象に触れているのかもしれない、と思った。
 非術師──猿と呼ばれる彼らは、垂れ流す負の感情によって呪霊を生み出すとともに、その呪霊によって日常を脅かされている。それを知った今では、そのメカニズムを自業自得とも捉えることができた。けれど、わたしも少し前までは完全に非術師側だったのだ。たまたま術師としての適正があっただけで、何も知らないままであれば、非術師と何ら変わりはない。無知である事に気づかないのは愚かだ。そう考える人は多いだろう。わたしもどちかと言えばそちら側だった。しかし、気づくにも何かきっかけでもないと気づけないのだ。
 だからと言って、非術師に真相を明かし気づきを与えるというのも良いとは思えなかった。それは、この長い歴史の中でずっと民衆から隠されていたのかを考えれば簡単なことだった。気づくことで全ての人が幸せになれるのかはまた別の問題なのだ。
 わたし達は安全第一≠フ文字を横目に、工事現場の中へ足を踏み入れた。ショベルカーが地面に突っ込んだまま放置されている傍を通り過ぎて、破壊されたビルの瓦礫の中を歩く。

「……何か居ます?」
「ああ。居るね、確実に」

 かろうじて一階のみが残った建物に近づいた彼は確信に満ちた表情で「ここだ」と口にした。
 建物内は意外にも明るい。天井が壊されているせいで、頭上には空が広がっていた。傾き始めた日の光が長く影を作っている。その中をしばらくウロウロとした後、部屋の奥に階段を見つけた。どうやら地下に繋がっているらしい。

「工事が止まった原因か」

 息が詰まるような闇が誘い込むように蠢いていた。緊張が張り詰めた声音で「この下に何かがあるね」と言った彼はゆっくりと階段を降っていく。

「足元に気をつけて」
「はい」

 日の光が届かなくなると予想以上に暗くなる。スマホのライトで足元を照らしながら一段一段しっかりと確認して降りていく。しかし、螺旋状の階段はどこまで続いているかさえ分からなかった。

「何だか、様子がおかしい……ですよね」
「…………」

 自信なくそう問いかけるも、彼は押し黙ったまま神経を尖らせている。
 そっと柵の下を覗き込めば底なし沼のような暗闇が広がっているだけ。本当は底すらなく、永遠に螺旋階段が続いているだけなのかもしれない。迷宮に迷い込んでしまったのではないかと、腹の底がキュッと締め付けられる。

「──何か、感じるかい?」
 
 四方に反響し、闇の中に吸い込まれた彼の声に、わたしは首を傾げた。
 
「何となく嫌な感じはしますけど、まだはっきりとは感じ取れなくて……」
「いや、そうじゃない、そうじゃなくて──」

 彼は戸惑いと共に言い淀んだ。普段と比べて焦りが伴う様子に、すぐに違和感を覚える。どうしたのか、と問おうとしたその時、彼は進行方向を180度変えた。

「一度戻る」
「え?」

 わたしの手を引き、ひたすら降ってきた階段を駆け上がる勢いで上っていく。
 何故急にそう判断したのだろうか。そう問いかけることもできず、手を引かれるまま建物を出た。薄暗くなり始めた工事現場の外まで出るとちょうどやって来たタクシーを停めた。

「これで自宅まで帰れるね」
「え、あの、夏油様」

 何の説明もないままわたしはタクシーに押し込まれ、財布から取り出された万札を握らされる。

「付き合わせて悪かったね。ここからは私一人で問題ない」

 そうはっきりと言われてしまえば頷く以外の選択肢などなかった。
 足手纏いだったのだろうか。寧ろそれ以外考えられない。

「……分かりました」

 彼は絞り出したわたしの言葉に小さく頷くと、運転手へ「出してくれ」とだけ告げ、扉を閉めた。
 動き出すタクシーの中で、再びあの場所へと戻っていく彼の背中を見つめる。彼は何を考え、何を思っているのだろうか。その答えなど見つかるわけもない。せめて怪我一つなく、無事に戻って来れるよう願いながら、次第に見えなくなっていく彼の姿を見つめた。





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永遠に白線