そのまま野薔薇の家を後にしたお嬢は、恵の臓器を買い戻すにはどうすればいいかで頭を悩ませていた。完全に野薔薇のたとえに気を取られすぎている。故に、甚爾へ連絡を入れることなどすっかり頭の中から抜け落ちていた。思い出した時にはもう駅に着いてしまった。
甚爾も駅周辺で時間を潰しているはずなのだから、そう大きな問題ではない、とお嬢はスマホを取り出しつつ辺りをキョロキョロと見回した。
バスがかわるがわるロータリーに入っては停まりを繰り返している。街路樹が点々と立ち並ぶ傍に、大衆の目から隠すように喫煙所が設置されていた。
何となく傍に寄ったお嬢は、見事に見知った顔を見つける。駆け寄りながら名前を呼ぶと、相手は驚いた顔で吸っていた煙草をポロリと落としかけた。
「お前、終わったら迎えに行くから連絡しろって……」
「ごめんね、忘れてた」
悪びれず笑ったお嬢は甚爾の隣に佇んでいた人物に向き直る。糊の利いたスーツを纏い、甚爾と同じく煙草片手にバツの悪そうな顔をしている男性。見られたくはない状況だったことを察するも、自らが引く理由は持ち合わせていない。彼女は遠慮なくスーツの男性に向かって声をかけた。
「こんにちは。トウジのお友達?」
「お友達……でないのは確かだな」
煮え切らない答えを返した男性は孔時雨と名乗った。甚爾がすかさず「昔からの腐れ縁だ」と言うので、お嬢はへ〜と間延びした声を上げながら首を傾げた。
「トウジと繋がってるなら灰原たちの探りは入ってるのかな?」
「……奴らが監視してること、知ってたのか」
「うん。でも灰原たちの情報が時雨さんまで行き着いてるかは知らないよ。今日会うことも事前に決めてたわけじゃないでしょ?」
お嬢が今日ここに来ることは悠仁でさえも知らないことだった。彼女に同行せず、別行動で時間を潰すと言った時点でおかしいとは勘づいていたが、監視の目から逃れたタイミングで人に会うなんて、怪しすぎて疑ってくださいと自ら主張しているようなものだろう。
甚爾はお嬢を完全に侮っていた。周囲の人間から溺愛されて育てられた生粋の箱入り娘。行動はマイペースだし、世間の常識からはずれているし、頭の中には見事なお花畑が広がっている。しかし、心に空いた穴を埋める前にそのまま丸ごと包み込んでしまうような温もりと、歳に似合わぬほど広く大きな愛を宿している。そして、育った環境からかこの手のことには妙に鋭いということを失念していた。
「あの家で連絡してたらバレてるだろうけど、そうじゃないならまだ大丈夫なんじゃないかな? それに私から言うつもりはないし」
完全にペースを乱された甚爾は、あ〜と声を上げ、後頭部をガリガリと掻いた。最早「そうかよ」と力なく言うしかない。
「帰るぞ」
「もういいの? あっちで待ってるよ」
「いい、いい。やる気削がれた」
そんなに聞かれたくない話をしていたのか、と解釈したお嬢は、孔に手を振って先を行く甚爾の背中を追った。
「ねぇ」
「なんだよ」
「臓器って、買うのにカード使えると思う?」
「ハ?」
突然何を言い出すかと思えば臓器? と頭の中がハテナに侵略された甚爾などお構いなしにお嬢は続ける。
「現金払いだったら用意するの面倒だな〜」
「お前何の話してきたんだよ」
「そこまでは教えないよ。甚爾だって時雨さんとの会話の内容、私に教えたくないでしょ?」
そう言われたら何も言い返せない。甚爾は肯定も否定もしなかった。体よく黙秘したつもりでいたが、沈黙は肯定にも取れる。お嬢は後者で受け取った。
「だから、私に臓器を買う予定があるかもしれないこと、みんなには内緒にしててね」
「……分かった」
「よかった。これでおあいこだね」
秘密を握り合っていることが、互いに他言させない抑止力になる。それがなくとも信用には値するが、敢えて対等を示すお嬢に、甚爾は完敗だと白旗を掲げるしかなかった。
◇◇◇
お嬢は過保護な大人たちの「五時の鐘が鳴る前には帰り着くようにね」という言いつけ通りに帰宅し、行き先を問われることなく事なきを得た。ただ、悠仁にだけは状況を報告すべく、夕飯時に忙しそうに働く彼の元へ向かった。
台所で米を研ぐ悠仁に、お嬢は火にかけたばかりのやかんの番を任された。体のいい戦力外通告である。それに気づかない彼女は、真剣にコンロの火に目を凝らしながら、野薔薇と話したことを一から話していく。
「そっか……釘崎も詳しいことは知らないのか」
「うん。だから一度悠仁くんたち三人で生活してたっていう場所に行ってみる」
「あーあの廃ビルね」
炊飯器のスイッチを押した悠仁の手元で、機械音が彼の言葉を肯定するようにピーと鳴った。
「どこら辺にあるか場所を教えて欲しいの」
「オッケー、地図見して」
お嬢はスマホでアプリを起動する。画面に表示された地図を、お嬢と悠仁は顔を突き合わせながら覗き込んだ。そうして大体の場所を割り出した頃、二人の間にぬっと大きな影が割り込む。
夏油だ。悠仁が慌てて画面をホームへ戻すけれど、不自然に映ったに違いない。お嬢は後から履歴を消そうと心に決め、穏やかな笑顔を貼り付けた夏油を見上げた。しかし、二人に問いかけたのは夏油ではなく、お嬢が逃げられないよう背後に回り込んだ五条だった。
「な〜に二人でこそこそしてるわけ?」
「こそこそなんてしてないよ」
「へぇ〜? でも問題はそれだけじゃない」
「距離が近いんだよ! 距離が! 毎度毎度相手を懐柔するのはやめようなぁ⁉︎」
懐柔と言っても、悠仁も人懐っこい性格ではあるので、お嬢が何かしたと言うわけではなく普通に接していただけなのだが。
お嬢は五条の発言を訂正しようとするが、ふと足元が浮いたので口を噤んだ。
「お嬢、ひっつくなら私にしようね」
「ハ? 俺だろ!」
夏油の腕の中でお嬢の取り合いが始まる。抜け駆けは許さないと必死な彼らは、自分の頭の上でポコ、という間抜けな音とともに軽い衝撃を受け、動きを止めた。
「そいつが距離感近いの、どう考えてもお前らのせいだろ」
チラシの束を丸め、五条と夏油から一本ずつ取った甚爾は、何事もなくお嬢を掻っ攫う。
今まで彼が仲裁に入ることなどほとんどなかったため、お嬢は驚いた。その視線に気づいた甚爾は「借りがあるからな」と目を逸らす。それが照れ隠しだと見抜いた彼女は、嬉しくなって甚爾に抱き付き、新たな火種を撒くのだった。