侵食された外壁は日に焼け、排気ガスにくすみ、雨風によってひび割れている。お嬢はその線に指先を這わせるようにして、周囲を気にしながら壁伝いに歩く。直射日光こそないものの、雑居ビルの間にも夏を惜しむようなむせかえる熱を纏った風が吹き抜ける。コンクリートの塊に挟まれているだけあって、湿度が抜け落ちた乾いた風だった。
 ビルの裏手まで回り込んだ彼女は、隣接した建物の室外機の音に耳をそば立てながらもう一度辺りを見回した。誰にも見られていないことを確かめると、一面半透明のビニールと養生テープで保護してあるガラス戸に近づいた。そして内側からかかっている簡易的なロックを、欠けたドアの間からそっと手を入れ解除する。
 よかった。悠仁くんの言う通りだ。彼女はそう安堵し、ドアを押し開けた。

 中は予想していたより荒れてはいなかった。欠点は窓が塞がっているせいで自然光が入ってこないことくらいだった。薄暗い室内をスマホのライトで照らし出す。影が白い壁に伸びるのを横目に、悠仁たちが生活していた痕跡がないか目を凝らした。
 廊下の先にあった一番大きな部屋に毛布が積まれていたり、廃材で作られた簡易的な机や椅子が置いてあったり、無機質な空間にアンバランスな生活感が垣間見えた。別の場所からかき集めてきたのだろうか。そんなことを考えながら彼女は恵が何かを残していないかを探すのだった。

 一階をあらかた探し終えて再び廊下に出る。特にこれといった手がかりを見つけることはできなかった彼女は、上の階まで見てから戻ろうと突き当たりの階段まで歩を進めた。足元ばかり照らしていたライトを前方へ向ける。すると、何かによって道が閉ざされていた。
 彼女は壁かと思った。しかし、当然ながらそうではない。目の前に立ちはだかっていたのは、体格の良い大男だった。

「誰の許可を得て、ここへ立ち入った」

 彼女は威圧的な風体の男の顔に釘付けになった。目の下から顎の先へ輪郭に沿う入れ墨。特徴的な模様が相まってか、独特な雰囲気を醸し出している。
 あ、この人もしかして。そう思った瞬間、こちらへ手が伸びてくる。大きな手のひらでライトの光を塞がれ、辺りは闇に包まれた。



   ◇◇◇



「美味いか」

 そう問いかけられたお嬢は、柔らかな牛フィレ肉が口の中でほどけていく感覚を楽しみながらにこやかに頷いた。男は「そうか」とだけ呟いて、彼女と同じように食事を口に運んでいく。
 不法侵入をしたお嬢と、それを咎める立場であるはずの男が、高級ホテルでディナーを楽しんでいる。何がどうしてこうなった。そうツッコミを入れてくれる人間は、この場には一人もいない。

「あ、夕飯いらないって悠仁くんに伝えるの忘れてた」
「小僧は飯炊きか」
「何もしなくていいとは言ったんだけど、暇だからってやってくれてるの。それに悠仁くんが作ってくれるご飯おいしいから。宿儺さんは食べたことある?」
「あると思うか? 小僧の作った飯を食らうくらいならどこぞのチェーン店で済ませた方がマシだ」

 フンと鼻を鳴らして一蹴した男、宿儺は「そうなの?」とただ目を丸くするお嬢を見た。そして機嫌を良くするでも悪くするでもなく、黙々と手元の肉を切り分ける。
 お嬢があの廃ビルで宿儺と鉢合わせたのは、偶然というわけではない。宿儺の素性は、日本のトップに君臨する有名ホテルグループの経営者、いわばホテル王である。なぜそんな大富豪である彼があんな寂れた場所にいたか。それはあの建物がある一角が宿儺の所有する土地だからである。新たな宿を建てるために買ったものの、何の因果か家を飛び出した悠仁が友人達と身を寄せ始めたのだ。それがようやく立ち退いたと聞き様子を見にやってきたら、こそこそとビルの周りをうろつく怪しい小娘がいるではないか。
 問答無用で摘み出してやろうと後をつけた宿儺と見事に鉢合わせた結果、お嬢の口から悠仁を預かっていること、そして恵の行方を探していることが語られた。事情を知った上で何かを閃いた宿儺は、彼女を咎めることなく、こうして腰を据えて話をするため食事にやってきたというわけだ。

「宿儺さんはどうして悠仁くんを引き取ることになったの?」
「アレの生みの親との約束縛りがあったからだ」

 ウザ、と零した宿儺はグラスに残っていた赤ワインを一気にあおった。

「悠仁くんのお父さん? お母さん? は宿儺さんのこと信用してたんだね」
「信用? そんな綺麗事で成り立つ関係ではない。ただ単に利害が一致したに過ぎん」

 宿儺が言うには、悠仁は西を統べる御三家の一つ加茂会の遠縁で、分家である九相図一家と片親が同じであるらしい。
 九相図一家は長男・脹相をはじめとする九人の兄弟を中心に構成されている。兄弟の絆を大切にしてるが故に、新たに見つかった兄弟に舞い上がり、ついはしゃいでしまったのだ。
 しかし何も知らない悠仁はなんかヤバそうな人が追っかけてくるこわい≠ニしか思わなかった。当たり前である。明らかにカタギではない人間に追われたら誰だって逃げるだろう。それに悠仁としては、関わりたくない人間ランキング・ナンバー1の座を華麗に掻っ攫っていった宿儺という男が何か関わっているのでは、と予測を立てていたのだ。そう考えれば彼がお嬢の屋敷で大人しく匿われている理由も頷ける。

「じゃあ、悠仁くんが追われてたのは、その分家のお兄さんたちに歓迎されてたからなんだ」
「ああ、兄弟愛が人一倍強い連中だ。大方、半分血の繋がった弟がいることが分かって暴走したんだろう。まったく暑苦しいことこの上ない」

 宿儺は加茂会にも悠仁にも関わるのが面倒だった。何より全ての元凶と言っても過言ではない、悠仁の生みの親である羂索とは今すぐにでもその腐った縁を切りたいくらいだった。
 そこで宿儺は思い立ったのだ。いかに加茂に関わらず、悠仁を手放せるかを。

「すでに馴染んでいるならなおさら良い。そのまま小僧を住まわせろ。金なら出す」

 親権は仕方がないにしても、その他の衣食住全てを小娘に押し付けてしまえば全て丸く収まる。宿儺は「悠仁くんがいいなら」と言うお嬢に、密かにしたり顔を浮かべていた。

「もし、小僧を居候として置くというなら、お前の知りたがっていた伏黒恵≠フことを教えてやろう」
「え! 知ってるの?」
「ああ、もちろんだ」

 手がかりなどないと思っていたのに、まさか宿儺が知っているなんて思ってもみなかった。
 驚きのあまり呆然とするお嬢。宿儺は意地悪く笑みを作り、試すように問いかけた。

「知りたいか?」
「知りたい!」
「では、小僧を引き取れ。以上だ」

 単純明快な回答。宿儺は口角を吊り上げたまま、上品にフォークとナイフを扱った後、ちらりとお嬢を見る。

「料理が冷めるぞ」

 どうするべきかうんうん唸り、頭を悩ませている彼女に声をかけた。
 面倒ごとを押し付ける気満々ではあるものの、宿儺は意外にも彼女のことを気に入っていた。ホテル王として日本、そして世界に君臨する彼を前に媚びへつらう人間は多い。彼女は臆する素振りすら見せなかった。何より、どこに出してもおかしくないくらいテーブルマナーがしっかりしていたのだ。
 彼女の醸し出す幼い雰囲気とのギャップがより印象を良くしていたのかもしれない。マナーに関しては、子供の頃からお高い店で食事する機会があったせいか、自然に身についていることだった。さすがはお嬢と言わざるを得ない。
 育った環境とはそれほどまでに影響力があるのだ。良くも悪くも当たり前になっているせいで自分では気付かない。そう、五条や夏油から向けられる愛が異常だということ知らぬまま受け入れているように。






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永遠に白線