──お嬢を野放しにすると碌なことが起きない。
 そう言ったのは、若頭とはいえど常識的な大人の範疇から外れていることで定評のある五条だった。そのため「野放しだなんて犬か何かですか」とツッコんだ七海以外、さほど気に留める様子もなく流した言葉だった。
 彼女が本邸に戻ったタイミングで近くにいないからGPSをつけた≠ニいう言い訳も出来なくなったため、五条と夏油は位置情報を把握するために細工した仕掛けをしぶしぶ取り外すこととなった。
 常識のある大人たちのおかげでようやく人権を取り戻したものの、彼女が一人で行動するということは、まさしく言葉通りの野放し≠ノなるのである。五条と夏油の周囲の人間による評価がヤバいせいで霞んでいるが、お嬢もまた彼らと違ったベクトルでヤバいのである。


 お昼と呼ぶか、夕方と呼ぶか、一瞬頭を悩ませる時間帯。お嬢は講義を終え帰路についていた。
 彼女は友人たちがバイトだと言い残して颯爽と校舎を出て行った様子を思い返しながら、私もバイトやりたいなぁと、道すがらぼんやりと思い浮かべる。しかし、先日のお家騒動が頭をよぎり、どうせ五条と夏油が反対するだろうと諦めを乗せて息を吐いた。
 その瞬間、背後からの衝撃によりアスファルトに突っ伏した。

「ごめん! 大丈夫⁉︎」

 彼女にぶつかった少年が慌てた様子で尋ねる。

「足、くじいた……」
「ごめん、ちょっとだけ我慢して」

 やたら背後を気にする少年は、余裕のない表情で彼女を抱き上げる。そしてすぐさま駆け出した。
 彼女は「すごーい足速いねぇ」と呑気に笑いながら少年の背後に目を向けると、一人の男性がもの凄い形相で追いかけてくる。髪を頭の高い位置でサイドにまとめた特徴的な髪型。鼻の頭に一本線。おまけに大声で「悠仁ー‼︎」と叫んでいる。

「悠仁くんっていうの?」
「うん、虎杖悠仁! よろしくとか言ってる場合じゃないけどひとまずよろしく!」
「あの人誰? 何で追われてるの?」
「それは俺も聞きたい」

 全力疾走で街中を駆け抜ける彼の肩に掴まりながら、お嬢は小さな頭に詰まった脳をフル回転させる。しばらくう〜んと唸っていたが、何かをひらめき顔を輝かせた。

「じゃあ、私が匿ってあげる!」






「ナニ、ココ……でっか」

 裏口の扉をそっと閉めたお嬢は、屋敷を見渡す悠仁に「私の家だよ」と答える。

「え、もしかしてお嬢様とかだったりする?」
「様ではないけどお嬢って呼ばれてる」
「マジ……?」

 カコン。呆然とする悠仁の脳内に、ししおどしの首をもたげた音が響く。小さいながらも立派な池の中には錦鯉が悠々と泳ぎ、澱みのない水を囲う岩は青々とした苔が覆っているものの、それすらも趣深い。これが風流≠ニいうものなのだろうか。侘び寂びの心などまだまだ理解し得なかったけれど、彼の中で日本人としての感性が膝を打った。

「てか、足! 大丈夫?」

 思い出したように声を上げた悠仁は、お嬢の足首へ目を向けた。片足に体重をかけた歩き方をしている彼女に肩を貸す。
 彼女は靴の踵に指をかけ、するりと素足を露わにすると、赤く腫れ上がった足首が外気に晒された。

「腫れてんね……ほんとごめん」
「ううん、大丈夫。頑張れば歩けるよ」
「いやでも何かあったらいけないし、一回ちゃんと病院で診てもらった方がいいかも」
「そうかな? じゃあ、かかりつけのお医者さんのとこに行ってみる」

 靴を履き直す彼女は「すぐそこだから」と一人で歩き出そうと、痛みのない右足を力を入れた。

「いや、着いてくよ。怪我させたの俺だし」
「悠仁くんはここに居ていいよ。外に出たらさっきの人に見つかるかもしれないもん」
「た、たしかに……」

 わざわざ匿ってくれた彼女の優しさを無駄にすることになってしまう。そう納得した悠仁は「分かった」と素直に頷いた。

「多分家の中に人いるから呼びにいくね」

 おぼつかない足取りの彼女を支えつつ、裏庭から正面玄関へ回り込もうと歩き出すと、一人壁に寄りかかり手元の端末をいじる灰原の姿があった。

「あ! いいところに居た!」

 灰原へ悠仁と出会った経緯を話したお嬢。屋敷に一人、悠仁を置き去りにすれば、誰かが無理やりにでも追い出してしまうかもしれない。それを阻止するため、灰原に悠仁を預けようと試みる。
 灰原は驚いた表情でお嬢と悠仁の顔を交互に見つめるけれど、最終的には彼女の願いを快く受け入れた。

「じゃあちょっと硝子ちゃんのところに行ってくるから、悠仁くんのことよろしくね」
「お嬢、怪我の具合は?」
「ただの捻挫だから大丈夫だよ」

 お嬢はそう言うけれど、灰原は煮え切らない声を上げる。大丈夫か大丈夫じゃないか以前に、お嬢が怪我をした≠ニいう事実だけで、天地がひっくり返ったかの如く慌てふためき卒倒する人間が、確実に二人は存在するのだ。
 これ以上何かあるとマズいと思った灰原は「ちょっと待って」と彼女を制した。

「誰かに車出させるよ。七海いたかな……」
「七海はやだ。すぐ怒るもん」
「そんな、七海もお嬢のこと心配してるんだよ?」
「それは分かってるけど。灰原の方が優しいのは本当のことだもん」

 子供っぽく唇を突き出すお嬢は「車はいいよ。トウジに連れて行ってもらうから」と変わらぬ調子で言い継いだ。

「灰原がいるってことはそこら辺にトウジもいるでしょ」

 彼女は灰原が寄りかかっていた壁の向こう側、入り組んだ屋敷の構造によって死角となったその場所から顔を覗かせる。すると彼女が思った通り、縁側に座る甚爾の姿が目視できた。鉛筆を片手に難しい顔で紙面を見つめる彼に、どうせまた競馬新聞でも読んでいるのだろうと思いながらも「やっぱり」と零す。
 見事に言い当てたお嬢に対し、灰原は緊張した面持ちで尋ねた。

「……なんでそう思ったの?」
「トウジのこと監視するために後つけてるのくらい知ってるよ。最近七海と別行動多いし、よく家の中にいるようになった」

 まさかお嬢にバレているなんて。その言葉を呑み込んで、灰原は感嘆にも似た静かな称賛を送った。

「……お嬢、すごいね」
「褒めてる?」
「褒めてる褒めてる」

 本音だと何度か頷けば、お嬢は無邪気に喜んだ。
 普段の幼さが拭えない様子から完全に油断していた。いつまで経っても子供のままだと無意識に思っていたけれどそれは間違いだ。鋭い観察眼に、監視自体には何も気を止めない器の大きさ。流石は会長の孫だと、その血を感じざるを得ない。
 灰原は両手を上げ降参を示すように、深いため息を吐いた。

「まぁ彼への牽制になればいいから。バレててもいいんだけどね」

 何か下手な真似をすれば即座に潰す。組織全体の総意が無言の圧になる。事前の調査ですぐには尻尾を掴めなかったのなら、後からゆっくり炙り出せばいい。彼らの持ち得る慈悲と言えば、山に埋めるか海に沈めるか、どちらがいいか甚爾自身に選ばせることだけだ。
 歳の割には若く見えると言われる灰原はニコッと、とてもヤクザとは思えないお手本のような笑顔を作った。その笑顔の下に蠢くものを知ってか知らずか、お嬢もまたニコッと笑い縁側に腰掛ける甚爾を大声で呼び寄せた。

「おんぶ」
「へいへい」

 慣れた様子で屈んだ甚爾。その大きな背中に飛びついたお嬢は、休日に乗馬を嗜むどこかの貴族の如く、優雅にその背の上から手を振った。

「悠仁くんゆっくりしていってね〜」
「えっあ、うん」

 わけも分からず一部始終を見守るしかなかった悠仁は、甚爾と呼ばれた筋骨隆々とした大男が、小柄な少女によって馬のように足として使われる様子に、ますますわけが分からずどもってしまう。
 灰原の横でなんとか手を振り返した悠仁に背を向け、甚爾は歩き出す。

「怪我したんなら車でいいだろ」
「え〜? いいよ、すぐ近くだし。トウジのお散歩ついでにちょうどいい距離でしょ」
「散歩、散歩ねぇ」

 何度か反芻する甚爾は、自分の首に着いた見えない首輪とリードを思い浮かべた。あえて彼女に手綱を握らせていることを仕事仲間が知ったら何と思うだろうか。構成員の監視の目から逃れるため、しばらく連絡を取っていない面々の反応は、考えるまでもなく確実に似合わないと腹を抱えて笑われるだろう。
 想像だけで腹立たしくなった甚爾は、脳内から仕事仲間を追い出して、町医者と呼ぶに相応しいこじんまりとした建物の戸を押し開けた。






目次


永遠に白線