「捻挫だね。数日安静にすれば自然に治る」
「よかった〜ありがとう硝子ちゃん」
「手は消毒しておくか」

 硝子ちゃん、と呼ばれた彼女はアンニュイな雰囲気を纏いながら、ふと笑みを零す。
 薨星会の専属医として重宝されている家入は、五条や夏油の昔馴染みと言うこともあり、お嬢が幼い頃から近所のお姉さんとして可愛がってきた。医者としての腕前はピカイチ、おまけに表沙汰にはできない傷も内密に処置してくれるよう内々に話が付いていたため構成員たちのかかりつけ医として一目置かれていた。
 家入は脱脂綿に消毒液を染み込ませ、お嬢の手のひらについた浅い傷口を優しく撫でた。

「染みる?」
「……ジリジリする」
「耐えられて偉いな」

 小石が入り込んでいたらいけない、と念入りに消毒した家入は大きな絆創膏を両手に貼り付けて、頑張ったご褒美にと普段から子供用に常備している棒付きキャンディを一本差し出した。お嬢が喜んでそれを口に含ませている間に、メモ帳にさらさらと文字を羅列しピッと紙を切り離し彼女へ手渡す。

「クズどもはどうせ大騒ぎするだろうからこれを渡しとけばなんとかなるだろ」

 足首のテーピングの方法を示したそれを一読したお嬢は「ありがとう!」とポケットの中へ仕舞う。それを見た家入は「そのまま洗濯機行きだけは気をつけな」とお嬢に言うも、心許なかったのか保護者としての期待を込めて甚爾を見た。

「それにしてもよくぶつかるな」
「よく?」
「そっちの悪人面と出会ったのもぶつかったのがきっかけなんだろ?」

 思い出したように言った家入に、彼女もまた今まで思い至らなかったと言いたげに頷いた。

「言われてみればそうかも」
「あの時は、ただ肩が当たっただけだろ」

 別に今回のように怪我をさせたわけじゃない、と甚爾は口の中で言い訳でもするように呟いた。
 寧ろ怪我をしていたのは甚爾の方だった。珍しく仕事でヘマをした彼は腹部を血で濡らしていた。任務遂行には何の問題もないと、自身の傷など気にもとめなかった。普通の人間より怪我の治りが早いことには自他ともに定評があったせいか尚更いつものことだ、どうにかなると投げやりになっていた。おまけに着ていた服が全身黒だったおかげで、すれ違う人々が彼の傷に気づくわけもなかった。
 しかし、目視で気づかなくともぶつかった相手の服にべっとり染み付いた血に、彼が尋常ではない状況であることは明白だった。
 目の前に佇む小柄な少女は、春先にでも軽く羽織れるような薄手の真っ白なコートを纏っていたせいか、肩から胸にかけて真っ赤に染まった色彩の対比が目に痛い。己の状態が白日のもとに晒された気分の甚爾は、改めてこんなに血を流していたのかとぼんやりと少女を見つめていた。
 悲鳴の一つでも上げるかと思いきや、彼女は血に汚れた羽織りを脱ぎ、適当に折り畳んでは腹部の止血のため傷へ当てるよう促す。

「撃たれたの? それとも刺された?」
「……は? ……あぁ、刺し傷だ」

 まさか咄嗟にそんなことを聞かれるとは思わなかったと、呆気に取られながらもそう答える。彼女は「そっか」と平然と頷いてからちょうど通りかかったタクシーを呼び止めた。
 そうして運転手に迷うことなく住所を告げ、連れてこられたのがこの病院だった。家入に傷を処置してもらい、成り行きで彼女の世話になることになったのが最早懐かしくも思える。
 今思えば彼女は日常的にヤクザたちの物騒な傷を見ていたからあの状況でも驚かなかったのだろう。やたら手触りの良い彼女のコートの感触を思い出しながら、甚爾は歩み寄ってくる家入に顔を上げた。

「傷の具合はどうだ?」
「とっくに治ってる」
「常人なら全治三ヶ月の傷だぞ」
「昔から身体だけは丈夫なんでね」

 それだけが取り柄とも言えた。おかげで除籍扱いで実家を捨てた後も大金を稼げている。その点については感謝するべきか。
 捻くれた思考を打ち消して、甚爾は再びお嬢を背負い帰路につく。

「ね、甚爾の家族ってどんな?」
「今それ聞くか?」
「だって、ずっと気になってたから」

 唐突に尋ねてきた彼女に、甚爾は何と言葉にして良いか分からぬまま、まごついた口調で答えた。

「……息子が、一人いる」
「いくつ?」
「ジュウ……ゴ?」
「名前は?」
「恵」

 今じゃどうしてるのかさえも分からない息子の名前を口にした。歳は即答できなかったくせに、名前だけは時を感じさせることなく口に馴染んだ。

「トウジがつけたの? すっごくいい名前」

 薄く笑った彼女の声音に、当たり障りのない相槌を打つ。

「奥さんは?」
「死んだ」

 子供は置いてきた、と言う彼は責められたいように見えた。自分の元に置くよりマシだと思ったからこその行動だったけれど、それが正しいか間違っているかは、それぞれの主観によっては全く違うものとして映るだろう。

「生きることに一生懸命だったんだね」

 お嬢は目の前にある、甚爾の後頭部を撫でた。彼女にとっては正しさなど関係がなかった。情を分けた相手が選んだ道ならば否定する理由などない。ただその選択を認めることが大事だった。
 救われたなどと安い言葉では言い表せない。それはまるでぬるいコーヒーに放り込まれた角砂糖が、音もなく溶け出すような感覚。緩やかに融解する何かが甚爾の胸を満たしていく。その正体に気づけないほど鈍感ではないけれど、敢えて明確にしないままの方が気が楽だった。
 甚爾はお嬢を背負い直した。足取りが軽くなる。背に乗った重みは頼りなく思えたものの、その分存在の大きさを感じるのだった。


 屋敷へ戻ったお嬢たちを待ち構えていたのは言わずもがな、彼女が怪我をしたと聞きつけた五条と夏油だった。

「お嬢、また人間を拾ったんだってね」
「ペットは一匹で十分だよなぁ?」

 ジロリ、嫌味を込めた視線が甚爾へ向けられる。しかし当の本人には刺さらず右から左へ流れただけだった。

「違うよ、悠仁くんは匿っただけ。ただの人助けだよ」

 あくまで拾ったわけではないと主張する彼女は「人助けはいいことでしょ?」と当たり前のことを問う。

「まあ、それはそうだけど……」
「それならもう帰らせろよ。ホイホイ部外者を立ち入らせるわけにはいかないわけ。分かるよな?」
「でも」
「でもじゃない」

 ピシャリとお嬢の駄々を跳ね除けた五条は、お嬢の隣に立つ悠仁の肩を掴む。しかし、思い出したようにぼやいた彼女の言葉に動きを止めた。

「知らないヤクザの人に追われてたから、今追い返したら捕まっちゃうかも」
「は? 知らない同業者?」
「うん、見たことない人だったんだよね。入れ墨の人ならみんな仲良くしてるから分かるもん」

 そう言ってのけた彼女は、至極当然だという表情でうんうんと何度か頷いた。

「お嬢……墨入れたヤツ全員友達みたいな認識やめようなぁ?」
「え〜?」
「え〜じゃないよ。今回のことで例外が分かっただろう?」

 墨を入れた人間が全員ヤクザという方程式は成り立たないし、全員同じ所属の人間というわけではない。必ずしもお嬢に好意的であるとは限らないのだから、不用意に関わってはいけないよ、と夏油は説いた。これまで面倒ごとや命に関わる危険な事件に散々巻き込まれているくせに、圧倒的に危機感が欠如している。純粋無垢な優しさで人をたぶらかしては、不用意に拾ってくる悪癖も何とかしなければと、こめかみを抑えるほかなかった。
 兎にも角にも、追ってきたという相手の正体が分かればいい。五条は改めて悠仁に視線を向けた。

「で、お前誰に追われてたわけ」
「え? あー、それが……」

 急に話を振られて戸惑うも、悠仁はこれまでに至る経緯を語り始めた。
 全ては祖父の死から始まった。残されたのは先祖代々眠る墓と、天涯孤独になった際に頼る場所が書かれた遺言書。悠仁は祖父の意に沿い上京してきたはいいものの、身を寄せる先の男と全く反りが合わなかった。
 男は宿儺と名乗った。祖父の知り合いというだけで、悠仁とは特に血のつながりはなく赤の他人という。それなら世話になる義理もないと判断した悠仁は早々に宿儺の元を離れ、一人でもなんとか暮らしていけるように金を稼ぐため、少し危ない仕事に片足を突っ込んでいた。
 そんな時、頭の上で髪を二つに束ね、鼻の上に墨を入れた怪しい男に後をつけられ始めた。気味が悪いと振り切ろうと走り出した際、見事にお嬢とぶつかってしまったのだった。

「相手の正体はさっぱりだけど、面倒臭いことこの上ないね」
「ま〜要するに、ウチが勝手に巻き込まれたってことか」
「あの……なんか、すんません」

 お嬢が匿わなければ巻き込まれることもなかったが、彼女は人助けをしただけだった。だからと言って悠仁が悪いというわけでもない。それを理解していながらも、五条たちはぼやかずにはいられなかったし、悠仁は謝らずにはいられなかった。

「お嬢に怪我させたんだ。慰謝料払う代わりに死ぬほどこき使ってやるから楽しみにしてなよ」

 そう言い放った五条に、悠仁はわけが分からず首を傾げた。お嬢はすかさず五条の言葉を噛み砕いた。

「しばらくここに居ていいって!」

 にこりと笑いかければ、悠仁は「あざます!」と勢いよく頭を下げた。






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永遠に白線