死にぞこないの季節
夏の鼓動が聞こえる。
眩い光に包まれた世界は、全ての色彩が重なり合い、圧倒的な存在感を持って蠢く生き物だった。暴力的とも思える、満ち満ちた生命力。それは今の私にとっては毒でしかなかった。
夏は嫌いじゃない。対極にある夏と冬を挙げ「どちらが好き?」などと生産性のない質問を投げかけられたのなら、私は迷わず夏を選ぶ。寒いのは苦手だから、というただの消去法でしかない理由だけれど、私は神に誓ってこの季節に恨みを持たれることはしていない。それでも今年の夏は、まるで意志を持ったように、私を確実に蝕むのだ。
足を止めた。パタパタとこめかみから雫が滴り、乾いた地面に影より濃い染みが残った。我が物顔で真夏の空にのさばる太陽を睨みつける。ジリジリと肌を焼かれる痛みに、表面だけではなく中身まで蒸し焼きにされている気分だった。
ただでさえ精神的な疲労を負っている人間に、この仕打ちはないだろう。そう胸の内で毒づいても何も変わりはしない。
顎に伝った汗を拭い、再び棚田の畦道を一歩ずつ登っていく。林の中に入ると日差しは幾分マシになったけれど、代わりに湿気と虫にまとわりつかれた。むせ返る草木の香りが、鼻腔の奥にツンと染みた。近くの畑で草刈りでもしているのだろう。シャカシャカと頭の上で鳴り響く蝉の声の向こう側で、唸るようなモーター音が騒いでいる。
風と共に襲い来る熱気。夏の息吹は内側から生への執着を溶かしていく。その感覚に、やはり私はこの夏に殺されるのだと思った。
半月前、叔父が死んだ。両親のいない私を引き取り、たった一人で育ててくれた叔父が、この身に有り余るほどの莫大な資産を残して、たった一人で逝ってしまった。
遺産などいらなかった。叔父さえ元気でいてくれれば、それで良かったのだ。まだ若く自分の人生を犠牲にしてまで、歳の離れた姉の娘を愛してくれたあの人へ、今はもう恩返しをすることすらできない。
そうやって絶望に打ちひしがれている暇など与えてもらえず、通夜葬式と流れるように過ぎていった。そして叔父の遺産が相続された暁には、ただでさえ肩身の狭い思いをしていた私を親戚連中が口々に罵った。相続を放棄することも考えたけれど、叔父のことまで悪く言い始めた彼らに渡すのは受けた恩を仇にしてしまうような気がして、私はただじっと口を噤むしかなかった。
「あ〜、こりゃガラクタばっかだねぇ」
少々落胆を含んだしゃがれ声に、沈み込んでいた意識が表面上に顔を出す。ぼんやりと入り口から中を眺めていた私は、土と埃の混じった匂いのする蔵の中へ足を踏み入れた。
薄暗さに目が慣れない。何度か瞬きを繰り返して辺りを見回した。ガラクタ、と呼ばれた骨董品と思しき品々は、翳りの中で静かに鎮座している。
「やっぱりそうですか……わざわざ来てもらったのに、収穫がなくて申し訳ないです」
「いやいや、アンタも若いのに大変だねぇ。管理するのも大変だろう」
鑑定士の男は田舎の訛りでいきなり何もかも背負わされた私を憐れんだ。私は肯定も否定もせず小さく笑みを作った。
この家は私の祖父母の家だった。その祖父母も私が生まれる前に亡くなっているため、仏壇の部屋に飾られた遺影でしか顔を見たことがない。元々は長女である母が実家を管理していたが、母が亡くなると弟である叔父が管理するようになったらしい。叔父はなかなか私をこの家に連れてこようとはしなかったけれど、幼いころに何度か母に連れられてこの家に来たことがあった。無駄に広い家の敷地を探検したのは、今思い返せば母と過ごした良い思い出の一つだ。
あの頃、この蔵の中にも入ったことがある。記憶の中ではほとんど物が無く、がらんとだだっ広い空間が広がっていた。幼心に面白いものがあるんじゃないかと過度に期待していたせいか、何もない空間にがっかりしたのをよく覚えている。
叔父の死後、この家の管理も任された身としては何もないと思い込んでいたので、蔵の中など特に気にしていなかった。しかし葬儀で集まった親戚の一人が、この骨董品を見つけ私へ処分を言いつけた。きっと相手もガラクタだと分かっていたのだろう。それに後継がいない私が早くに死ねば、管理の仕事が回ってしまう。その手間を嫌がって「若いんだから」と嫌味を吐きながら全ての面倒事を押し付けたのだった。
形だけでも鑑定してもらって、価値がある物だけ売却し、他は処分しようと考えていた。しかし全てガラクタならば、業者を呼んで回収してもらったほうが早いかもしれない。その旨を口にすると、鑑定士は眉間に皺を寄せうーんと唸った。どうやら処分には反対らしい。
「どれも年代ものではあるようだから、気にいる人はいるかもしれない」
「処分するより必要としてくれる人がいるならその人の元へ渡った方がいいですね」
うちのあるということは、確実に身内のものだ。捨てるより使ってもらえるならその方が良いに決まっている。
うっすらと埃を被った木箱を払った。蓋を開けると中には壺が入っていた。しっかりと封がされている部分を指でなぞる。そんな手持ち無沙汰の私へ、鑑定士は「まぁ、値は張らないと思うがね」と肩をすくめた。
「お金を稼ぎたいわけじゃないので、それは別にいいんです」
「変わってるねぇ。そういう善意につけ込んで安くで買い叩く連中もいるから気をつけなさい。アンタは良くても、市場が荒れると真っ当に商売をしてる奴らが痛い目を見る」
そう諭した鑑定士に、私は「気をつけます」と返した。良い人だと思った。無知を馬鹿にしない姿勢に信用できると確信して、「アンタさえ良ければ、ちゃんとした古物商を紹介できるよ」という言葉に二つ返事で頷きかけたその時、耳の裏で誰かが呟いた。
「開けるのはおすすめしないよ」
影と共に落ちてきたその言葉に全身の筋肉が硬直する。壺の蓋に触れた私の手の上に、ヒヤリと何かが重ねられた。手だ。冷たい、男の手。
ゾワリ。直に脊髄を撫でられた感覚を堪え、ぎこちなく振り返る。覆い被さるように私を見下ろしている男の髪が頬を掠めた。
「えっと……どちら様ですか?」
「一億」
いつの間にか背後に立っていた男は、私の問いを黙殺し薄ら笑いを浮かべた。そして人差し指を立て、自信に満ちた口調で言い放つ。
私は背筋に氷柱を打ち込まれた心地で男を見上げる。それまで熱に浮かされていた現実味のない世界が、急速に収束し質量を持って重たく肩にのしかかる。代わりに頭の中は冷水を浴びせられたかのように冴え渡っていた。
男が連れてきた涼気は、夏に殺されかけていた私が最も欲していたものだった。
「一億で売ってもらえるかな?」
「は……いちおく……?」
いきなりとんでもない額を突きつける男に何と返答していいものか。つい戸惑ってしまったけれど、相続された資産の額を見ていたお陰ですぐに冷静になれた。それが良いのか悪いのかよく分からないが、とにかくこの男をなんとかしなければいけない。
「一億でダメなら五億でならどうだろう?」
「ま、待ってください! 値段に渋っていたわけじゃないんです。その、これはそんなに価値のある物ではないと……」
歯切れが悪く口籠った私は鑑定士を見た。彼を疑ったわけではない。ただ突拍子のないことを言い始めた怪しい男へ反論して欲しかった。しかし彼は動かない。いや、動けないように見えた。
「これはね、呪いの壺なんだよ」
呪いの壺。あまりにも胡散臭過ぎる。
訝しげに眉を寄せた私の視線を華麗に無視した男は、壺について語り始めた。
「今より差別が当たり前にあった時代に大陸で作られた呪物だ。この中には女子供の死体が何百と詰まっている」
「なんで……」
「憎しみを生むためだ。それらが一つの場所に集まれば優れた呪いになる。そうやって呪いを増幅させては人を殺し、新たな呪いを生む。そうやって時代を渡ってきた代物だ」
「人が、死ぬ……」
そう呟いたものの、いまいちピンとこなかった。オカルトにはあまり興味がない。心霊現象や怪異と呼ばれるものを否定するつもりはないけれど、私にはあまりにも縁がない話だった。
「子を産める女は近づいただけで死に至るそうだよ」
脅すように、そして揶揄うように嘲笑した男の態度は酷いものだった。他人の家に勝手に入り込んでおいて、そこまで嫌悪を示すなんて流石に礼を欠いている。
一言文句でも言ってやろうかと思ったけれど、男の纏った冷ややかな空気がひたすらに私を冷静にさせる。私は一つ息を吐いた。
「貴方の話が本当なら、売るより人を殺す道具になってしまった人たちの供養の方が先じゃないですか?」
「とっくに死んだ人間の供養をねぇ……まぁやりたいならやればいい。そんなものは気休めだ」
「それならどうすれば……」
「呪いは呪いでしか祓えない。その術すら使えない猿に言っても分からないさ。代わりに命乞いでもすればいい、その方がよっぽどお似合いだ」
男は袈裟を着込んでいるのに、汗一つかいていなかった。生きているのに生を感じない。精巧な人形のような、何もかも完璧な存在。
そんな終始涼しげだった男の表情が歪んだ。恨み、憎しみ、嫌悪に敵意、全てが滲み出ていた。その姿はまごうことなき生きた人≠セった。
私は直感的に思った。男は死に一番近い場所で確かに生きているのだと。
目を伏せる。男の言っている意味はよく分からなかった。だからこそ罵られているのだと、それだけは理解できる。
「私が死ぬ分には誰も憎まない。それならこれ以上、この呪いの力が増すことはないんでしょう?」
「悲観的だね。死ぬこと自体は構わないのか」
「それは……」
死に対する恐怖なんて、誰しもが本能的に持っているものだろう。それがないとは言わないけれど、私にはこの先を生きていく気力がなかった。死に取り憑かれた思考回路を、抗いようのない夏という季節のせいにして楽になろうとしていた。
「……生死に、自分の意志が反映するとは思っていません。だからこそ、自分の力が及ばない何かによって、漠然と殺されるのだと思っていたんです」
私はようやく顔を上げた。瞬きと共に男を見る。収縮した瞳孔が私を写していた。
「死ぬ分には誰も憎まない、か。……君には、君の死を悔やんでくれる人はいないのか」
「育ての親だった叔父は先日亡くなりました。親戚たちは遺産を相続した私が死ねば大喜びしてくれると思いますよ。……面倒ごとだけは片付けていけと恨まれそうですけど」
「それじゃあ、ここにあるものの所有権は全て君にあるということで間違いないね?」
「ええ……まぁ、はい」
何故そんなことを問うのか。理由が分からなくとも、嫌な予感だけは確信できる。
私は思わず後ずさった。その露骨な態度に、男は嫌そうな顔一つせず人の良い笑みを浮かべた。
「そんなに怪しまなくてもいいじゃないか」
「いや、今更そんなこと言われても……」
この場にいること自体が不審なのだから、今更取り繕おうとしても遅いのだ。流石にここから騙されるような馬鹿ではない。たとえ、両手を取られ、綺麗な顔で微笑みかけられたとしても。
「私はね、ただこれらを買い取りたいだけなんだよ。そこのインチキ鑑定士と違って価値を見出せる」
「なっ」
先程から蔵の隅で微動だにしない鑑定士を、男は顎で指した。
「さっきから少しも動きませんけど、もしかして、足が動かないのでは? まぁ、それだけ群がられていたら動けませんねぇ」
ガクガクと震える鑑定士の足元へ視線を向ける。何もいない。しかし、鑑定士の怯えようは尋常じゃなかった。
もし男が言うことが本当なら。足元には何がいる? 私には到底見えない何かが、存在している? それならば、私は────
「貴方は何も知らない。今日ここにも来なかった」
嘘を語る言葉に混ぜられた強制。それに脅された鑑定士は、首が取れる勢いで頷いた。
その様子を見届けた男は、宙に手を翳した。すると鑑定士は解き放たれたように駆け出した。男を押し除け、一目散に蔵の外へ逃げていく。一度も振り返ることなく林の中を走る鑑定士の背中を見送った。
何だか悪いことをしてしまった気がする。私が今日ここに呼ばなければ、巻き込まれることはなかったはずだから。
心の中で手を合わせた私は、男に向き直り説明を求めるように「今のは……」と呟いた。
「呪霊だ。不用心にいろんなものをひっくり返したんだろう、封じられていたものが出てきてもおかしくないさ」
す、とこちらに手が伸びる。男の仕草に肩をすくませる。思わず瞑ってしまった目をそっと開けると、男は先ほどと同じように私へ手を翳していた。
何も見えないことは何もないこととイコールではない。未知の世界に触れてしまった緊張感が、じっとりと背中に張り付いた。
男は空を呑んだ。正確には、手のひらに乗った何かを呑み込んだ。
無防備に曝け出した首筋。唾液の絡んだ嚥下する音。上下する大きな喉仏。それら全てが酷く扇情的に見えた。
「──ここにあるものは、どれも君の手に余るものじゃない」
唇を指で拭った男は、有無を言わせない視線を注いだ。私がわざわざ問わずとも、それまでの彼の行動を一つも理解できていないことが何よりの理由だと、細められた瞳が語っていた。
「それは……認めます、間違いありません」
「じゃあ、さっきの話は呑んでくれるかな?」
私は頷いた。頷くしかなかった。得体の知れないものを他人に押し付けることしか選択肢がないのだから。「貴方に任せます」とだけ言い残し、蔵の中から抜け出した。
頭上では相変わらず太陽が見下ろしている。さんざめく陽光など、あの男に比べたら生易しく思えた。
私を殺すのは夏ではない。人を超越した力を持つあの男だ。しかし私から死を遠ざけ、生を見せつけたのもまた彼だった。