取りとめた命の使い道
男は夏油傑と名乗った。一体どうやったのか蔵の中を空っぽにして、颯爽と去って行ったのが一週間前の話だ。
ようやく都内の自宅に戻って来ていた私は、肩の荷が降りたことからすっかり気が緩んでいた。そうでもしなければ、誰とも確認せずにドアを開けるなんて、普段じゃ絶対に有り得ない。
「やあ」
気安く片手を挙げた夏油傑と目が合う。咄嗟にドアノブを内側に引き戻すと、ドアと室内の間に足が差し込まれた。
「閉めるなんて酷いな」
隙間から覗くにこやかな笑みが恐ろしい。こちらの抵抗も虚しく軽々と扉をこじ開けると、強盗よろしく玄関へ押し入った。
「なんで、家の場所……」
「少し調べたらそれくらい分かるさ」
「えぇ……こわい」
赤の他人に個人情報が渡っているのはいただけない。知らない間に身ぐるみを剥がされていたような後味の悪さが付き纏う。
そもそも、彼とは二度と会うことはないと思っていた。彼の望むままに全てを任せたのだから、関わる理由がない。それに彼からは、わざわざ干渉してこないだろうという自負があった。一度でもあの侮蔑のこもった眼差しを向けられた人間なら容易に分かるだろう。誰も好き好んで嫌いな人間に近づこうとは思わない。……そんな予想は見事に打ち砕かれたわけだけれど。
行き場を失い、よろよろと後退するしかない私の前に、彼は重たげな荷物をその場に置いた。
「今日はこれを渡しに来たんだ」
「え……」
「開けてごらん」
促されるままに玄関マットの上に膝をつく。おずおずと鞄へ手を伸ばし、ジジジと音を立ててジッパーを引っ張った。
「…………」
金、諭吉、札束。中身を確認した私は、咄嗟に彼へ問いかけた。
「何ですか、これ」
「見ての通りだよ」
それはそうでしょうね。そう言いたかったのを飲み込んで、私は拒絶を示すようにジッパーを閉めた。
「いりませんよ、あれは全部貴方に任せたものですし。生憎遺産のおかげでお金には困ってないので」
「……金で釣れないと面倒だな」
ボソリ、呟いた言葉を都合よく聞き流すほど私の聴力は弱くはなかった。負けじと「何か?」と問えば、彼は澄ました顔で「何も」と宣う。
白々しいとは思うものの、それ以上強く出れないことに内心焦っていた。私は彼に、夏油傑に、何もかも、全て握られている。生きることも死ぬことも、日常も非日常も、彼の気分一つで決まってしまう。そして、それがとてつもなく魅力的だと、まるで初めから定められていたように思えてしまうことが何より怖かった。
だから、何がなんでもこの男との関係を断ちたい。絶たなければならない。
「とにかく、あの時私のことを助けてくれたのは本当だと信じて感謝もしてますけど、こんな大金を突然手渡してくるような人とは関わりたくないのでお引き取りください」
「君は、何故叔父が呪具や呪物を集めていたのか気にならないのかい?」
「……貴方になら、分かるっていうんですか?」
「もちろん」
甘やかな同意の裏で、彼がほくそ笑んでいることなんて分かりきっている。それでも、叔父のことを持ち出されたら食いつかずにはいられなかった。
揺らぐ心を見抜いたのか、彼は悪魔の囁きの如く私を誘惑する。
「それにその理由によっては、まだどこかに隠していてもおかしくはない。利害は一致してると思うけど」
チラリ、目の端で私を見下ろした。協力してくれるよね、そう眼差しで問いかけられる。
ああ、駄目だ、また押し負けるのか。そう自己嫌悪に駆られながら、首を縦に振る。彼の前では私の抵抗などあってないようなものだ。抗ったところで、結局虚しいだけだと分からせられた私は、悔しくも彼との関わりを断つ決意を手放すこととなった。