相容れない人々



 脚が重い。脇腹が痛い。そんなことは全て無視して、とにかく走る。走る。坂を登り、階段を駆け上がる。だだっ広い庭の真ん中を突っ切って、正面の大きな入り口から寺の中に転がり込んだ。

「夏油くん……夏油傑という方が勤めてると思うんですけど」

 上がった息を整えながらそう訴える。
 教祖って勤めるものなのか、という疑問が湧き上がったものの、良い言い回しが思いつかなかったのだから仕方がない。
 不敬だと非難する視線を受けて、来なければよかったと後悔する。しかし、連絡先を交換していないのだから、どちらかが訪ねなければ始まらないのだ。心許ない関係に縋るより、今は早くこの箱を手放したかった。

「何があった」
「夏油くん、目、目玉……」

 普段見たことのない焦りを浮かべ、奥から出てきた彼へ断片的な言葉と、持っていた袋を押し付けた。
 彼は中身を取り出して、呟く。

「獄門彊……」

 お札のようなものが張り巡らされている、正方形の箱。それだけなら、ここまで慌てない。見てしまった。お札の隙間から覗く目玉を。そしてその目玉がギョロリと動いた瞬間、確実に自分の手に負えるものじゃないと悟った。

「またすごい物を持ってくるね」
「やっぱり……価値がある物なんだ」
「喉から手が出るほど欲しがっている呪詛師はごまんといるだろうね」

 あまり実感が湧かず、へぇ、と気のない返事が出てしまった。
 とにかく何に使うものなのかより、持っていて実害があるかどうかの方が心配だった。

「両親の事故当時こと、親戚に尋ねて回ってた時に渡されてね……一年くらい前に子どもが蔵から持ち出したみたい」

 子どもが危ない目に遭うのだけは避けたかった。彼が言うには他人を攻撃するものではないと言うので、ひとまず安堵する。

「その間はずっとその親戚の家にあったのか」
「うん、おもちゃ箱の中に入ってたんだって」
「それはまた……」

 夏油くんは呆れ返って何も言えなくなっている。
 確かに一見ルービックキューブのような形だ。子どもからすればおもちゃに見えるかもしれない。しかし、中に目玉があるなんて気持ち悪すぎる。そうじゃなくても、お札が張り巡らされている箱なんて持っていて気持ちいい物じゃない。だから親戚も、もともとの所有物は叔父なのだから、私に処分しろと言ってきたのだろう。
 厄介ごとを押し付けられるのは今に始まった話ではないけれど、やはりいいように使われているようで解せない。一気に襲ってきた疲労感で、膝に手をついた。

「せっかく来たんだ。集会でも見ていくかい?」
「いや、遠慮します……」
「前に教祖をしてるところが想像できないって言ってたじゃないか」
「それは、そうだけど……」

 初めこそ精巧な人形のようだと思ったけれど、知れば知るほど彼は人≠ネのだと思ってしまう。人より人らしい、と言ったら彼は嫌な顔をするかもしれない。それでも、お膳立てされた平和の中で生きている私たちよりも、身近にある死とは何か、簡単に脅かされる生とは何か、と考えている彼の方がよっぽど理性的に見えた。
 それに、出会い方が違えば、彼の本質に気付くこともなかった。そう、何か少しでも違えば、きっと私も神のような力に手を擦り合わせ、盲信し、金を落とし、妖しい魅力に取り憑かれ、彼の信者になっていたに違いない。
 そう思うと、もしもの私を見ているようで、どうしても信者の人達を直視できなかった。

「とにかく帰る」

 獄門彊と呼ばれた箱については、夏油くんに任せるから、とだけ言い残し、入り口へ向かった。

「休んでいきなよ。顔色が悪い」

 後ろから肩を掴まれる。そう言われて全力疾走の後の気怠さに加え、運動不足が祟ったのか内臓が絞られるような気持ち悪さに口元を押さえた。
 そんな私を彼は小脇に抱え、奥へ連れて行く。確かにあんな大層な建物のど真ん中で嘔吐されたら困るよな……とぼんやりと考える。水を飲まされ、ソファの上に寝かせられ、毛布をかけられる。暑いと言えば、扇子で煽がれた。最終的に新聞紙の入った洗面器まで渡されるけれど、私はそれを押し返した。

「出ない、出したくない」
「出したら良くなるのに」
「……吐くの苦手」

 一瞬でも苦しい思いをするくらいなら、気分が悪いのをずっと耐えていた方がマシだ。
 そう言った私の口の中に容赦なく指を突っ込み、ぬるぬると弄るように舌の奥を押してくる。

「ちょ、やめ……」
「ほら黙って」

 指を噛み切ってやろうかという考えが頭をよぎるけれど、横隔膜の収縮がそれを阻んだ。自然の摂理に任せるままえずき、それを数度繰り返された。

「最ッ悪……」
「楽になっただろう?」
「おかげさまでね」

 吐いたら楽になるというのは本当だった。でもやっぱり苦手な物は苦手だ。それに他人によって強制的に、なんて神経を疑う。私の嫌味に夏油くんは笑っていたけれど、本当に笑い事じゃない。
 まだ喉の奥が痛み、口に水を含んだ。一気に体力を消耗した気がする。
 彼は私に向けて、扇子を煽ぎ風を生み出していた。そしてふいに口火を切った。

「君の両親の死因、事故じゃなかったよ」
「え……」
「呪霊に殺されたんだ」

 絶句する私に向かって、彼は追い討ちをかけた。

「驚くのはまだ早いよ。君の叔父の死因は偽装されていた」
「じゃあ、心臓麻痺っていうのは嘘……? でも、なんで」
「知ってるかい? 説明のつかない死は大抵心臓麻痺で片付けられるんだよ」

 煽ぐのをやめた彼はニヒルに笑ったものの、瞳には同情の色が滲んでいる。

「犯人は呪詛師だ。現場に呪術師が派遣された記録が残っていた。所持していた呪物を奪われていたらしいから、動機はお察しの通りだ」

 所謂、窃盗殺人。しかし呪術を使われてしまえば、表の世界では怪死で片付けられてしまう。

「呪いを扱えるのが夏油くんたちで、呪いを生むのが私たちで……それなら、呪霊も、呪詛師も、私は誰も憎めない」
「物分かりがいいじゃないか。猿にしておくには惜しいねぇ」

 彼の顔が見れなかった。視線は膝の上で固く握った拳の上に固定されている。
 ──真実を知ったところで、結局私は何もできない猿じゃないか。
 彼が傍に寄る気配に追い詰められる。

「──本当に」

 耳の裏で呟かれる。諦めと、憎しみと、決して口に出してはいけない感情が混じり合っていた。
 私たちは呪詛師と非術師で、どこまでいっても永遠に相容れないのだ。






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永遠に白線