静寂は愛の証だった
懐かしい音が聞こえる。昔、夏の鼓動と呼んだものだっただろうか。
開いた窓が、青々と連なる山並みと夏の空を切り取っていた。こんな清々しい季節に絶望しかしていなかったことを思い出し、手に持っていた本をパタリと閉じた。
「ここまで、分かった?」
教科書を教卓の上に置き、三者三様の表情をしている彼らに問いかけた。
「せんせ〜覚えることが多いで〜す」
「歴史は暗記に頼る部分が多いからね。年表と照らし合わせて流れで理解すると覚えやすいかも」
全ての文に蛍光マーカーで線を引いた教科書を睨みつけ「どれから覚えればいいのよ!?」と喧嘩を売っている釘崎さんを宥めながら、隣で黙々とノートにペンを走らせている伏黒くんに声をかけた。
「板書は終わった?」
「はい」
「じゃあ、黒板消すね」
「あ、俺消すよ! 日直だし」
「ありがとう、虎杖くん」
手に持っていた黒板消しを虎杖くんに手渡す。その間、私は教卓に広がった教材をまとめながら、何気なく生徒たちのこの後の予定を問いかけた。
「みんな、これから任務?」
「いえ、体術です」
「そうだった、早く着替えなきゃ」
慌て出す彼らに、頑張ってと笑いかける。
「先生はまだ授業?」
「ううん。二年生は一限目に授業したあと任務に行っちゃったから、今日はもう終わり」
「いいな〜! 今度午後の授業の後遊びましょうよ〜、真希さんと一緒に女子会しません?」
「もう女子って歳じゃないよ……」
「またまたぁ、二十代なのにそんなこと言って!」
それでも、十代の青春真っ盛りの女子と同列に扱われるのは気恥ずかしい。
みんなの時間が合ったらね、と約束していると、背後でチョークの粉をはたき落とした虎杖くんが声を上げた。
「そういや、先生ってなんで呪術高専で先生してるん? 高専出身でも、窓でも無いんだよね?」
大抵は何かしら呪術に関係のある者が高専に集まってくる。私のようなまるっきり無関係の、それも彼らから見たら保護対象になる非術師がここで教鞭をとっているのは不思議なのだろう。
「ん〜、成り行きっていうのも違うかな。強いて言うなら、罪滅ぼし……?」
それで罪が消えるわけじゃないけどね。そう言えば虎杖くんは首を傾げていた。
その時、突如教室の扉が開かれる。
「夏油くん」
上枠にぶつからないよう、くぐり抜けるようにして教室に入ってきた彼に「何しに来たの?」と問いかけた。
「酷いな、生徒たちに連絡事項を伝えに来ただけなのに」
彼は虎杖くんたちへ体術の授業が道場から校庭に変更になったことを伝えると、「日焼けする」と釘崎さんからブーイングを受けていた。それを何とかいなし、私の腕を掴んだ。
「それと、この子は私のだから」
引き寄せられた私は、文脈が読み取れずポカンと彼を見上げた。
「私のだから、ここに居るんだよ」
そこまで聞いてようやくさっきの虎杖くんの質問を聞いていたのだと悟った。
なぜ生徒に言うんだと咎めたい気持ちを抑え、「ごめんね、着替えに行っていいよ」と生徒たちの退出を促した。
「あの、生徒の前でやめてほしいんだけど……」
「本当のことだろう?」
生徒たちのいなくなった静かな教室で、私は押し黙った。
「何か、言いなよ」
「……違う。夏油くんのためじゃないよ」
私はゆっくりと頭を振った。
「それを含めて全部、私のためだから」
罪滅ぼし、という言葉で表したけれど、私は叔父の生き方を真似ただけだった。力のない非術師は非術師なりに、呪術師の育成に携われば呪詛師の排斥に繋がると考えただけ。叔父の努力を無駄にしてしまったけれど、目的を叶えることはできるかもしれない。それなら私はやらなければならない。
だからここで教職に就いた。呪術は教えられないけれど、その他の勉学が彼らの生きる術に繋がれば、それでいい。
もちろん、生き方を変えざるを得なかった彼の傍から離れるつもりもなかった。彼の大義は敗れてしまったけれど、彼も彼なりに自分の気持ちに折り合いをつけようとしているのを知っているから。
「全部、か」
彼は呟いた。張りつめていた緊張の糸が緩まる。眉を下げ、溜め込んでいた胸の内を吐き出すように、息をつく。
「君は昔から強かった」
「嘘、どこが……?」
思わず目を丸くする。全てをかなぐり捨てて逃げ出そうとした人間なのに。そんなことを言われるような行いをした覚えがない。
「私に全てを受け入れろと言われて、本当に受け入れ続けているところだよ」
「で、でも、それは約束したし」
「口では何とでも言えるけど、なかなか出来ることじゃない。それに、君は君なりに大義を持って生きている。……これじゃあ、どちらが弱者なんだか」
彼の指がまるであの時のように顎に触れる。私は自然と視線を上げた。
見つめられるだけで、愛を汲み取ることができる。私はこの数年、それだけを繰り返し、それだけで心を満たしてきた。
「そろそろ認める時なのかな」
「え……」
「ちゃんと言わないといけないのは私の方」
口に出さなくとも、思いは通じる。言語化しなくとも、理解できる。降り注ぐ言葉の喧騒より、静寂が何より美しいのだと、そう信じてきた。
だから、今の私にはきっと受け止めきれない。
「愛してる」
はにかんだ彼の顔なんて、初めて見た。
途端に仕舞っていたはずの愛が、涙となって溢れ出してしまった。鼓膜の振動が、鼓動に変わる。うるさいけれど、愛おしい。
ああ、そうだ。私の強さは全てを受け入れることだった。受け止めきれないことなんてないんだと、震える唇を開いた。
「私も」