九、主君と知己 参
冬が近い。つい先日まで涼やかだった風が容赦なく肌を刺す。山を降りる準備を済ませ外に出た私は、屋敷の正面に回り込み、足を止めた。
見慣れぬ人影。しかし、侵入者というわけではなく、宿儺様も同様にその場に佇んでいる。
珍しく客人だろうか。そう思いながら二人の様子を眺めていると、視線に気づいたのか客人がこちらへ視線を向けた。
額の縫い目が特徴的な御仁だ。私が頭を下げると、彼は片手を上げ愛想良く目尻を下げた。
誰だっただろうか、記憶にないということは宿儺様が私との関わりを持たせなくて良いと判断した人物に違いない。
そう考えている間に、彼は門をくぐり山道の奥へ進んで行く。それを見て私も山を下りるのだったと、わざわざ外に出てきた目的を思い出し、門へ向かって歩き出した。
「どこへ行く」
不意に尋ねた宿儺様は、ざり、と大地を踏み鳴らし、こちらへ歩み寄る。
「都へ行ってまいります」
「そうか」
変わらぬ調子で言う私に、宿儺様は気にする様子もなく頷いた。
目的はタキに会うためだとしても、一度は都まで足を運ぶため、決して嘘ではない。何度か彼の元へ足を運んでいるのは、回数を重ねなければ書物を全て読み切ることはできなかったからだ。貴重なものから優先して目を通す作業を繰り返している。
ただ一つ困ったことは、都に住まう民の恐怖の矛先が平将門の子の噂から、連日市井を騒がせている宿儺様に移っている点だ。私がふらふらと都に出れば、宿儺様の残穢に気を尖らせている術師連中に目をつけられかねない。
面倒ごとを避けるなら、都に行く頻度を減らせば良いのだが、緊急の任務ではないことから、私が山を下る口実がなくなってしまう。
どうしたものかと遠くの山道を見やる。そこにはすでに客人の後ろ姿はなかった。
「御来客でしたか」
気付かなかったことを詫びる意味で、そう口にする。
宿儺様は「気にするな。アレは客と呼ぶほど大層なものではない」と煩わしげに宣った。どこか引っかかりを感じる言い方だと首を傾げる。屋敷に招き入れるくらいなのだから、友好的な関係なのかと思ったが、どうやら違うらしい。
どちらにせよ、宿儺様が気にするなと言うのだから考える必要はない。私はその場で一礼をし、宿儺様から離れる。今日こそ目欲しい情報が手に入ることを祈り、禪院の裏山へ向けて歩き出した。
「千乃」
名を呼ばれ、振り返る。
はい、と言えば足元に大きな影を携えた宿儺様は、たゆんだ袖をゆったりとした所作で払う。
「あの小僧なら都にはおらんだろうな」
「……は、」
異様なほど平然たる物言いに動きを止め、瞬時に理解できなかった言葉の意味を考えた。考えたけれど、有無すら言わせない空気に呑まれ頭が働かない。
硬直する身体。視線すら動かせない私とは裏腹に、宿儺様は傾きかけた陽を見上げた。
「そろそろ夕餉の支度を始める頃か。……今日は一等美味だろうな。何せお前の見立てだ」
「私の……?」
夕餉の食材を調達した覚えはない。脈絡のない会話が不安となって纏わりつく。
ケタケタと笑った宿儺様は、すいと視線をこちらに向け、妖しく目を細めた。
「よく懐いていたようだったなぁ。それに、お前も随分と目を掛けていた」
なぁ? と同意を求められる。全てを見透かしたような視線に、ざっと血の気が引いた。
まさか、まさかまさか。あの小僧≠ニは、タキのこと────
私は荷物を捨て駆け出した。手足が痺れ、足元がおぼつかない。まるで泥濘に足を取られているかのような、不可思議な感覚のまま吹き出した冷たい汗を拭い、勢いよく厨の戸を開けた。
「千乃……?」
息を切らし凄まじい剣幕で飛び込んで来た私を見て、裏梅さんは面を食らった顔で目を瞬いた。
どうかしたのですか、と問われた私は、裏梅さんの包丁を握った手元を見る。そこには、無残にも切り刻まれた肉塊が────なかった。
何と答えて良いか言葉にならず、はくはくと口元を震わせる。ざっと辺りを見渡したところ、それらしきものはない。
強張っていた肩の力が抜ける。
それでも、まだタキが生きているという証拠はない。この目で確かめに行かなければ。
自然と禪院へ向いた足は、すぐに止まった。
「小僧を探しに行くか」
重たい一言。まるで押さえつけられているかのように、頭が上がらない。
「邪魔をしたな、裏梅」
「いえ……滅相もございません」
戸惑いを滲ませた裏梅さんと宿儺様の会話を、ただ足元に視線を落としながら聞くしかなかった。