十、主君と知己 肆
宿儺様によって戸が閉められる。背後で厨との空間が断ち切られるのを感じ、風が名残り惜しげに湿り気を帯びた首筋に張り付いた。
「行くなと命じれば、お前はどうする?」
答えはとうの昔から変わらず決まっていたはずなのに、返答することができなかった。咄嗟の行動のせいで信用など地に落ちている。いくら命令に背くことはないと言ったところで、ただの無意味な弁明にしかならない。
烏の鳴き声が、沈黙をより惨めなものにさせた。
目を伏せていた私へ、長いため息と共に宿儺様の下腕が伸びた。顎を掴まれ顔を上げることを強要される。
「これで分かっただろう。お前が貫きたいのは俺への忠義ではない」
「そんなことは、決して」
「ありえない、か?」
宿儺様の手の中で必死に首を横に振るも、先の言葉を鼻で笑い飛ばされてしまう。
それでも、私が今までより良い下僕であるために積み上げたものは嘘偽りのないものだった。それを忠義と言わず何と呼ぶのか。
そう問いかけた視線を、宿儺様は目敏く拾い上げた。
「教えてやろう。お前が必死に繋ぎ止めようとしているものは、ただの物が物であるための在り方にすぎない。忠義心とは全くの別物だ」
黄昏を背負う主の姿を前に、愕然と口を噤んだ。
はらり、顔に落ちた乱れた髪を、彼は煽るように撫でつけた。
「どうせ如何に心を殺し物に徹するかと、下らん考えを巡らせているのだろう?」
「何故、それを」
咄嗟に出た言葉が喉の奥を掻いた。もう何を言おうとも、己を追い詰める材料にしかならない。胸底を抉るような後悔に苛まれる。
「何故? お前は何によって成ったか忘れたか。そうでなくとも、今日までお前を傍に置いていたのは俺だ。そのようなことくらい見れば分かる」
すべて、全てを見透かされていた。当たり前のようなことで、いつの間にか頭の隅から抜け落ちていた。
「まぁ、それはそれで良い。後から泣き言を吐きながら苦しむ様を見るのもまた一興。小僧の件も出まかせだ。興が乗ったまでのこと」
良かったなぁ、と一等愉しげに笑った宿儺様の下で、小さく息を吐く。友の生存を素直に喜べばいいのか、主に弄ばれていることを嘆けばいいのか、どれが正解なのか何も分からない。
引き攣る喉元を押さえ、その場に崩れ落ちる。西日が目の端を焼いた。
浮かれていた。自分が何者であるか確かめる術があると。初めて友と呼べる人間に出会えたと。こんなことになるなら、何も考えられないただの傀儡のままが良かった。
額を地べたにこすり付ける。全ては主の意思に反して、思い上がってしまったことへの懺悔だった。
「分からんな。そもそも、何故隠そうとした」
「……任務には関係のないことだと、勝手な判断を下してしまいました」
「そうではない。お前の感情≠フ話だ」
冷たい声音かと思えば、心の底から不思議だと言いたげな単純な問いかけ。
それは己の行動の根幹であり、全ての原点だった。
「初めて賜った命に、背きたくありませんでした」
「命?」
「変わるな、と。……そう仰いました」
結局、どれだけ抗おうと変わってしまったことで初めて賜った主命を守れなかった。従者としても出来損ないならば、私はもう宿儺様には必要とされないのだ。自分で蒔いた種ならば、腹をくくって最後を待つしかない。そう分かっていても、心は簡単には納得してくれない。
「覚えていたのか」
しばしの沈黙の後、ポツリと言い放った宿儺様は声高に笑った。そして、地に伏す私の前に膝をついた。
顔を上げるよう促される。私は三度目の言葉でようやく頭を上げた。
「お前が依代にしているものは代えがきかないものだ。そういう意味でかわって≠烽轤チては困る」
依代。代えがきかない。そう反芻してみても、真意にはたどり着かない。しかし、一つだけ分かることは――
「私の勘違い、ということですか」
「ああ。一から十まで全てな」
「え……では、その……ええと」
初めから隠さなくてもよかった、と。そういうことなのか。
今まで思い悩んできた時間が如何に不毛であったかを知らしめるように、宿儺様はここ最近で一番長く深い息を吐いた。
「まあ無理もない」
そう零すと千乃、と名を呼ばれる。
「お前には全てを託している」
「全て……?」
再び謎めいたことを言う宿儺様。思わず首を傾げると、フと息を漏らした。
「せいぜい悩め。今のお前に出来ることといえばそれしかない」
茜色に染まる空を背負い、言葉の意味とは裏腹に上機嫌に言い放った。
心なしか上がる口角。照らし出されたその輪郭が印象的で、目の奥ではないどこかに焼き付いた気がした。