十一、喜怒哀楽・春夏秋冬 壱
──秋
青白い指先を擦り合わせ、地面に薄く這う霜を踏んだ。サクサクと音をたてる己の足音に耳を傾けながら、山道を歩くと門が見える。山を下りるわけではない。客人の出迎えに向かっていた。
あれから、タキには会いに行かなかった。友と思っていたのは私だけであって、彼にとってはなし崩しに付き合ってくれていただけ。本来、私と関わってもあちらには何の利益もないのだ。約束を破る形にはなってしまったが、私が鬼ならば約束くらい破るだろう。あちらもそう納得して、全て忘れてくれるはず。私もあの子のことは忘れて、悩むべきことを悩まなければ。
そうは言っても、宿儺様が私に託したというものなど見当もつかない。だからこそ悩めと言ったのだろうけれど、何から悩んで良いものか。これでは堂々巡りだ。
山門の外に人影が見える。随分と早い到着だ。自然と足早になりながら、客人の元へ赴いた。
「羂索殿お待たせしてしまって申し訳ございません」
「ああ、そんなに待っていないよ」
大らかにそう言った羂索殿は、手に持っていた包みを私に手渡した。
「今日はこれを渡しに来たんだ」
「これは……?」
「ただの本さ」
ずっしりと腕の中に重みを感じながらああ、と頷く。
「これを宿儺様にお渡しすれば良いのですね」
「いや、これは君にだ。宿儺に隠れて書物を漁るほどと聞いているよ」
「…………」
クツクツと笑う相手に押し黙る。宿儺様が全て見透かしていたことを裏付けるような言動に、バツが悪く何も言えなかった。
「ああ、別に責めているわけではないよ。飢えた知識を補おうとする貪欲さは嫌いじゃない。存分に励むといい」
「……ありがとうございます」
「どれとは言わないけれど、一部は宿儺の見立てだ。何かの手蔓になることを祈ってるよ」
宿儺様の、と口の中で呟いた私に、彼は返答らしい返答をすることなく「それじゃあ」とこの場を立ち去ろうとする。
「宿儺様にはお会いにならないのですか?」
わざわざここまで出向いていただいているのに、と零すと、思うところがあるのか羂索殿はああと呻いた。
「邪険にされている自信があるからね」
「な、なるほど……」
さして気に留めていなかったが、確か以前も「客と呼ぶほど大層なものではない」と言っていた記憶がよみがえる。本人も憶えがあったらしい。
「君に直接感謝が伝えられる機会があってよかったよ。てっきり宿儺が付いてくるものだと思っていたから拍子抜けしたんだ」
「……いえ、特に感謝されるようなことはしていないと思うのですが」
どちらかというと余計なことしかしていないと思うのだが。それに彼と直接話すのはこれが初めてだ。感謝されようにも関わりがなさすぎる。
そんな見え透いた疑問に、羂索殿は額の縫い目を軽くなぞる。
「宿儺との交渉が上手くいったのは、間違いなく君のおかげだ。ありがとう」
「はあ……あの、その交渉というのはどんなものなんですか?」
「それは教えられない約束だ。あまり喋りすぎると、ほら」
彼が指さす方向を見やれば、山道の脇にある小高い丘に見慣れた主の姿があった。
「見ての通り、宿儺には全面的に信用されていない。どうせ私の対応を君に命じた後に、二人きりにしては何を吹き込まれるか分かったものじゃないと思い直して飛んできたんだろう」
「宿儺様のこと、よく分かってらっしゃるんですね。私には全く……」
「まさか。ただ分かり切った事実から、推測しただけの話だ。当たってはいると思うけれどね」
力なく肩を落とす私とは裏腹に、羂索殿は大袈裟に肩を竦めた。
「とにかく、私にはない宿儺からの信頼が君にあったおかげで、目的に一歩近づいた」
彼の言う目的が何であるのかは定かではない。しかし、私にはそれよりも上手く飲み込まずに喉元に引っかかることがあった。
「信頼……されているんでしょうか。随分と勝手なことをしてしまったので、もう恩情などないかと思っていたのですが……」
「これからのことは知らないが、なければこう上手く事は運ばないさ」
弱音を吐く私にそう言った羂索殿は、再び丘の上を仰ぐ。そこに立つ人物を一瞥すると、今度こそこの場を後にした。
独り取り残された私は、先ほどと同様に丘を見上げる。そこには人影一つなく、木々がざわめいているだけ。山路を下っていく彼を見送るのもそこそこに、屋敷への道を急いだ。しかし、敷地に足を踏み入れてもなお宿儺様の姿は見当たらない。
「宿儺様……」
そう呟けば、ふと背後に気配が宿る。振り向くと、宿儺様は松の幹に身体を預けていた。いつもと変わらぬ姿に、ほっと胸を撫で下ろす。
四つの腕を胸の前で器用に絡ませた宿儺様は、徐に口を開いた。
「奴の言うことを真に受けるなよ。口だけは達者な奴だからな」
「は、はい」
私の返事を聞き届けると、真っ直ぐに屋敷へ向かって歩き出す。
これだけを告げるために私を待っていたのだろうか。そう思いながら彼の後に続く。
そうして土を擦る二つの足音が重なるのを止めたのは、宿儺様の放った一言だった。
「しばらく京へは戻らん」
思わず足を止めた私を尻目に、宿儺様は構わず言葉を続ける。
「山籠りにも飽きてきた頃だ。少し足を延ばしても良いだろう」
私は一体どうなるのだろう。大して役にも立たない荷物を連れていくとも思えない。やはり、置いて行かれるのだろうか。
そんな漠然とした不安を飲み込み、恐る恐る先を行く背中に向かって尋ねる。
「……どちらへ?」
ふむ、と少し考えるような仕草で足を止めた宿儺様は、振り返り私へ視線を投げた。
「西だ。
海を渡るとなれば、そうそう京には戻って来れまい。
目を伏せそうになるのをこらえる。落胆する胸中を押し殺し、頷き返す。
「……承知しました」
「遠路になる。めぼしいものを探しておけ」
「めぼしいもの……?」
戸惑う私に、宿儺様は私の持つ包みを顎で指した。
「全て持っては荷物になるだろう」
「! それでは、私もお供して良いのですか」
思わず高くなった声を抑えるように、己の襟を握る。
宿儺様は驚きと喜びを隠せない私を一瞥し、呆れた視線を向けた。
「残りたいなら勝手にしろ。屋敷の番でもすればいい」
そう言って踵を返す姿に、見放されたかのように思えてならなかった。
私は慌てて声を上げた。
「宿儺様と、共に行きたいです」
独り取り残されたくない一心で、宿儺様の袖を引いてしまった。
歩みを妨げられた彼は、ほんの少しだけ目を丸くした。私は引き留めた腕をそろりと降ろす。
𠮟責されても仕方がない。そう咎められるのを待つけれど、宿儺様は怒りを露わにすることはなく、そうかと呟いた。
「それなら早いうちに支度をしろ。雪が積もる前に発つ」
承諾を得た私は「はい」と声を張り、愁眉を開いた。