十二、喜怒哀楽・春夏秋冬 弐
──冬
研ぎ澄まされた冷気が頰を刺す。隙間から吹き込む風にふと顔を上げた。
廃寺になり荒れていた屋舎だ。立て付けが悪くなっているのだろう。傾いた戸に手をかけ、顔をそっと覗かせる。燭台の灯によってぼんやりと浮かび上がった庭先は、白に均されていた。日が昇れば降り積もる雪に全て飲み込まれた世界が待っているのだろう。今はまだ一寸先は闇に包まれていた。
膝の上に置いてた本を手に取ると、はらり、紙の間から何かが舞い落ちた。紅葉だ。赤茶色に褪せたそれは、懐に仕舞い込んだあの時より、随分と頼りなさげに風に揺らめいた。箋の代わりに使っていたけれど、そのうち崩れてしまいそうだ。
京を発ってから日に日に鮮やかさを失っている紅葉。この日々は色彩を代償に得られたものなのだと信じて止まなかった。私にはタキと過ごした時間を懐かしみ、惜しむ資格はない。それでも、これが朽ちるまで見届けるくらいなら良いだろう。
風が吹いた。紅葉を再び本の間に戻し、戸を閉めようと立ち上がる。ふと外に視線を向けると人影と目が合った。
「起きていたのか」
私は夜分に訪ねられたことに驚きながらも曖昧に頷いた。
「あの、どうかなさいましたか?」
何か緊急の用だろうか。そう思い尋ねると、すいと私の足元の燭台に目を向けた。
「灯りが漏れていた」
「あ……邪魔でしたらすぐに消します」
「良い、構うな」
そろそろ子の刻だ。時間を考えれば身体を休めようとするのに違和感はないが、何故狭い私の部屋で横になろうとしているのか、全く分からず小首をかしげた。
「お休みになられるのでしたら別室の支度をいたしますが……」
宿儺様にはいつも使用している広い本堂があった。支度はしてあったはずだと疑問に思いながらも、私は恐る恐る口を開く。
それに宿儺様はああ、と呻き、屋根が抜けたことを告げた。恐らく老朽化が進んでいたところに雪が積もったせいだろう。
屋内が雪と屋根の破片で荒れているならば、すぐに片付けをしなければならない。そう思い踵を返すと、手首を引かれる。
「明日にしろ。夜更けにせずとも良い」
「え、それでは」
このままここで寝るということなのか。そう口にする前に、褥に引き摺り込まれる形で膝をついた。
「暖を取る方が先だ」
「あ……確かに、そうですね」
宿儺様の冷えた身体をあたためる方が先だ。火桶を持ち寄ろうと立ち上がる前に、衾を肩にかけられる。なすがままに身を寄せてしまえば、胸の内が落ち着かない。それを押さえるように、私は手に持っていた本を抱いた。
「それを読んでいたのか」
ちらり、視線を腕の中の本に移した宿儺様はそう呟いた。
「はい。まだ途中までしか読めていませんが……」
今は昔から始まる竹取の翁と呼ばれる物語。竹から生まれた姫、というなんとも面妖な設定ではあるものの、先を読む手が止まらなくなるほどに惹きつける何かがあった。
私の手元から本を抜き取った宿儺様は、パラパラと紙を捲っていく。挿み込んだ紅葉に行き、手が止まった。
「これは、友の代わりか?」
「……朽ちるまでは手元に、と思いまして」
もう何も隠すことなどない。隠していてもどのみち宿儺様にはお見通しなのだ。
何も繕わず正直に本音を吐くと、宿儺様は喉の奥を鳴らすように笑った。
「紅葉を箋にするとは、随分と粋なことをするようになったものだ」
「いえ……滅相もございません」
小馬鹿にされていることは分かったが、それ以上に何と反応を返してよいか分からず身を竦ませる。触れていた肩が離れる。しかしそれはすぐに詰められた。
「どこからだ」
「え、と……?」
「どこまで読んだかを聞いている」
文字の羅列を見せられた私は何故そんなことを聞かれるのか、戸惑いながらも指を差す。すると、宿儺様は続く文字を読み上げていく。
読んでくださるのですか。そう尋ねようにも遮るのが忍びなく、そのまま大人しく耳を傾ける。低く響く声。それでいて聞き入りやすい。言葉がするすると自分の中に入ってくる。
羽衣を纏った姫は、月へと帰っていく。その一節を読み終えた宿儺様は一呼吸おいた。私はぽつりと独り言を漏らした。
「……感情が奪われてしまうのは、悲しいですね」
もしも、私なら。今までの記憶と感情を手放すことになるなんて考えられない。もう元の物には戻れないのだと、心の片隅でひっそりと思う。
「悲しい、か」
そう言って、その先を読み上げ出した宿儺様の声に再び耳を澄ませた。
結末まで聞き入っていたつもりだったが、いつの間にか眠りについてしまったらしい。やけにあたたかい褥の上で寝返りをうつ。闇の中でまだ霞む眼を擦れば、目の前に主の顔があった。
まさか、宿儺様を枕に──?
そのことを自覚した瞬間飛び起きる。
「申し訳ありません……! 宿儺様のお声が心地よくつい寝入ってしまい……!」
「
不機嫌な声音に萎縮する暇もなく、腕の中に引き戻される。
「夜明けまで大人しくしていろ」
研ぎ澄まされた五感すら、宿儺様によって包み込まれた。
やけに長い夜だ。日が顔を出すのはいつになるのだろう。そう思いながら大きな体躯を擦り寄る。
「温いな」
耳元を撫でる声は、どこかおぼつかない。足のついた声音が眠気に揺れている。それがどうにも聞きなれない。
けれど、くすぐったいようなその感覚は、変わらず心地が良かった。
「夜明けまで」という宿儺様の言いつけ通りに、日が差し込んだ瞬間、腕の中から抜け出した。
いつまでも寝こけていては従者として顔向けできない。やるべきことはたくさんある。昨夜の出来事を頭の中から追い出すためにも、片付けに没頭する。
抜けた屋根を直し、雪を下ろすだけでも一苦労だ。けれど捗りすぎたのか、思いのほか早く済んでしまった。
ひと時の暇、何をして過ごそうかと庭先に腰を掛けた。予想以上に降り積もった雪を両手で掬いあげる。それを何気なく丸めると、どことなく既視感があった。しばらくじっと雪玉を見つめ、閃いた。
南天の木に駆け寄り、葉と実を採る。それを雪玉に付ければ兎に見えなくもない。
山陰の村で子どもたちがそうやって遊んでいるのを見よう見まねでやってみたけれど、それと比べても大分不格好だ。
「朝から精が出るな」
頭上から降る声に、顔を上げる。呆れた面持ちで見下ろす宿儺様と目が合った。
「雪遊びは楽しいか?」
「いえ、その……おはようございます。昨夜は、申し訳ございませんでした……」
客観的に自分の行動を顧みると、一気に恥ずかしさが込み上げてくる。その上、昨晩の出来事もある。気まずくないわけがなかった。
おずおずと頭を下げると、宿儺様は私の醜態を思い出したのか鼻を鳴らした。
「たまにはお前のまぬけ面を眺めるのも悪くない」
「え……」
以前もまぬけ面と呼ばれたことがあった。あの時はただ責められているように感じたけれど、今はそうではないかもしれないと直感が告げていた。
「あ、あの。まぬけ面でも悪くはないのですか?」
言葉に込められた意味を探る私に、宿儺様は訝しげに眉をひそめた。
「はぁ? なんだそれは。勝手にすれば良いだろう」
「……宿儺様は不快ではないのかと」
「不快なものを眺める趣味はない」
私は端的に言い切った宿儺様を前に「そう、なのですね」と呟き、開いてた口を塞いだ。
つまりは不快ではなかった、ということなのだろう。ようやく本意を読み取れた気がした。
「いつまでそこにいるつもりだ。雪兎では腹は膨れんぞ」
宿儺様は雪の中で立ち尽くす私を尻目に歩き出した。
そろそろ裏梅さんが里から集めた食材をもって戻ってくる頃だ。足元に並んだ二羽の兎はそのままに、私は宿儺様を追って雪を踏み分けた。