二十、一挙両失 弐




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「旅というのは、こんなにも楽しいものなのですね」

 険しい雪道に足を取られようとも、酷い日照りに曝されようとも、千乃は決して楽ばかりではない旅路でいつもそう満足気に呟いていた。
 今でさえそうだ。
 しとどに濡れた衣の裾を絞りながら言う彼女に、宿儺は軽く息を吐いた。

「よくもまぁこの状況で言えたものだな」

 白い息が冷え切った雨の中に消えていく。呆れた宿儺の視線に彼女はきょと、と目を丸くした。
 その様子に言葉の意図が伝わっていないことを察した宿儺は「良い、気にするな」とただの独り言にする他なかった。
 煩わしく肌に張り付いた衣の袖を抜くと、徐に宿儺の背後に回った千乃が後ろ襟に手を添える。するりと衣擦れの音と共に剥ぎ取り、宿儺が起こしたばかりの火の傍に布地を広げた。
 突如土砂降りに見舞われ、逃げ込むように山沿いの洞窟に入ったは良いものの、なかなか雨が止む気配がない。そう広くない洞窟の中では火を囲み、寄り添いながら地面を叩く雨脚を眺めるしかなかった。
 矢継ぎ早に水気を含む土壌へ落ちる水滴は幾つも重なり合い、轟音と呼んでも差し支えのないほど周囲の音を掻き消している。雨宿りをする二人は外界から遮断された空間で、息を潜めるように言葉を交わした。

「そんなに旅が好きか」
「はい、とても」
「ならば次は何処へ行きたい」
「そうですね……」

 膝を抱えた千乃は汚れた草履を脱いだ。冷えた素足を火の前で擦り合わせ思考するが、答えは既に決まっていた。
 彼女は隣に座す宿儺を見上げる。

「宿儺様が向かうならば、何処へでも」

 嘘偽りのない純朴な言葉。宿儺は間を置かず、彼女に問いかけた。

「何故そう思う」
「それが従者というものではないのですか?」

 至極当然のように答えた彼女から、すいと視線を外す。
 千乃は未だに忠義というものを理解しきれてはいなかった。履き違えている、と言った方が正しいか。
 忠僕であることに偽りはないが、それ以上に己が従者であること、物であることに固執している。心を宿しその身がどれだけ人に近くなろうとしているか知ろうともしない。
 いくら人に近づいたとしても、物は完全に人にはなれない。千乃にとってはその矛盾を抱えるより、物は物でしかないと思い込んだ方が楽なのだ。それを本能で分かっている。
 両面宿儺に使役されるただの下僕。それが千乃自身が思う己の存在意義ならば、宿儺に向ける感情を全て従者としての忠義と思い込んでいてもおかしくない。要は彼女が忠義と謳うものは、本来混ざることのない感情まで含まれていることになる。
 宿儺は何としてもその感情を彼女自身に自覚させたかった。諭すのでは意味がない。当の本人が自ら気付かなければ、主従を超えた先・・・・・・・には進めない。

「……見込んだ通り、時間が必要だな」

 元を辿れば全ては先入観に支配された彼女の存在意義に辿り着く。ならばその存在意義を打ち崩せばいい。両面宿儺に使役されるただの下僕≠ゥらの解放。気づきを与えるためにはそれしか道はない。

「時間、ですか」

 千乃は困惑を隠さずに宿儺へ視線を注いだ。しかし、それもまた容易く躱される。
 その代わりに、宿儺はじっとりと濡れた彼女の薄い肩を押す。
 いつからだろうか。己のためだけにある存在ならば、心も全てを己のものにしたいと思ったのは。あの顔色一つ変えもしなかった表情が、感情に揺れ動かされる様をもっと見てみたいと思ったのは。
 突如押し倒された彼女は、目を白黒させながらも胸元に伸ばされた宿儺の手を受け入れる。
 吸い付く肌の感触。この奥にある己の心の臓が止まった時、存在意義を失った彼女は、果たして本当の感情に気づくことができるのだろうか。
 そして己もまた、人に近くも人ではない何か・・・・・・・・・・・・に成れるのだろうか。

「冷えているな」

 湿った肌をなぞられ、千乃は息を呑んだ。一瞬の動揺を隠すように恐る恐る口を開く。

「では……乾くまで、待ちましょうか」
「ああ、それが良い」

 明確な言葉はなくとも肌が重なる。衣擦れの音は土砂降りの雨の中に消えていった。
 

 


       ◆◆◆






 顔に打ちつける雨の雫。
 胸元にしがみつき、私も死にたいと泣きじゃくる千乃の声が、少しばかり遠く聞こえた。
 雨粒に記憶を刺激されたのか、こんな時に思い出すのが他愛もない日常とは。
 宿儺の自嘲は雨音に掻き消され、彼女に届くことはない。
 きっと彼女は己のせいで宿儺が死んだと絶望に打ちひしがれ、黄泉への供になりたかったとまた泣くのだろう。
 あの旅路が楽しいと思えたのは宿儺が傍にいたからだ。行き先が火の中だろうと、水の中だろうと、墓の中だろうと、彼女が唯一望むのは宿儺なのだから。それを彼女が理解する時が来たならば、再び相見えることができるだろう。
 時が満ちれば、きっと叶う。しかし、それがいつになるのか、彼女はもちろん宿儺でさえも知る術がなかった。






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永遠に白線