二十二、類稀なる 壱
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年暮から新年を迎える数日間、家中を支配する落ち着きのない雰囲気が一等嫌いだった。日頃より居心地が良いとはお世辞にも言えない禪院家という名の檻の中で、満足に息をすることも叶わず、甚爾は齢七つ、いや今日という日を迎えて八つにして全てを諦めて生きていた。
この世に生を受けた日というのは、どうやらとてもめでたいことらしい。甚爾はそのありがたみが、どう心を尽くしても分からない。己の価値が決まった日。呪力すら何も持ち得なかったと諦められた日を祝おうとは、肉親も、どこかで血が繋がっている数多の親族も、何より甚爾自身でさえも、誰も思わなかった。
折檻部屋から這い出た甚爾は、コンクリートが剥き出しのだだっ広い忌庫の中をおぼつかない足取りで前進する。冷たい柱に肩を預けると、そこが彼の通った軌跡として赤く染まった。
肉体の強さだけでいえば同年代の子供より丈夫な自信はあった。下手をすれば躯倶留の大人連中とも張り合えるくらいには頑丈かもしれない。その奇妙な自負心は、わざわざ無能と烙印を押された己を呼び出しては指導という名の暴力を振るい、少し反抗し噛み付けば忌々しげな視線を向け、呪霊の群れを閉じ込めた部屋の中に投げ入れた躯倶留の連中が何より証明してくれている。彼らは自分達より下位の人間が存在していることが嬉しくてしょうがないのだ。見下すことが与えてくれる安堵というのは、どうしようもなく癖になるのだろう。下には下がいる。この魔法のようで呪いの言葉によって、彼らが己より下位の存在でいて欲しいのだと、甚爾は幼いながらに気づいてしまった。そして、何より下位の存在がいなくなることを恐れている。だからこんなにも辛く当たるのだ。この家の中で学ぶことは人間の醜い部分ばかりだった。
乾いた血がついた手で忌庫の扉を押す。鍵がかかっているのか、己の力が足りないせいかびくともしない。
開かないのならば仕方がない。誰かが様子を見に来るか、自力で出られるくらいに体力が戻るのを待つしかない。
ひとまず何かに包まって横になりたい。陽の光が届かない暗所、それも年を越そうとしている真冬の雪の日ともなれば冷えるに決まっている。血を流しすぎたこともあってか手足の末端が冷たい。
甚爾は忌庫の中を彷徨う。口から吐いた息が唇の先で即座に冷やされるのを感じる。呪具しかないだろうが、きっと何かを包んでいる布くらいはあるはずだ。その希望だけを頼りに薄暗い空間で目を凝らすと、案外簡単に見つかった。
箱の蓋からはみ出した濃紅の布。手に取ってみるとただの布にしては質感が良い。どうやら着物生地らしい。何が悲しくてこんな呪具と一緒に仕舞い込まれているのだろう。そう思いながら甚爾は少々強引にその布を引っ張り出そうとした。しかし何かに引っかかっているのか一向に出てこない。布の先に重みを感じながら、箱の中身が何なのかを思考する。子供が抱えるには横幅が大きい。高さはそこまでなく、縦は大人の肩幅より少し大きいくらいだ。子供一人入る分には余裕がある。大人でも膝を曲げれば入るのではないだろうか。甚爾は布を引っ張り出すのを諦め、自分が箱の中に入ることを選んだ。今は少しでも早く休みたかった。
箱の隙間に身を滑らせて真っ暗な中に入る。思っていた以上に暖かい。掴んでいた布を手繰り身を寄せる。温い。たしかにそこには温もりがあった。
急な覚醒に己でも驚く。飛び起きた拍子に押し開けた蓋が、ガタガタと音を立ててコンクリートの床に転がった。
いつ寝落ちたのか、どのくらい寝ていたのか検討もつかない。暖かい何かに包まれた瞬間から記憶がないということは、すぐに眠ってしまったのだろう。
甚爾は蓋から恐る恐る足元へ視線を移し、寄り添った温もりの正体を確かめる。
「──人、か?」
そう呟いて息を呑む。ゾッとするほど白い肌なのに、唇だけは桃色に色づいている。閉じられた瞼の曲線。横顔でも分かる整った骨格の隆起。陶器のように滑らかな輪郭に、はらりと落ちる髪の毛一本でさえ美しい。まるで人の手で一から作られたかのように全てが完璧だった。だからだろうか、甚爾は生きているかを確かめるために、再びあの温もりを感じようと、女の形をしたそれの頬にそろりと手を伸ばす。
柔らかく温い人肌。間違いなく生きている確信を得た甚爾は、再び女の顔を見る。屋敷の中で見かけたことは一度もない。箱からはみ出ていたであろう濃紅の着物は見慣れないものの、黒紫色の袴は禪院の人間が履いているものと同じだった。
正体が分からないのなら本人に聞けばいい。そう思い立ち、女の肩を揺する。
「おい、風邪引くぞ」
こんな寒い場所で一人眠りこけているなんて、どう考えてもこいつは普通じゃない。甚爾こそ禪院家という狭い世界で普通≠ニ呼ばれる基準を満たしていないというのにそう思ってしまった。
バツの悪い思いで女に触れていた手を引くと、長いまつ毛が震えた。頑なに閉じられていた瞼が持ち上がる。女はゆっくりと瞬いた。それを数度繰り返し、ようやく甚爾を見上げた。
「誰……?」
掠れた声に乗った困惑が、状況を飲み込めていないことを物語っていた。
「それはこっちのセリフだろ。こんなところで何してたんだ」
「……ああ、確かに。よくあるの、急に眠たくなってそのまましばらく寝ちゃうこと」
ゆっくりと上半身を起こし、眉を下げ小さく笑う姿は、寝顔よりあどけなく人間味があった。
「だから、ありがとう。見つけてくれて」
生まれてこの方、誰からも肯定されたことがない甚爾は、雷に打たれたような衝撃に身を熱くした。
──俺が、見つけた。
その高揚を噛みしめれば噛み締めるほど、鼓動の音が大きくなる。
彼女は足元の袴の裾を伸ばし、じいと甚爾の顔を見つめ、右手を差し出した。
「まずはここから出よう。傷の手当てしなきゃ」
口元、痛いでしょう? と彼女は唇を結んだ。
未だに差し出されている手に、誰とも手を繋いだことがない甚爾はどうするべきか分からなかった。それでも、己が、己だけが見つけだした彼女に、何か希望めいたものを感じていた。もちろん根拠はないけれど、今たしかに息をすることができている。それだけが事実で、真実だ。
血によってかさついた手をそっと伸ばし、彼女の白魚のような手へ重ねる。冷たい目をした大人たちによって強引に腕を引かれたことしかない甚爾にとって、自分から他人の手を取るのは初めてだった。
「お前、名前は?」
「千乃」
甚爾は弾かれたように自分の手を包む彼女の顔を見上げた。
「千乃って言ったらあの?」
彼女は甚爾の反応に首を傾げる。あの? といきなり聞かれても、何を指しているのか見当もつかない。
しげしげと彼女の困ったような表情を見つめる甚爾は驚嘆を乗せたため息を零した。
「へぇ……実在したんだな、ジジイどもの戯言かと思ってた」
「ジジイども?」
「当主連中だよ。酒の席で子供の頃は若い女の式神が小間使いとして屋敷の中をうろついてた≠チてよく口にする」
その式神が禪院家を語るには切っても切り離せない存在だということは、この家に生まれた人間なら皆知っている。彼女はこの家の歴史と共にあった。平安時代の当主との縛りにより、存在が抹消するその時まで禪院家に従属しなければならない。もっと詳細に語ると縛りを交わした当主の術式である相伝・十種影法術を使う者に従い、十種影法術使いが現れるまで禪院家の繁栄のために奉仕しなければならない。
どちらにしろこの家からは逃げ出すことはできない永遠の奴隷だ。元は呪いの全盛期に君臨したあの両面宿儺の下僕。千年前、呪霊や呪詛師が蔓延る乱世に名を轟かせ、今もなお存在する特級を冠する呪いの所有物となれば価値もあれば歴史もある。この家の人間達はそんな類稀なる彼女をまるで錦の御旗でも掲げるように家の中に囲い込んでは所有権を主張し、御三家の一つとして数えられるまでの地位を確立していった。
従属しているとはいえ、今の禪院家があるのは長い間この家にその身を捧げてきた彼女のおかげでもある。
そう考えると皮肉めいたものが込み上げた。彼女が自由であったならば、存在さえしていなかったかもしれないこの家に生まれることもなければ、こんなに苦しむこともなかったはずだ。
「……ということは、は数十年は寝ていたことになるのね」
甚爾は一人宙を見ながら何やら呟いていた彼女の手を引き、外へ繋がる道を歩き出す。
「ずっと一人、あんな場所でかよ」
「今回が初めてってわけじゃないからそんな顔しなくても大丈夫」
心配してくれたんでしょう? と顔を覗き込まれる。甚爾は咄嗟に顔を背け、そんなんじゃないと口の中で言った。それは紛れもない本心で、ただ無意識に彼女との共通点を探っていただけだった。逃げ出したくても叶わないこの家の中で、たった一人忌庫の中。それだけでも甚爾にとっては親近感を抱くのに十分だった。
「貴方の名前は?」
「……甚爾」
一呼吸空けてちょうど八年前に名付けられたその名前を口にすると、彼女は足を止めた。
「甚爾は今の優しいまま育ってね」
別に優しくない。そうやって反論しようと口を開くけれど、この家の全てを知る彼女の言葉の重さが甚爾に口を閉ざさせた。
彼女は薄く笑ったまま忌庫の扉を押し開けた。