二十七、望むもの 弐





       ◆◆◆



 ガタガタと音を立てている雨戸の傍で、甚爾はぼんやりと明るさを失った電球を眺めていた。
 近年稀に見る大型台風が関西に上陸していた。外では雨風が、内では停電と雨漏りに皆が忙しなく動いている。そんな中、幼子の泣き声が響く。
 甚爾は長い廊下の先からやってくる泣き声の主へ徐に視線を向けた。数人の女中に囲まれ、大きな瞳から溢れる玉のような涙の粒を拭われ、言葉をかけられながら丸い頭を撫でられ、甲斐甲斐しくあやされている。あんなガキがいたのかと思う一方で、屋敷のどこかで子守をさせられているはずの千乃を思い出した。
 彼女とは随分長い間顔を合わせていない。離れに入ると聞いてからしばらくは姿を見なかったし、やっと見かけたと思いきや赤子に付きっきり。そんな状態の彼女にわざわざ自分から声をかけに行くのは、ようやく思春期を迎えた甚爾にとっては非常に困難だった。

「千乃を見ていませんか」

 幼子を囲んでいた女中の輪の中から一人、こちらにやって来た女が、唐突に固さを残した声色で尋ねてきた。冷たい視線が刺さる。それもまたいつものことだと特別気にすることもなく、甚爾は突き放すように言う。

「知らねぇな」
「そうですか。今朝から姿が見当たらなくて直哉様がお探しなのです。もし見かけたらそのように伝えてください」

 なるべく関わりたくないとでも言いたげに、ではと言い残し背を向けて去っていく女中。甚爾は興味を失ったように視線を外した。



「千乃」

 あの女中に言われたから探しに来たわけではない。ほんの少しだけ気になっただけ。そう言い訳じみたことを思いながら、閉じられた障子に向かって彼女の名を呟いた。
 中から返答はない。気配がないのを悟りながらも、彼女に充てがわれている部屋を覗き込む。

「いないのか」

 しんと静まり返った部屋を見渡す。千乃と頻繁に顔を合わせなくなって二年ほど。よくここで暇を潰していたことが遠い昔のことのように感じられた。
 甚爾はそのまま彼女の部屋を後にする。行き先に見当もつかないまま、暇潰しだと言い聞かせながらふらふらと屋敷の中を探し歩いた。それでもいないとなれば外しかない。
 気づけば横殴りの雨の中、庭先に佇んでいた。一瞬で濡れ鼠と化した甚爾は、渦を巻く頭上の雲を見上げた。

「何やってんだ俺」

 千乃は誰かの許し無しにここから出ることはできない。故に少し姿が見えなかっただけで躍起になって探す必要などないのだ。

「くだらねぇ」

 強風によって飛ばされてきた葉が頬に張り付く。甚爾はそれを剥ぎ取りながら吐き捨てた。
 それでも何故か言いようのない不安に駆られる。根拠はない。けれど、もし彼女と出会った時と同じように、どこか人目のつかないところで眠りについていたら──。そう考えると何故だか絶対に探し出さなければならないような気がしてくる。
 甚爾はしばらく思考を巡らせてから歩き出した。行き先は千乃と初めて出会った場所、忌庫だった。
 場所さえ絞ることができれば、底上げされた五感を頼りに辿り着ける。

「当たりか」

 千乃が纏う柔らかな匂いと濃い呪いの匂いを追う。甚爾はそのまま奥に進み、昔己が投げ込まれた折檻部屋へ足を踏み入れた。
 やけに静かだった。普段なら真っ先に襲ってくる呪霊たちが大人しい。その違和感はまさしく千乃がここにいることが原因だった。
 柱の影に回り込むと隅で小さくなっている彼女の姿が目に飛び込んでくる。

「おい……大丈夫か」

 傍に寄り声をかけるけれど返答はない。甚爾は膝を折り、耳を塞ぎ俯く彼女の肩を揺さぶった。

「おい、おい!」

 一向に顔を上げない彼女。声色に焦りが滲む。顔を寄せれば、彼女が何か言っているのが分かった。

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」

 怖気が背筋を走った。何が原因かは分からないがとにかく錯乱している。思わずギョッと身を引いた甚爾は、彼女の耳を覆う両手を掴み、声を張った。

「千乃!」

 半ば無理やり顔を上げさせると、虚ろな目がこちらを向いた。ここではないどこかを映し出すその瞳に何も言えないまま、彼女が吐き出した呪詛のような言葉に耳を傾ける。
 ──どうして。何がいけなかった。苦しい。私も連れていって。一人は嫌だ。寂しい。どうしたらいい。今更私に何ができる。辛い。もうやめたい。消えてしまいたい。救われたい。望んじゃいけない。罰されたい。助けて。見放さないで。

「宿儺様」

 彼女が呼んだ名に殴られたような衝撃を受けた。千年の月日が流れても尚、昔の主を想いその感情に振り回されているというのか。どれほどの傷を負えばそうなるのか、甚爾には到底想像もつかない。
 空虚な瞳から一筋、涙が伝った。何故だか苦しいほどに痛む胸を抱えた甚爾は、ただ「しっかりしろ!」と叫ぶしかない。しかし、一向に正気を取り戻す様子はなかった。

「クソッ、こうなったら力づくにでも外に──」

 痺れを切らし、引っ張り上げた彼女の腕を己の肩に回す。そのまま立ち上がり出口を目指そうと歩き出すと、それまで脱力していた彼女が抵抗し始める。

「嫌……っ! 外には行きたくない!」
「何でだよ!」

 互いの叫び声がだだっ広い空間に反響した。訪れる静寂の中、千乃は雨、と呟きポツポツと口火を切った。

「宿儺様が、あの日…………天気が、一緒なの」

 怖い、と縋り付いた彼女に、甚爾は目を見張った。
 確かに外は大雨と強風により、どこかで河川の増水や土砂崩れの被害が出ているだろう。分かっている。そんな自然災害が怖いと言っているわけではない。
 両面宿儺の存在が彼女の心の傷になっている。天気はそのトラウマを呼び起こす一因なのだろう。
 甚爾は千乃の震える肩を抱いた。彼女はこんなにも小さく、頼りなかっただろうか。そう頭の隅で思考していると、一番本音に近い言葉が零れ落ちた。

「なんだよそれ」

 千乃の一番は、自ら取り上げた幼子でも、ましてや長い眠りから呼び起こした自分でもない。今も昔もずっと千年前の主、両面宿儺なのだと甚爾は気づいてしまった。
 しかし、気づいたところでどうすることもできない。暗く呪いが渦巻くその場所で彼女の身体を抱き締めたまま、雨が止むのを待つしか無かった。






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永遠に白線