三、心魂開闢 参



 頭上を鱗の雲が泳いでいる。急に空が高くなったように感じられ、襷を締め直してからぐっと伸びをした。
 涼やかな風が、ところどころ紅く染まり始めた山並みをつたい駆け降りていく。風に弄ばれた着物の裾を押さえた私は、掃除のため蔵から出した書物が飛ばされていないかと駆け寄ると、濡れ縁に立つ宿儺様と鉢合わせた。

「虫干しか」
「はい。ここ数日乾いた日が続いているので、ちょうど良いと裏梅さんが」

 廊下に並べていた書物は、どれも飛ばされることなく無事だった。問いかけに答えながら手早く確認を済ませ、早々に引き上げるべく「失礼します」と一礼する。
 くるりと踵を返し、蔵の中へ戻ったはいいものの、背後から足音が付いてくる。それは言わずもがな宿儺様のもので、私は掃除の途中で中途半端に散らかった蔵の中を見られるのがどうにもバツが悪く、おずおずと振り返った。

「あ、あの、まだ片付いていないので……」
「かまわん。不要な物を選定するだけだ」

 宿儺様は「気にせず続けろ」と言い放ち、そのまま背を向けた。私に出来ることといえば、なるべく宿儺様の気に留まらないよう存在を消すことしかない。
 埃と土気の混じった湿っぽい匂いが、鼻の奥に纏わりつく。浅い呼吸が余計に緊張感を煽った。静かな空間は心地の良いものではなく、常に失態を見張っているかのように張り詰めている気がした。
 私は足元の塵を掃き、それでも取り切れない汚れを布巾で拭うことを延々と繰り返していた。そうやってただひたすらに時の流れに身を任せていると、宿儺様が蔵から出ていく。隅には彼が不要の烙印を押した品々が積み重なっていた。

「要らない物はこちらで全部ですか」
「ああ。適当に燃やしておけ」

 入口で足を止めた宿儺様から、再び不要な物達へ視線を戻す。

「市に、出して参ります」

 ただ一言、肯定すれば良いはずだったのに、意図せずその言葉が零れ落ちていた。
 要らなくなったら焼かれてしまうのか。所有者の意志によって使い、捨てられる。それは当然のことなのに、とても恐ろしいことのように思えた。
 しかし、いくら恐怖したところでそう言えるわけもなく、私は何でもないと首を振り「明日にでも焼いておきます」と頭を下げた。頭上からは、当然の如く視線を感じる。
 しまった、口が滑ってしまった。何を言われるのか、と沈黙をひたすら耐え忍ぶ。

「最近、検非違使けびいしの数が増えたようだったな」
「は、はい……そのようですね」

 急な話題の逸れ方に、私はぎこちなく頷く。
 確かに宿儺様の言う通りだった。供として彼と山を下った際に、数多の検非違使が門を通る人々に目を光らせているのを見た。警備体制が強化されていることは、わざわざ入京せずともその様子から明らかだったが、何が原因かは遠目であったため、到底分からなかった。

「しばらく都に降りて市井の様子でも見て来い」

 宿儺様はそう一言放つ。
 これまでも諜報の類は任されたことがあった。それに比べれば此度の命令は、なんてことのない容易いものだった。
 京へ一足踏み入れれば、何かしら原因は分かるだろう。私は「承知しました」と迷いなく首を縦に振る。しかし、宿儺様は私が安請け合いをしたと捉えたのか、眉を顰めた。

「本当に分かっているのか」
「はい、勿論です」
「お前はこれを持って市に行くのだぞ」
「え、」

 これ、と指で示したのは先程燃やすよう言われた不要な物の山だった。
 宿儺様は「やはり分かっていなかったではないか」と眉間に刻んだ皺を解き、ため息に似た長い息を吐いた。

「何故驚く。お前が言い出したのだろう」
「そう、ですね。その通りです」

 己の意見が無視されなかったことに戸惑いを隠せず、たどたどしく首肯した。そして、次に続く宿儺様の言葉を何より恐れていた。

「他ならぬお前自身が意見したのだぞ」

 念を押すような事実確認。首を縦に振るだけが仕事と言っても良い存在が、意思を持って言葉を発したことは、やはり無視できなかったのだろう。
 何と発言するべきか、そう考える思考でさえも容易く読み取られているような気がした。四つの目から注がれる視線が痛い。逃げ出したいけれど、逸らすことはもっと許されない。
 威圧感に耐え切れず口を開いた時、外で足音が鳴った。

「千乃、少し休憩を挟んでは」
「……裏梅さん」

 ひょいと顔を覗かせた裏梅さんは、宿儺様に気づくとすぐに佇まいを正し、恭しく頭を垂れた。

「宿儺様もこちらにいらしたのですね。麦湯を用意したので休まれてください」

 意図せず裏梅さんに救われてしまった。
 それまでの会話などなかったかのように宿儺様は何事もなく立ち去っていく。私は愁眉を開くと共に、罪悪感によって痛んだ胸にそっと手を当てた。






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永遠に白線