三十三、最善の果て 肆
カン、カン、カン! とけたたましい警鐘が紅に染まった屋敷中に鳴り響く。
炊事場にいた女中数名が短い悲鳴を上げ、手を止めた。ぐつぐつと煮立った味噌汁が、鍋の中で密かに存在を主張している。
私は即座に火を止めて勝手口を開けた。そのまま飛び出すと、必死な形相で駆けてきた躯倶留隊の男とぶつかりその腕を掴んだ。
「何事!?」
「甚爾が、躯倶留隊隊長及び、隊員数名を殺害しました……!」
鐘の音が鼓動のように身体中を駆け巡る。吹き出した冷や汗が背筋を伝う。
男は「炳への報告を急ぎます」とその場を立ち去った。私もまた重たい足を動かす他なかった。
日が沈む。先ほどまで斜光を反射していた水面が、闇に溶けている。私は池に沿って庭を突っ切り、躯倶留隊の訓練場に足を踏み入れた。噸の間を抜け、廊下の角を曲がる。
そこには血溜まりに佇む甚爾の姿があった。
「……甚爾、これは」
同じ血を引いた者たちの血液が混じり合っている異様さ。だらりと脱力した手に握られた抜き身の刀。
そこから滴り落ちた血液が、血溜まりと一つになる。濃い鉄の匂いに言葉を失った。
甚爾は私を認識すると、至って平静に淡々と口を開いた。
「あ? ああ、コイツが見合いだの何だのうざかったんでな。殴ったら死んだ。他のは知らん。刀を抜いてきたから殺した。それだけだ」
「……そんな、ここまでする必要なんて」
「手加減できるような出来た人間じゃないもんでな」
自嘲する甚爾に、焦りを覚える。このままではもう引き返せない。同胞の命を奪ったまま、ここに居続けることもできなければ、見合いという形で穏便にこの場から逃すこともできない。呪術規定に基づき裁かれる立場になってしまえば、もう私の力で立場を守ることはできなくなってしまう。
今まで懸命に画策していたことは全て白紙に戻った。遠い昔から手を血に染めて来た分際で、今更命の重さを説くなんてことはしない。今は甚爾にとって最善の立ち回りと、この惨状に至った原因を──
「よかったな」
脈絡なく投げかけられた言葉が、私の思考を止めた。
何もよくない。この状況でいいことなんて一つもない。私は眉を顰め、甚爾を見据えた。
「これで厄介払いに婿にやるなんて回りくどいマネしなくて良くなっただろ」
「……」
沈黙するしか為す術がなかった。原因は、間違いなく私が放った言葉だ。
甚爾の耳に入ることは予想していた。だから事前に分かりやすく距離をとった。そこまですれば、物分かりのいい彼は全てを飲み込んで限りなく自由に近い場所で幸せになってくれると思ったのだ。
まさかここまでするとは。完全に予想外だった。
「ハッ、黙ってないで何か言えよ。どうせお前も影で笑ってたんだろ」
「ちが……っ!」
弾かれたように顔を上げると、すぐ目の前に手が伸びていた。胸元を掴まれ、容赦なく引き寄せられる。
「ずっと騙されてたってわけか」
ギリギリと締まる喉元に顔を歪める。しかし、私よりも辛く痛みに目を細めるような彼の眼差しに、息を飲んだ。
大切な人を、傷つけてしまった。信頼を裏切り、恨まれるのは覚悟の上。それでもこれが彼の幸せには必要だと望んでやったことだ。もう後戻りはできない。
私は狭まった声帯を必死な想いで震わせる。
「……もう、二度と戻って来ないで」
「言われなくても」
二度と来るかよ、こんな場所。そう呟いた甚爾は、掴んでいた手を離し、咳き込んでいる私を静かに見下ろした。
「望んでくれたんだと、思っちまったじゃねぇか」
甚爾はその言葉だけを残し足音もなく立ち去った。それを追うことは、決定的な拒絶を言い渡した私に、できるわけもなかった。
赤黒く染まった床を、残された迷いをかき消すように何度も何度も擦り上げる。
遺体の回収と負傷者の治療に人員を割かれ、片付けには手が回っていない。まだ混沌とした屋敷の中で、私は一刻も早く甚爾の痕跡を消すべく、雑巾を握りしめていた。
これでよかったんだ。自惚れではなく、甚爾は私の思う以上に信頼し、想いを向けてくれていた。ここまでしなければ家を出ることができなかったのなら、私の選択は決して間違っていなかった。
血に汚れたその場所で座り込んでいた私は、ゆっくりと立ち上がる。ぼんやりとした頭で雑巾が足りないことを思い浮かべ、甚爾の部屋の中に足を踏み入れた。
掃除道具くらいどこかにあるだろうと、押入れの戸を開けるが、それらしき物はない。残された私物は服くらいだろうか。他は布団が置かれているだけの簡素な収納。これなら今日中に片付けられ、ここはすぐ空き部屋になるだろう。
心に穴が空いたような空虚な想いに小さく息を吐いたが、すぐにそんなことではダメだとため息を取り戻すように息を吸った。ふと上を見る。押入れの奥の天井が少しずれていることに気がつく。
「呪力……?」
普段生活を送る分には気づかないような微かなものだ。
私は押入れの中に入り、そっと天井を押した。一部の板が外れる。そっと埃っぽいそこ覗き込むと、布に包まれた呪具があった。
「これ、もしかして甚爾が隠してたもの……?」
呪具は基本的に忌庫の中に保管している。日常的に使う物は当主の許可の元、持ち出し携帯することができる。これらはおそらく一時的に持ち出し、忌庫に返却していないもの。いわゆる借りパクしたままの状態だ。
私は板を戻し、天井を封じた。本来ならば呪具を回収し、忌庫に戻すのが正しいのだろう。けれど負い目がある私には、このまま見て見ぬふりをすることの方が正しいことのように思えた。
静かに部屋を出る。掃除道具は噸の間の物を使おうと歩き出すと、廊下の先には寝間着姿の直哉が立っていた。
「甚爾くん、出て行ってしまったん?」
「……」
もう寝る時間でしょうと、諭す言葉が喉元で引っかかった。黙りこくる私に、直哉は年に似合わない大人びた口調で口火を切った。
「甚爾くんはずっと千乃とおるんかと思っとった」
「……そう」
何故、と聞く気も起きなかった。
視線を落とすと、ぐい、と袖を引かれる。
「千乃が止められんなら誰にも無理やろ」
眼差しに冷たさを宿した直哉は、私が来た先を一瞥し、血生臭さに鼻を鳴らした。