三十四、後の祭り 壱
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──ずっと見ていた。自分に向けられていない視線の先までも。
だからこそ、直哉は今よりずっと幼い頃から知っていた。千乃の視線の先にいる甚爾のこと。甚爾の視線の先にいる千乃のことを。
あの騒動から幾度も年を重ねても、あの互いが瞳に映った時の目尻の柔らかさを、未だ忘れることはなかった。
茹だるような暑さが、汗ばんだ身体に纏わりつく。京都の夏は特に暑いとよく耳にするが、京都以外で夏を越したことがない直哉にとっては、それが真実かどうか確かめる術がなかった。
ガラリと戸が開けられる音につられ、玄関の方へ視線を向ける。そこには甚壱と蘭太と共に荷物を運び出す千乃の姿があった。
直哉は足元に積み上がった躯倶留隊の男たちの上から飛び降りて、炎天下に晒された砂利を蹴った。
「千乃! そないなむさいの相手しとらんで構って!」
声を張り上げて駆け寄れば、千乃の世界に己が映る。この一瞬が直哉にとって何より昂る瞬間だった。
「今日の稽古は?」
「アレ」
先ほどまで己が踏みつけていた男の山を指差す。
その光景を見た千乃は苦笑いを浮かべた。彼女の耳には「次期当主だから手加減してやってんだよ」「ガキのくせに生意気ばっか」「性格終わってるクズ」「うんこ」「うんこクズ」と罵詈雑言の囁き声が届いていた。
「なぁ〜喉乾いてん」
「じゃあ、カルピスでも飲む? 濃いめの作ろうか」
「麦茶でええ。ガキ扱いすんなや」
小石を蹴る直哉を横目に、千乃は眉を下げる。そして腕の中でいくつか重なっている熨斗が掛かった箱を持ち直す。
「そういうわけじゃなくて、お中元でたくさんもらって余ってるの」
一気に届いたお中元を運ぶ彼女たちは、勝手口から炊事場に足を踏み入れた。日差しから逃れた屋内とはいえ、火を扱う場所はやはり蒸し暑い。
直哉はいの一番に座敷に上がった。運び込んだ物を置いていく甚壱と蘭太の様子をながめながら、我関せずくつろぐ。
「運んでくれてありがとう」
「いえ、とんでもない」
礼を言った千乃は、冷蔵庫の中から瓶を取り出した。
「二人も飲む?」
「余っているなら。甚壱さんも飲みますよね?」
「ああ」
透明なグラスを三つ出した彼女は、乳白色の原液をとくとくと注いでいく。その小気味の良い音に耳を傾けながら、直哉は心底おかしそうにククと喉の奥で笑った。
「蘭太君はともかく、甚壱君がカルピスて、似合わんね」
「誰が何を飲もうと勝手ですよ」
「いい、蘭太。言わせておけ」
決して仲が良いとは言えない雰囲気の中、千乃は特に気に留めることもなく、三人に濃いめに割ったカルピスを手渡した。
甚壱と蘭太は味わいながらも良い飲みっぷりで炊事場を出ていく。対照的に一口飲んでしばらく氷をカラカラと鳴らしていた直哉は、その冷たさを堪能していた。
「なぁ〜ここクーラー効いとらんの?」
「火を焚いてるから、どうしても涼しくならないの」
「それはまぁ暑い中ご苦労さんやな」
全く労っていない口調でそう言った直哉は、畳の上にゴロンと寝転がった。手元を探ると誰かが置き忘れたうちわがあった。それを千乃にずい、と押し付ける。
「あおいで」
「ちょっと待って」
千乃は空いたグラスを片付けてから、座敷に上がった。横になった直哉の傍に座り、ゆっくりと風を送る。
まだ少年らしさが残る丸い後頭部を、柔らかい黒髪がふわりと撫でていた。その様子を微笑ましく見ていると、それまで静かに風を受けていた直哉がむくりと起き上がった。
「代わったる」
「え、いや……」
「えーから」
気まぐれにうちわを取られた千乃は、直哉に押されるまま畳に背をつけた。パタパタと緩やかに往復する風に身を任せる。それが心地良く、薄らと目を細めた。
「千乃は俺と一緒やもん。特別」
どこか満足気な直哉は、目尻を下げた。
「俺な、甚爾君とおんなじとこに行きたいねん」
「甚爾……?」
懐かしい名前に、千乃の肩が跳ねる。それに気づいた直哉は、あおぐ手を止めて彼女の頭を柔らかく撫でた。
あれから五年の時が経っているが、甚爾の詳しい行方は誰も知らない。時折、術師殺しとしての悪行が耳に入ってくるが、縁を切った彼をどうこうしようという話は今のところ出ていなかった。
「置いてかれて悲しいなぁ」
悲しいのだろうか。彼女は微睡かけた思考で、ぼんやりと直哉を見上げた。
あの頃から無理やり風化させた想いでは、自分の知らないところで幸せになってくれたらそれだけでいい、と思うくらいだった。
「直哉は、悲しいの?」
「……ちょびっとだけな。でも甚爾君はこんなとこで燻っていい存在やない。だから当然と思うとるよ。……内緒やで」
千乃にとって、直哉の言葉は意外だった。前々から甚爾の名を口にすることが多い理由が分からなかったが、彼は彼なりに甚爾を評価していたのだと、驚きに目を丸くした。
「でも、置いてかれたんは結局一緒やよ」
直哉はそう言って千乃の髪を梳いた。
幼さを抜け出そうとしている彼の手は、まるでこれまで千乃が撫でてきた手つきを真似ているようだった。