三十八、懐玉・玉折 弐
終電間際の東京駅。人々が足早に散っていくのを横目に移動した私達は、古びたビジネスホテルに連れてこられていた。
コンコン、と数度ノックした孔がドア越しに中へ声をかける。
「伏黒、入るぞ」
「ああ。開いてる」
ふしぐろ、と私は口の中で唱えた。その聞きなれない姓に返答したのは間違いなく甚爾の声だった。
迷いなくドアを開けた孔は、状況を飲み込めない私へ先に中に入るよう促す。部屋の中に足を踏み入れると、どかりとベッドの端に座った甚爾と目が合った。
「まぁ、お前なら来るよな」
「来るように仕向けたのは甚爾でしょう。……そうじゃなきゃ自分の使役する呪霊を渡したりしない」
ニヤリと口角を上げた甚爾へ、呪霊を渡す孔の様子を横目に淡々と告げる。甚爾は手元に戻って来た己の呪霊の中からズルズルと呪具を引っ張り出した。
「ああ。お前の性格上、返しに来ると読んでたが、それを分かってて来たのかよ」
「持ち出した呪具の所在に責任を持たなきゃいけないから」
「相変わらずクソ真面目だな。俺に脅されたとでも言えばお前が責められることはないだろ」
簡単に言ってくれる。たとえそう言ったところで、全てが丸く収まるとは限らないのだ。
そうぼやきたいのは山々だが、最も引っかかっていることを甚爾へ尋ねる。
「それより伏黒って……?」
「ん、あ〜そういや言ってなかったな」
手に馴染ませるように昔己の使っていた呪具を確認していた彼は、手を止めて顔を上げた。
「お前、前に言ってただろ」
「……何を?」
「婿に入らせようって」
何も言えず、言葉を失った。甚爾の瞳に薄らと滲む過去。それは私がよく知っている色だった。
「それだけが婿に入った理由じゃないが、まぁ成り行きだ、成り行き」
古傷が痛むように胸の奥が締め付けられた。当てつけとも取れる悪趣味な理由を責めることもできない。
甚爾は目を伏せて手の中の呪具を呪霊の体内に戻していく。その様子をそれまで一切口を挟まず静観していた孔が頃合いかと口を開いた。
「呪具の確認は済んだか?」
「ああ。問題ない」
「ならいい。……ったく、人使いが荒いんだよ。お前、ここまで俺がしてきたことが何か分かるか?」
大きなため息を吐き、スラックスのポケットから煙草を取り出した彼は、徐に火をつけて語り出す。
「昨日、お前が拉致して来た星漿体のメイドを引き取った後の話だ。ついでに禪院家に残してきた呪具を取って来いって言われたあと、大慌てで盤星教の奴らと段取りを確認してすぐに京都に行く羽目になったんだぞ。今日タイミング良く彼女とコンタクトが取れたから良かったものの、無駄足になってたらどうしてたんだよ」
「さぁ? そん時はそん時だろ。俺だってアイツらがいつ沖縄から帰ってくるか、東京で張っとかなきゃいけなかったからな。まったく、自由に動ける奴は大変だな」
「お前なぁ……まぁいい。明日予定通り、午前十一時に懸賞金が取り下げられる。計画に変更は?」
「ねぇ。手筈通りだ」
甚爾の返答に相槌を打つようにふわりと煙を吐き出した孔は、何かを探すように視線を彷徨わせた。
恐らく灰皿を探しているのだろう。私は傍にあった重たいガラス製のそれを彼の元へ寄せる。すると、彼は思い出したように甚爾へ目配せをした。
「そうだ、彼女はどうする?」
「どうするって?」
「ハァ。今夜の部屋だよ。一部屋空いてるか確認しろって言ってもしないだろお前」
確かに連れられるままに来てしまったせいで、寝床のことは何も考えていない。この部屋のベッドのサイズはセミダブルくらいだが、甚爾が座っているせいで小さく見える。これが一人用であればもう一部屋欲しいところだろう。
それぐらいであれば自分で確認すると言いかけたところで、甚爾はぐいっと私の腕を引いた。
「んなもん必要ねーよ。ここで十分だろ。なぁ? 千乃」
「え? あ、あぁ、うん。私はどこでも」
そう反射的に頷いてしまったが、引き寄せられるまま腰に回った甚爾の腕に、選択を間違えたかもしれないと思い直す。
「……そーかよ。きっちり仕事してくれりゃ俺は何も言わん」
ぐりぐりと煙草の火をもみ消した孔は背を向けてドアに向かって歩き出す。
「寝過ごすなよ」
「ハッ、そんなヘマするかよ」
軽く手を上げた彼に頭を下げる。
バタン、と戸が閉まった重たい音に、私は甚爾の腕から抜け出したい一心で鍵を閉めにその場を離れた。
「……五条悟と戦うって」
ガチャン、と手の中で放たれた施錠の音。背中を向けながら呟いたにもかかわらず、甚爾はしっかりと私の声を拾い上げ反応を示した。
「ん? あぁ……まぁ、向こうがどれだけのバケモンかは知ってんだ。だったらこっちもそれ相応の準備はしないとな」
だから昔使っていた呪具まで用意したというのか。確かに手数が多いに越したことはない。それでも、わざわざリスクを負ってまで禪院家内にあった呪具を持って来させるなんて。
すでに甚爾は、禪院家と五条家の確執とは関係のないところにいる。それでも進んで五条悟と対立するのは賢い道とは思えない。
何も言えずにいた私は、静かに甚爾を見つめた。
「そんな浮かない顔してねぇでお前は明日のんびり東京観光でもしてろよ」
「……浮かない顔にさせた張本人に言われたくない」
「なんだ、怒ってんのか」
意外そうな声を上げる甚爾に、私は胸の内にかかった靄を吐き出す。
「だって、いきなり理由も知らせず、呪具を持って来いとだけ言われたら怪訝にも思うでしょ。私が持って来ないっていう可能性もあったのに、そんな当たり前みたいな顔されたら……」
「でも来ただろ」
私の悩みを断ち切るような確かな声でそう言い放った甚爾。彼は徐に立ち上がると、私の目の前に立った。
手が伸びてくる。少しカサついた指の腹が顎に触れ、輪郭をたどって頬を包む。彼の目を見れずにいたは私は、部屋の隅を這う呪霊を見つめ、意識を散らしていた。
「お前は俺が見つけた」
その言葉に肩が跳ねた。
たしかに、私達の原点はそこだった。そしてそれを今も己に言い聞かせ、支えであるかのように言う彼に、いくら時が流れても根底にあるものは、あの時から何も変わっていないことを思い知らされる。
あの時、甚爾に見つけられていなかったら、私は彼を気にかけて過ごしてはいなかったかもしれない。
耳の裏を撫でられたくすぐったさに負けて、視線を上げる。何かを確かめるかのように注がれる眼差し。私には胸元につかえる切なさを無視することができなかった。
「あんな家で馬鹿みたいに道具に成り下がってるだけなら、ほんの一時くらい俺のものになってもバチは当たらないだろ。……バチならもう一生分当たってんだ。お互いにな」
彼の執着が、諦観が、痛みを伴ってこの身に刺さる。押し倒され背がベッドに沈んでも、動けずにいた。
「気が立ってんだ。優しくはできねぇが相手、してくれるよな」
いつの日か受け止めていた熱が目の前にあった。私は自分の上に跨る彼を見上げながら、ようやく言葉を絞り出した。
「……都合のいい性欲処理相手に、そんなこと聞かなくても」
「は……もしかしてずっとそんな風に思ってたのかよ」
目を見開いた甚爾は黙り込んだ私を見て「図星か」と呟いた。
「だって、そういう時期だったから……」
「じゃあなんだ。お前、盛りのついた猿には全員抱かせてんのかよ」
「それは違う。甚爾は……大切だったから。あの時、それを伝える最善の手段を選んだだけ」
嘲るような彼の眼差しの前で、静かに首を横に振る。
私の選んだ道はきっと正しくはなかったのだろう。それでもあの時は良いと思って決めたことだ。完全に間違っていたとは思えない。それとも、そう思うことさえ間違いなのだろうか。
いつまで経っても善悪以前に相手を傷つけた。だからこそ、今こんな状態に陥っているとも言える。
「……心配させてもくれないのに、都合のいい時だけ呼び出すのは酷いけど、私の方が酷いことをたくさんした」
皺の寄ったシーツの上で脱力している彼の手を握った。指先が微かに冷たい。
「ちゃんと謝れてなかった。……ごめん」
甚爾は一度謝ってくれていたのに、私は何も伝えられていなかった。
覆い被さるように倒れてきた彼は、私の首元に顔を埋めた。頬を撫でる髪がくすぐったい。
「今更だな」
「そう、だよね」
「……もっと早ければ変わってたか」
「どうだろう」
過去に思いを馳せ目を細める。耳の横でボソリと呟くように言った甚爾に応えるように、私は彼の背に腕を回した。